聖書のメッセージ


2018年2月4日(日曜)

降誕節第6主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「溢れる憐れみ」
聖書 マルコ8章11節−21節
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ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。
 マルコ8章11節−21節 聖書・新共同訳
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 11〜12節に「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め」ました。するとイエスは、心の中で深く嘆いて「どうして、今の時代の者たちは、しるしを欲しがるのだろう・・・」と言われたとあります。
 主イエスは、深い憐れみ、共感から、既に労苦する人々に対して神の国の福音を宣教し、数々の病を癒し、空腹の大勢の人々の給食もされました。こうして、主イエスは、御自分が神から遣わされた人としての証しをして来られました。
しかしファリサイ派の人々は、イエスを試そうとして、自分たちを納得させるしるしを要求したのであります。主イエスはこの要求に対しては全く対応しようとはせず、彼らをそのまま残して、舟に乗り向こう岸へ行かれたとあります。
ファリサイ派の人々が、自分で納得して信じるような業をなす神を求め、そのような神を信じるとするのであれば、その神は、ファリサイ派の人々の欲求に従う神であり、彼らが造り出した神であります。このことはまた、自分を神とすることでもあり、偶像礼拝の姿であり、十戒の第1戒と第2戒に違反する行為であります。主イエスは、そうした要求には全く対応されなかったと記されています。
その後の舟上でのことが14〜21節に記されています。弟子たちは、4千人の給食をされた時のパンを持ってくることを忘れ、船にはパンが一つしかないので心配していました。その時主イエスは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に良く気を付けなさい」と戒められました。弟子たちはパンのことかと考えていましたが、主イエスは、5つのパンで5千人を養われた時、残りが12籠に一杯あったこと。また7つのパンで4千人を養われた時は、そのあまりが7つの籠に一杯あったことを告げ、一つのパンがあれば、主イエスの憐れみによって弟子たちは溢れるばかりの養いを受けることが出来ることを示し、どうしてわたしを信じないのか、と弟子たちの不信仰を指摘しておられます。
主イエスは弟子たちの不信仰を指摘されましたが、この不信仰には人間の根本的な罪の問題が係っていることを示されました。先に見たように、主イエスへの信仰を妨げるパン種は、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々に、典型的な形で表れておりました。彼らはイエスを信じないで殺そうとしていますが、この不信仰の根本的原因は、彼らが自分の望む神を求め、自分を神とする偶像礼拝をしていることにある、と言われています。そのために、神から遣わされ、神の御業を成しておられる主イエスへの不信仰に陥っていることを指摘されたのでありました。
偶像礼拝というパン種が、信仰と全生活に展開して行くことを覚え、神礼拝に生きることを祈り求めましょう。