聖書のメッセージ


2017年9月17日(日曜)

聖霊降臨節第16主日
北千住教会 持田嗣生牧師

「人を差別しない神」
聖書 マルコ6章1−6節


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 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいたイエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。
    マルコ6章1節−6節 聖書・新共同訳
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 イエスは、故郷ナザレに弟子たちと共に帰って来られ、安息日に会堂へ行き教え始められました。故郷ナザレの人々はそれを聞くと驚き、「この人はこのようなことを何処から得たのか。またこの人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡は一体何か」と言ったのであります。
 イエスはご自身において、神の国が到来していることを告げ、悔い改めて福音を信じなさいと宣教し、そうした神の恵みのご支配の許でのありようについて告げられたことでしょう。全く初めて聞いた言葉であり、また未だかつて成されたことのない、奇跡がなされていますので、故郷ナザレの人々は、これは何処から来たことか、何を意味しているのか。今何が起こっているのかと問わざるを得ませんでした。
 しかし郷里の人々は「この人は大工ではないか」と言いました。大工など手工業に携わる人が知恵ある人になることはないと考えられていました。またイエスのことを「マリアの息子」と呼んでいます。通常息子は父が死んでも父の名によって呼ばれていました。
母の名によって呼ばれるのは父が不明である場合だと言われます。イエスは「マリアの息子」と呼ばれていますから、中傷であったと考えられます。また兄弟や姉妹のことも、特に神秘的な特筆すべきことがあるわけではなく、変哲のない普通の人々であることが語られています。こうして「彼らはイエスに躓いた」とあります。郷里ナザレの人々はイエスのことを幼児期から大人になるまで30年近くも見て来ました。ですからイエスを知っていると自負していました。
しかし彼らは、イエスを肉の目によって差別的に見ており、神に選ばれ神から遣わされて神の国を来らせる人だと信じることは出来ませんでした。
 イエスは「預言者は、自分の故郷、親戚や家族の間以外では、敬われないことはない」と言い、郷里の人々が、イエスを神から遣わされているお方として知り、敬うことが極めて困難なことだと語っておられます。 ところで、わたしたちキリスト者は主イエスを知っていると自負しています。しかし、主イエスご自身がご自分について語られる言葉を絶えず聞いていないと、この世の価値観によって主イエスを知るようになり、イエスを敬うことから外れることになるかもしれません。絶えず主イエスがご自分について語られる言葉に耳を傾けましょう。 イエスは、不信仰な故郷では、ごくわずかの病人を癒されただけであった、とあります。主イエスはどんなことでも出来るお方であります。しかし不信仰は主の御業を妨げます。
 肉の思いによって主に対して不信仰になることをせず、人を差別しない主の恵みと真実を信じ、豊かな恵みに与る者とされるようお祈りいたしましょう。