聖書のメッセージ


2018年2月11日(日曜)

降誕節第7主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「共感に生きるキリスト」
聖書 マルコ8章22節−26節
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一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
 マルコ8章22節−26節 聖書・新共同訳
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 23節に「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出された」とあります。イエスの傍には多くの人々がいたでしょうし、盲人が連れて来られたので更に人は増えたことでしょう。そうした中でイエスは盲人を村の外まで敢えて連れ出されたのであります。群衆の一人から、主イエスとの人格的、対話的な向き合う関係に導こうとされたのでありましょう。  
イエスの御業は繰り返し聞いておりますように、労苦する人への深い憐れみ、すなわち深い共感によって苦しみを理解し癒しをされたことが記されていました。主イエスは、神から見放されていると考えられていたこの人を「われと汝」という向き合う関係に導き入れられたのでありました。
 このことはわたしたちキリスト者にとって重要なことであります。神が主イエスによって語りかけ働きかけられます。そのことによって、わたしたちはそれに応答して御言葉に聞き従って生きる者とされます。真にわたしたちの信仰生活は、生ける神との応答関係に生きることであります。
 主イエスは、目に唾をつけ、そして両手をその目に当てられたとあります。丁寧な振る舞いです。盲人は主イエのこうした振る舞いによって、主イエスの自分に対する深い御思いを感じ主の憐れみ、共感を覚えたことでしょう。
 26節には、主イエスは「この村に入ってはいけない」と言われたとあります。村に入れば、多くの人々が癒しの御業を見て驚くことでしょう。しかし主イエスの御業は単なる病気の癒しではありませんでした。預言者イザヤによって、預言されていたように、主イエスの御業は、神が深い憐れみによって人をも自然をも、創造の姿に回復されるという恵みの御業でありました。尚、イエスの十字架の死による贖いの御業と復活によって、この回復の御業がなされるのであります。癒しだけが独り歩きすることをイエスは警戒されたのでありました。
「家に帰された」とあります。当時は病にかかることは罪の結果と考えられ、神から見放された人と考えられていました。目が見えないということは、家族にとっても辛いことでした。しかし神から見放されているということは、更に辛いことです。解決の道がないのです。主イエスは、こうした本人の労苦も、また家族の労苦も深く理解し共感しておられたので、直ちに家族の許へと返されたに違いありません。 わたしたちも今、主の深い憐れみ、共感に基づく比類のない恵みに与っています。主の贖いの御業によって、罪を赦され、主の御霊である聖霊を授与されて、父なる神との交わりの内に生きる者とされております。この比類のない恵みを感謝し喜んで、神との人格的対話的な交わりという、応答関係に日々歩ませて頂きましょう。