聖書のメッセージ


2016年2月14日(日曜)

受難節第1主日礼拝
北千住教会 持田嗣生牧師

「死んでも生きる」
聖書 ヨハネ11章17−27節


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   イエスは言われた。「わたしは復活であり、命で
 ある。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
             ヨハネ11章25節 聖書・新共同訳
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 主イエスがベタニア(悩む者の家の意)の村に入ろうとさ
れた時には、すでにラザロは葬られて四日がたっており、
マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟の
ことで慰めに来ていた、とあります。マルタ、マリアの悲
惨の中で、村のユダヤ人たちはラザロの死を巡って彼女た
ちを慰めようと一所懸命でした。文字通りベタニア村は
「悩む者の家」となっていました。
 マルタは主イエスが村に近づかれたことを聞くと主イエス
を迎えに出かけました。一刻も早く主に一切を打ち明け、助
けて頂きたいと願っていたのでしょう。マルタは主に「主よ、
もしここいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかっ
たでしょう」と言いました。主イエスがいて下されば病気を
いやして下さるので死ぬことはなかったでしょう。しかし主
がおられなかったのでラザロは死んでしまったのです、と言
っています。マリアの信仰告白です。更にマルタは「しかし
あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さる
と、わたしは今でも承知しています」と言いました。ラザロ
は死んでしまいました。しかしあなたは神にお願いし、今、
ラザロを復活させることのお出来になる方ですと、主イエス
への信仰を告白したのであります。
 主イエスは「ラザロは復活する」と言われました。しかし
マルタはその真意をくみ取れず、「終わりの復活の日に復活
することは承知しています」と言いました。このマルタの信
仰は当時のユダヤ人のある人々の信仰でした。ダニエル書12
章2節に「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある
物は永遠の命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的とな
る」とあったのでこのように信じていたのであります。
 すると主イエスは「わたしは復活であり、命である。わた
しを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。ここで
言われている「復活」とは、罪のために父なる神との交わり
が断たれている者が主の十字架による贖いによって罪赦され、
神との交わりの回復に与ることであります。
 次に主は「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して
死ぬことはない」と言われました。これは、主イエスを信じ
ることにおいて今、神との交わりなる永遠の命に与った人は、
死ぬと言う事態が起こっても神との交わりという永遠の命は
失われることはない、ということを意味しています。
 主はこのように語り、マルタに「このことを信じるか」と
呼びかけ、信仰に招かれました。マルタは「はい、主よ、あ
なたが世に来られるはずの神の子、メシアであると、わたし
は信じております」と告白しました。
わたしたちもマルタのように、主イエスを、復活であり命で
あるお方として信じ告白しつつ歩みましょう。