聖書のメッセージ


2016年1月31日(日曜)

降誕節第6主日礼拝
北千住教会 持田嗣生牧師

「キリストによる罪の赦し」
聖書 ヨハネ10章31−42節


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   それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされ
 たわたしが、『わたしは神の子である』と言ったか
 らとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。
 もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、
 わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているの
 であれば、わたしを信じなくても、その業を信じな
 さい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わた
 しが父の内にいることを、あなたたちは知り、また
 悟るだろう。」
       ヨハネ10章36−38節 聖書・新共同訳
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 主イエスが「わたしは父と一つである」と言われると、ユ
ダヤ人たちはイエスを石で打とうとしました。主は詩編82
編を示し、神の言葉を受けた人たちが「神々」と言われてい
るのだから、神から聖なる者とされ、世に遣わされたわたし
が「わたしは神の子だ」と言っても、神を冒涜することには
ならないと言われました。そして更に「わたしを信じなくて
も、わたしの業を信じなさい。そうすれば父がわたしの内に
おられ、またわたしが父の内にいることを知るようになる」
と告げられました。今、主御業に注目しましょう。
 主は、38年間も病気で起き上がることの出来ない人を立
たせ歩かせ( 5章)、また生まれつき目の見えない人の目を開
かれました( 9章)。イザヤ書にはこれらの癒しの御業は、神
が遣わされる救い主によって成されることだと預言されてい
ました(35章)。更に8章には、姦通の場で捕えられた女性を
巡ってなされた主イエスの御業が記されています。
主が神殿の境内で民衆を教えておられると、律法学者たちと
ファリサイ派の人々が姦通をしていた女性を真ん中に立たせ
ました。そしてモーセの律法ではこのような者は石で打てと
言われているがあなたはどうしますかと詰め寄り、イエスの
働きを妨害しようとしました。すると主は石畳の上に指で何
かを書き始められました。人々が何度もしつこく問い続ける
ので、主は『罪を犯したことのない者が先ずこの女に石を投
げよ』と言い、また指で地面に書き続けられました。すると
年寄りから始まって一人また一人と立ち去って行き、イエス
一人と真ん中にいた女が残ったとあります。
 石畳の上に指で書くということは、通常はしません。ただ
神がご自身の指で石の板に律法を書きモーセを通してイスラ
エルの民にお与えになったのでした。人々は十戒を思い出し
たことでしょう。十戒には、姦淫してはならないとありまし
たが、神との関係でのありようを始め、父母を敬え、殺すな、
盗むな、隣人に関して偽証するな、隣人の家、妻、男女の奴
隷、牛、ロバ、など隣人のものを一切欲するな、とありまし
た。この人に石を投げることの出来る人はありませんでした。
罪を犯したことのない人は一人もなかったのです。
 主イエスがおられる所では、律法は人を裁くためではなく、
人を正く導くために用いられました。そして、主イエスご自
身もこの人に対し、「わたしもあなたを罪に定めない」と言
ってこの人の罪を赦し、「これからは、もう罪を犯してはな
らない」と言って、罪に打ち勝つ人にされました。
 真に主イエスの御業において、父なる神ご自身の恵みの御
業が現され、主イエスと父なる神が一つでいますことが証し
されております。わたしたちは主の御業によって主を知り、
知り続ける者とされて日々の歩みに勤しみましょう。