聖書のメッセージ


2017年9月24日(日曜)

聖霊降臨節第17主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「悔い改めて生きる」
聖書 マルコ6章7−13節


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 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした 
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この箇所で、私たちが特に注目させられることは、「福音の宣教において起こる悔い改め」と、「汚れた霊の追放」ということが深く結びついて記されているということです。
7節に、「主イエスは弟子たちに汚れた霊に対する権能を与えられた」とあり、続いて人々を悔い改めさせるために、神の国到来の福音宣教に遣わされたことが記されています。  
また12節には、弟子たちが「悔い改めさせるために福音を宣教した」ということに続いて「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒した」と記されています。
更に、3章14-15節に、弟子たちの選びについて記されていますが、「派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」とあり、ここでも「福音宣教」と「悪霊の追放」とが結びついて語られています。このことはどういうことを意味しているのでしょうか。
 「悪霊に取つかれている」ということは、病気のように思いがちですが、実は神との関係が切り離されているのであります。前に読みましたように、エルサレムから来た律法学者たちは「イエスはベルゼブルに取りつかれている」と言い、更に「悪霊の頭によって悪霊を追い出している」(3章20節以下)と言っています。ペルゼブルは「悪霊」「汚れた霊」の首領であり、数多の悪霊を従えており、神に背き、神の支配(国)とは異なる自律的な自分たちの国を構築し、人を虜にする者であります。
サタンは、主イエスをさえも、神の国とは別の自分たちの国を構築しようと言って誘惑したのでありました。勿論主イエスは「神にのみ仕えよ」と書いてある、と言って誘惑を退けられたのでありました。霊に支配されると、神の恵みの支配から引き離されますから、人は自分で自分を養い、自分で自分を評価し生きて行かねばなりません。ですから「飼い主のいない羊」のように、いつも不安と恐れに捕えられ、思い煩いをすることになるのであります。わたしたち人間は、神を信じることも、また依り頼むこともしないで生きる。それが強い人の姿だと考えます。しかし聖書は、そのような姿こそ、悪霊に支配されている惨めな姿なのだ、と告げています。
こうした、わたしたち人間の生の只中において、主イエスは弟子たちに悪霊に対する権能を与え、遣わし、神の国到来の福音を宣教し、悪霊を追放し、悔い改めに導かれました。
悔い改めとは、方向転換することであります。
悪霊の支配の下で神に背いていた状態から、悪霊が追放され、神の国の福音を信じ受け入れ、神の恵みの支配(神の国)の許へと方向転換し、神の国に招き入れられ、「悔い改めて生きる」という、新たな生に与って生きましょう。