聖書のメッセージ


2017年11月12日(日曜)

降誕前第7主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「恵みに溢れる神の国」
聖書 マルコ6章53−56節


------------------------------------------------
こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。 村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。
 マルコ6章53節−56節 聖書・新共同訳
------------------------------------------------------
先週聞きましたように、主がガリラヤ湖上で嵐を静められることによって、弟子たちは船路が守られゲネサレトの地に無事に着いたのでありました。 53節に「こうして、一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知ってその地方をくまなく走り回り、何処でもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた」とあります。この表現は、ゲネサレトの人々はあらかじめ主イエスのことを聞いていたでしょうけれども、そのことよりも、主イエスがゲネサレトの地に来られたということによって、丁度暗闇に代わって、太陽が昇り、その光によって、人々が希望と喜びに満たされて働き始めるように、人々が希望と喜びに満たされて、あらゆる病気の人々の主イエスによる癒しを願って活動し始めたことが記されております。主イエスがゲネサレトに来られたということが人々をこのような生き生きとした働きを引き起こしたのでありました。わたしたちの信仰も同じであります。主イエス・キリストがこのわたしたちの世界においでになることにおいて、わたしたちがイエス・キリストを信じて生きるということが起こったのであります。ローマの信徒への手紙10章17節に「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とあるように、主イエス・キリストの到来が、人々をキリスト信仰へと導き、人々の希望と喜びに満ちた応答を引き起こすのであります。キリスト信仰は、わたしたち人間の側から生まれるのではなく、主イエスの救いの言葉と救いの御業がなされることにおいて始まりました。ですから常に、主イエス・キリストを仰ぎ、主イエスの言葉を聞くことによってわたしたちのキリスト信仰は始まり成り立つことを覚えたいのであります。ゲネサレトの人々は、主イエスが宣教に行かれる町、村、里等何処へでも病人を運びました。また、主イエスが必ず通られる町の入り口にある広場に病人を連れて来て、主の服の裾が触れて癒されるようにと願ったのでありました。こうして、「触れた人は皆癒された」と、神の溢れる恵みの御業の成されたことが告げられております。わたしたちは、種々の苦しみについてそれを自分で解決が出来ないので、それを当たり前のこととして諦め、習慣化し、マンネリ化した状態になっているのではないでしょうか。しかし主イエスは、わたしたちを神の恵みに満ちたご支配に与らせようとして、救いを携えて、ご自身の方からわたしたちの所に来ておられます。主イエスの来臨を感謝し喜んで、わたしたちの内に、またわたしたちの間に、そしてわたしたちの上にお迎えし、日々、神の恵みのご支配(神の国)に与らせて頂きましょう。