聖書のメッセージ


2015年11月15日(日曜)

降誕前第6主日礼拝
北千住教会 持田嗣生牧師

「主はわたしを知っておられる」
聖書 ヨハネ9章1−12節


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   さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見
 えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ね
 た。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、
 だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それと
 も、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本
 人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからで
 もない。神の業がこの人に現れるためである。
            ヨハネ9章1−3節 聖書・新共同訳
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 1節に「さて、イエスは通りすがりに」と訳出されていま
すが、原語では「イエスは」ではなく、「彼は」となってい
ます。このことはすぐ前の8章58節で、主がご自身のことを
「わたしはある」と言って、創造者なる神と一つなるお方で
あることを告げられましたが、本日の記事はそれを受けて、
主イエスが「わたしはある」と言われるお方として語り働い
ておられることを示しています。
 弟子たちは主イエスが生まれつき目の見えない人に目を向
けられたのを見て、「ラビ、この人が生まれつき目が見えな
いのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それと
も、両親ですか」と尋ねました。出エジプト記20章5節には
「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも
問う」とありますから、このように尋ねたのでしょう。因果
応報の思想はヨブ記にも出てきますし、私たちも受け入れて
おります。確かにこの思想は人を導く力をもっていますが、
しかし同時に人を虜にする力も持っています。
 弟子たちの質問に対して主は「本人が罪を犯したからでも、
両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるた
めである」と告げられました。そして文字通り主がこの人に
ついて知っておられた通り、神の御業がこの人に現われたの
であります。真に主はこの人に神の御業がなされることを知
っておられました。そしてその御業をこの人の上に現された
のであります。いったいこの世界のだれが、この人にこのよ
うな神の御業がなされることを知っており、また成すことが
出来たでしょうか。父親も母親も親族もそして本人も誰も知
らないし、出来ません。それはただ主イエスのみでありまし
た。主イエス独白の知でありまた御業でありました。
 主の人間に対する知については10章11節以下においても言
及されています。主は「わたしは良い羊飼いである。良い羊
飼いは羊のために命を捨てる」と告げ、更に14節では「わた
しは良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、」と告
げておられます。主が良い羊飼いである理由は、羊のために
命を捨てるということと、自分の羊を知っていることだと言
われています。主イエスはご自分の羊について個々の性格も
強さ弱さなどその特質をすべて知っておられ、御心に従って
それぞれを養い育てられるのであります。
 わたしたちは病弱のために労苦労しているでしょうか。仕
事のこと、人間関係のことで行き詰まって労苦しているでし
ょうか。しかし主イエスは、わたしたもの労苦が神の御業が
現れるためであることを知っておられるお方であります。そ
して、主がご存知の通りに私たちの上に神の御業を現すお方
であります。労苦の中にも、主イエスの知を信じ、主の恵み
の御業に希望をおいて日々の歩みに勤しみましょう。