聖書のメッセージ


2015年10月04日(日曜)

聖霊降臨節第20主日礼拝
北千住教会 持田嗣生牧師

「主イエスが与える自由」
聖書 ヨハネ8章31−38節


------------------------------------------------
   イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われ
 た。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたち
 は本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を
 知り、真理はあなたたちを自由にする。」
         ヨハネ8章31−32節 聖書・新共同訳
------------------------------------------------

 
 すぐ前の段落で、主イエスはご自分が神から遣わされ、神
の言葉を語り、神の業を行っていることを示し、ご自分が父
なる神と一つなるお方、即ち「わたしはある」(旧約では神
の名)という者だと告げられました。これを聞いて主イエス
を信じたユダヤ人たちに、『わたしの言葉にとどまるならば、
あなたたちは本当にわたしの弟子であり、あなたたちは真理
を知り、真理はあなたたちを自由にする』と告げられました。
「とどまる」は、ぶどうの枝がぶどうに木につながっている、
また主イエスが父なる神の愛の中にいるなどの用例のよう
に「つながる」「交わりの内に生きる」などの意味を持つ言
葉です。また「わたしの言葉」は、主イエスご自身が神の言
と言われていますから(1章卜3節)、主イエスご自身をも指
していることを念頭におきつつ御言葉に聞きましょう。
 主イエスは、人が神の言葉なる主イエスに結びつき、主イ
エスとの交わりに生きるならわたしの弟子であると言われま
した。主イエスが父なる神と一つなるお方であると信じるだ
けではなくて、主イエスとの交わりの内にある人こそ、ご自
分の弟子であると言われたのであります。
 そして主イエスとの交わりに生きる中で「あなたたちは真
理を知る」と言われます。「真理」とは、「私は真理である」
(14章6節)という主イエスの言葉が示しているように、人
に対して明らかにされた神の真実を指しています。
 そしてこの神の真実を知る者は自由にされると言われまし
た。主イエスが言われるこの自由とはどういう内容のものか
について35、36節の言葉から聞きましょう。
  主イエスは現実のこの世を父なる神の家だと言われます。
この家には息子なる主イエスと、罪に支配されている奴隷が
共に居ります。息子なる主イエスは父なる神と永遠に居られ
るますが、奴隷は何時までも居ることは出来ません。そうし
た中で主イエスが父なる神の御心に従ってこの奴隷たちをご
自身に結び付け十字架にかかって瞭いの御業を成し、これら
の奴隷は息子なるイエスにより神の子とされ交わりに入れら
れました。このことにより、奴隷はこの息子の父なる神が自
分たちをもご自身の子らとしておられるという神の真実を知
るようになります。そして「父よ」と呼びかけ、父なる神と
の生きた交わりに入れられ、息子なる主イエスの自由に与る
者とされるのだと言われています。
 そして実際に、主イエスは蹟いの御業によって、ご自身に
とどまる者を神の子とし、父なる神との交わりに導き、神の
子なる主イエスの自由に与る者とされたのであります。
 主イエス・キリストの蹟いの御業により、父なる神との交
わりに入れられ、神の子、主イエスの自由に与る者とされて
いることを感謝し、主イエスに従う歩みに励みましょう。
      ぐ本βの屁羨熹旨>
  「主はわたしを知っておられる」ヨハネ9章1−12節
 1節に「さて、イエスは通りすがりに」と訳出されていま
すが、原語では「イエスは」ではなく、「彼は」となってい
ます。このことはすぐ前の8章58節で、主がご自身のこと
を「わたしはある」と言って、創造者なる神と一つなるお方
であることを告げられましたが、本日の記事はそれを受け
て、主イエスが「わたしはある」と言われるお方として語り
働いておられることを示しています。
 弟子たちは主イエスが生まれつき目の見えない大に目を
向けられたのを見て、「ラビ、この大が生まれつき目が見え
ないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それ
とも、両親ですか」と尋ねました。出エジプト記20章5節
には「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代ま
でも間う」とありますから、このように尋ねたのでしょう。
因果応報の思想はヨブ記にも出てきますし、私たちも受け入
れております。確かにこの思想は大を導く力をもっています
が、しかし同時に大を虜にする力も持っています。
 弟子たちの質問に対して主は「本人が罪を犯したからで
も、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの大に現れ
るためである」と告げられました。そして文字通り主がこの
大について知っておられた通り、神の御業がこの大に現われ
たのであります。真に主はこの大に神の御業がなされること
を知っておられました。そしてその御業をこの人の上に現さ
れたのであります。いったいこの世界のだれが、この大にこ
のような神の御業がなされることを知っており、また成すこ
とが出来たでしょうか。父親も母親も親族もそして本人も誰
も知らないし、出来ません。それはただ主イエスのみであり
ました。主イエス独白の知でありまた御業でありました。
 主の人間に対する知については10章11節以下においても
言及されています。主は「わたしは良い羊飼いである。良い
羊飼いは羊のために命を捨てる」と告げ、更に14節では「わ
たしは良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、」と
告げておられます。主が良い羊飼いである理由は、羊のため
に命を捨てるということと、自分の羊を知っていることだと
言われています。主イエスはご自分の羊について個々の性格
も強さ弱さなどその特質をすべて知っておられ、御心に従っ
てそれぞれを養い育てられるのであります。
 わたしたちは病弱のために労苦労しているでしょうか。仕
事のこと、人間関係のことで行き詰まって労苦しているでし
ょうか。しかし主イエスは、わたしたもの労苦が神の御業が
現れるためであることを知っておられるお方であります。そ
して、主がご存知の通りに私たちの上に神の御業を現すお方
であります。労苦の中にも、主イエスの知を信じ、主の恵み
の御業に希望をおいて日々の歩みに勤しみましょう。