聖書のメッセージ


2017年10月15日(日曜)

聖霊降臨節第20主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「神に知られている私」
聖書 ルカ19章1−10節


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 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。
 ルカ19章1節−10節 聖書・新共同訳
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2節に「ザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった」とあります。徴税人はローマの行政に携わっていましたが、入札によって採用されたために、不正は見過ごしにされたと言われています。ユダヤ人の間では、不正をすること、また異邦人の行政に携わることから、罪人の一人とされ、交わりを遮断されていました。しかしザアカイは、徴税人として生きていました。それは、お金の力を信じていたからでありましょう。
主イエスがエリコに入って来られると、彼は主イエスを見たいと思い、先回りしていちじく桑の木に登りました。何故主イエスを見たいと思ったのでしょうか。
「ザアカイ」には「義人」という意味があります。神の戒めを守って生きる人であり、ユダヤ人の理想です。親がそのように願って命名したに違いありません。しかし、お金の力に信を置いていた人でしたから、不正をしてでもお金儲けをしていたのでありました。しかし、あるべき義人としてのありようと、現実に自分が生きている姿とは乖離していたので苦しんでいたのでしょう。パウロも「わたしは、自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と告白しています。わたしたち人間は皆、理想と現実の間にあって、自分の罪深さに苦悩しているのではないでしょうか。
ザアカイが木の上から主イエスを見ようとしていると、イエスが上を見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。すると、ザアカイは急いで降りて来てイエスを迎えたとあります。驚くべきことに、主イエスがザアカイのことをすでに知っておられたのであります。そして、罪人であるがゆえに、誰も出入りをしない彼の家に泊まり、ザアカイとの交わりに生きることをされたのでありました。
これを見た人々は、主イエスのことを、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と非難しました。しかし主イエスはザアカイの救いのために、ご自分が罪人とされることを厭わず、彼との交わりを持たれたのでありました。
こうして、ザアカイは「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから、何かだまし取っていたら、四倍にして返します」と言いました。このことは、主イエスとの出会いにおいて、ザアカイが、わたしを造り、罪深いわたしを愛の内に知り、ご自身との交わりに招き入れて下さる神と出会ったことを示しています。こうしてザアカイは、人々に対して心の開かれた人にされたのです。
わたしたちも、このわたしを、愛によって知っておられる、主イエスの父なる神を信じて、生きる者とされるようお祈りいたしましょう。