聖書のメッセージ


2017年10月1日(日曜)

聖霊降臨節第18主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「荒れ野でよばわる者の声」
聖書 マルコ6章14−29節


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イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
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4〜16節を見ますと、「バプテスマのヨハネ」と「主イエス」との連続性が語られています。
1、主イエスの言葉を聞き、またその御業を見聞きした或る人々は、主イエスについて、「ヨハネが死者の中からよみがえったのだ」と言った、とあります。その連続性は、バプテスマのヨハネは、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えましたし、主イエスもまた「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教されましたので、「悔い改め」にありました。
2、他の人々は、主イエスのことを「エリヤ」だと言ったとあります。「エリヤ」は、当時「アハブ王」を始め「北イスラエルの人々」が王妃イゼベルの影響を受けて、「バール」を礼拝していました。「エリヤ」はバール礼拝から「悔い改めて」主なる神を礼拝することへと改革した人でした。
3、他の人々は、「昔の預言者のような預言者だ」と言ったとあります。アモス、ホセア、イザヤ、エレミヤ等など、共通して偶像礼拝から、悔い改めて神のもとに帰れ、と呼びかけたのでありました。「悔い改め」を勧告しました。
次に、当時「ガリラヤとペレアの領主」であった「ヘロデ・アンテイパス」の、主イエスについての見方が記されています。彼は「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言ったとあります。ヨハネは「ヘロデ・アンテイパス」の、異母兄弟ヘロデ・ピリポの妻、ヘロデイアとの結婚は律法に反していると批判しました。ヘロデはヨハネを尊敬していましたが、再婚相手のヘロデイアにそそのかされて「ヨハネ」の首をはねたのでした。しかし神からの悔い改めの促しは王であるヘロデも自分で処理できない事であったことを示しています。ところで1章に、「ヨハネ」は「荒れ野で叫ぶ者の声」だと記されています。「荒れ野」は、道もなく、秩序もない場所です。この「荒れ野」の状況の真っ只中で、「ヨハネ」は「悔い改めて」わたしの後に来る方の救いに与るようにと語りました。しかしその結果、ヨハネは死を遂げることになりました。主イエスも、この世は、神が悔い改めを求めて派遣される僕も息子も迫害し或は殺してしまうことをたとえで語っておられます(12:1-8)。
この世界は真に「荒れ野」であります。悔い改めて福音を信じるようにと宣教しても、悔い改めが起こる事は容易なことではありません。
わたしたち北千住教会では、今年10月15日(日)と22日(日)に、伝道礼拝を計画し、チラシも出来ています。しかし伝道は主の御業です。ですから、わたしたちは、宣教の前進のために主に祈って、伝道礼拝の準備を致しましょう。