聖書のメッセージ
2015年10月25日(日曜)
降誕前節第9主日礼拝
大阪桃谷教会 木坂聖一牧師
「あなたは幸いです」
聖書 マタイ5章1−12節
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わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚え
のないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あ
なたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びな
さい。天には大きな報いがある。あなたがたより前
の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
マタイ5章11−12節 聖書・新共同訳
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1、幸いの宣言
この説教の聴衆は弟子一彼らは貧しい田舎の漁師、嫌わ
れていた取税人などー、そしてその周りの人たち一病気の
人、ご主人を亡くして途方に暮れた人、差別されている人
たちーであり、決して恵まれた人々ではなかった。その人
々にイエス様は「それでも、あなたたちは幸いだ」と宣言
される。それは神様が愛してくださっているからに他なら
ない。多くの場合、幸いになるために「心を貧しくし、悲
しむ人に、柔和な人にならなければいけない」と考える。
もしそうなれるならば、そうすれば良い。しかし、なかな
か思うようになれないのがわたしたちではないか。そうで
きないわたしたちが悩んで、苦しんでいる。そこにイエス
様は来られ、「それでも大丈夫、皆様は幸いだ。天国に入
ることが出来る。神様の子供になれるjと語られた。それが
福音一良い知らせーである。
2.イエス様のお話を聞いた
そもそも、弟子たちは神の子イエス様のお話しを直接聞い
ている。これほど幸いなことはない。わたしたちもイエス様
のお話を直接、お聞きしたい。もうそれだけで十分ではない
か? それでも、もっと何か欲しいと求めるなら、それは欲
張りというものではないか。
そもそも、神は言葉である(ヨハネ1:1)。言葉である
神は当然、人に話しかけたい。「私はあなたを愛している。
あなたのことをいつも心配している。あなたのことを見守っ
ている。あなたを救いたい」と。神に語りかけられることは、
神に愛されていることであり、そして神に救われることに他
ならない。今、神であるイエス様はキリスト者の内にいて、
人々に語りかけて下さっている。
3、神様の共にいる幸い
人々はイエス様のすぐ「側」にいてお話を聞いた。イエス
様は人間の「側」にいるためにこの世に来られた。イエス様
のもう一つの名前は「インマヌエル」。意味は「神は我々と
共におられる」(マタイ1:23)である。イエス様は、わたし
たちがどんなに醜いな人であっても、あなたの側にいる。決
して見放さない。たとえ死んでも・‥。そして、実際に死な
れた。また復活して、聖霊として今も私たち人間と一緒にい
てくださる。
イエス様は今日も私たちに語って下さっている。「あなた
がたは幸いです」と。私たちはそれを聞き、喜んでイエス様
を信じる。