聖書のメッセージ


2017年10月22日(日曜)

聖霊降臨節第21主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「われに返れ」
聖書 ルカ15章11−24節


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 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
 ルカ15章11節−24節 聖書・新共同訳
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わたしたちは、自分が造られて生かされている者だと考えます。しかしわたしたちを造られた方がどんな方なのか、またその方はわたしたちにどのように係るお方なのか、全く知らない者です。今朝、主イエスの言葉を聞きたいと思います。
ある人に二人の息子がありました。弟息子が、父にわたしが頂くことになっている財産の分け前をくださいと言いました。それで、父は3分の2を長男に、3分の一を弟息子に渡しました。弟息子は間もなくすべてをお金に換えて、遠い国へ旅立ちました。彼は父から離れ、父とは関係のない、自立した存在として生きることこそ成熟した人間のありようだと考え、自立への道へと旅立ったのであります。
しかし父からもらった大切な財産を、放蕩で全部無駄使いしてしまいました。父から離れることの中で、誘惑に従う罪に支配されることになってしまったのです。
 最早、自分で働く以外にはありません。しかし折悪しく、飢饉がその地方を襲いました。食料は高騰し、働いても充分に食事をとることが出来ません。食べることが出来るようにと、ある人の所に身を寄せましたが、仕事はユダヤ人には禁じられていた豚の世話をすることでした。それでも十分な食ベ物は得られず、豚の餌であるいなごまめを食べたいと思うほどでした。しかし助けてくれる人はいませんでした。こうして弟息子は、このままでは死に至る以外にはありません。この時に「われに返った」と記されています。自分がこのような悲惨な事態に立ち至っている根本的な原因は、父から離れていることにある、と気付いたのです。
彼は父のもとに帰り、『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりのようにしてください』と言ってお詫びとお願いをしよう、と決心しました。こうして彼は父の所へ向かいました。
他方、父は、毎日息子の帰りを待っていました。まだ遠くにいる息子を見つけ、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻し、彼を迎えました。息子がお詫びを言い始めると、父は僕たちに『一番良い服を着せ、手に指輪をはめ、足には着物を履かせなさい。そして肥えた子牛を屠って食べて祝おう』と言い、息子として迎え入れ、帰還を祝ったのであります。更に父は『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ』と言いました。息子が父と離れていること自体が死であり、失われていること、だと言われています。
主イエスは「あなたがたの父なる神は、このように憐れみと恵みに満ちたお方ですから、われに返り、父なる神のもとに帰って来なさい」と招いておられます。