聖書のメッセージ


2018年1月28日(日曜)

降誕節第5主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「日常の生活に向かって」
聖書 マルコ8章1節−10節
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そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
 マルコ8章1節−10節 聖書・新共同訳
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 1節に「その頃、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので」とあります。「また・・・」とありますから、6章の5千人の給食のことが強く意識されている記事であることが分かります。両方に記されている主イエスの姿に注目し、マルコ福音書が何を伝えているかを聞きましょう。
 6章の5千人の給食はユダヤ人の地、ガリラヤにおいてなされた御業でありました。しかしこの4千人の給食の記事は、テイルス、シドン、デカポリス等での癒しの御業に引き続いて記されていることですから、異邦人の地において行われたことだと考えられます。 異邦人の地における御業であることは、残ったパンを入れた「籠」の違いも物語っています。5千人の給食の時はユダヤ人が食べ物などを運ぶ「籠」でしたが、この4千人の給食の時の「籠」は、布製の異邦人が使う人が入るほど大きな「籠」であります。因みにパウロがダマスコの城壁を越えるために入れられた「籠」は、この語と同じです。 6章の給食の場合は、イエスは群衆の飼う者のいない羊のような有様を見て「深く憐れまれた」とありますが、この4千人の給食の場合は、群衆の空腹について「かわいそうだ」と言っておられます。ところで、この「深く憐れむ」という語と「かわいそうだ」という語は原語では同じ語であります。この語は「内臓」に由来す語で、対応せずにはおれない深い共感を現す言葉です。イエスは、ユダヤ人の地においても異邦人の地においても同様に、群衆の姿を見、深い憐れみによって、神の国の福音を宣教し、癒しを成し、また給食をされたことをマルコによる福音書は伝えています。 同様に、主イエスの贖いの御業を示している、主イエスがパンを取り、感謝の祈りをし、それを裂いて弟子たちに渡し、弟子たちが群衆に配るということも、ユダヤ人の地でも異邦人の地でも成されています。こうして、主イエスご自身がユダヤ人にも異邦人にも宣教をされたことが示されています。 主イエスは、5千人の給食の時も、この4千人の給食の時も同様に、解散させるに当たって給食をしておられます。人々は、主イエスの許に集められ、御言葉による豊かな養いに与りました。こうして、主の恵みの言葉に養われて、日常の生活の場に戻るのであります。このために主は更に給食をされたのでありました。こうして、ユダヤ人についても、また異邦人についても、主は同様に、神の国の福音を宣教し、病を癒し、食べ物を与え、豊かな命に与らせることにおいて、日常の生活へと導かれたことが告げられています。 主イエスは、わたしたちをご自身の前に呼び集め、御言葉によって養い、日常生活の場へと遣わし、全体として神礼拝の生活に導かれるのであります。