聖書のメッセージ
2015年04月12日(日曜)
復活節第2主日礼拝
北千住教会 持田嗣生牧師
「主の復活の喜び」
聖書 ヨハネ20章19−23節
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その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであ
った。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸
がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立
って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示さ
れた。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう
一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにある
ように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあ
なたがたを遣わします。」そして、こう言われると、
彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさ
い。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の
罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残
すなら、それはそのまま残ります。」
ヨハネ20章19−23節 聖書・新改訳
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主が復活され、マグダラのマリアに顕現された日の夕方で
す。「弟子たちがユダや人を恐れて戸を閉じているところに
主が顕現し、『あなた方に平安があるように』と言って、手
と脇腹を示され、弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。
主イエスが与える平安とは何を指しているのでしょうか。
主の手と脇腹の傷、それはユダヤ人指導者たちの主に対する
妬みと憎悪、群衆の無責任、総督ピラトの保身、兵士たちの
暴力、弟子たちの裏切りと否認等々、諸々の人々の罪の結果
なる傷でありました。しかし他方、主イエスの傷は、バプテ
スマのヨハネが主イエスを指示して告げたように「世の罪を
取り除く神の小羊」、モーセが荒野で上げた蛇(3:14)、羊の
ために命を捨てる良い羊飼い (10:11)、地に落ちて死ぬ一粒
の麦(12:24)等において示されているように、諸々の人々の贖
いの結果としての傷でありました。この世界においては罪が
支配し、人を汚し腐敗させ、対立と抗争、報復の連鎖を生み
出し、諸々の人間関係を崩壊させています。そうした中で主
イエスがその一切の罪を自ら身に引き受けて赦しを与え、神
との交わりに生きる者とされたことによる平和であります。
更に21節に「イエスはもう一度彼らに言われた。『平和が
あなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わ
たしもあなた方を遣わします』と告げ、息を吹きかけて、
『聖霊を受けなさい』と言われた」とあります。ここでの平
和はどのような意味でしょうか。主は弟子たちを福音宣教の
ためにこの世に派遣されますが、神に反抗するこの世におい
て弟子たちはそれが出来るのでしょうか。また宣教は成り立
つのでしょうか。主イエスは、それは聖霊の働きによって成
されるのだと言われました。
聖霊の働きについてはすでに主イエスが繰り返し告げて来
られたことでした。1,「聖霊はあなた方にすべてのことを教
え、私が話したことをことごとく思い起こさせる」(14:26)。
2,「聖霊はわたしを証する」(15:26)。3,「聖霊は罪につき、
義につき、さばきについて世に誤りを認めさせます」(16:8)
と語って来られました。弟子たちは聖霊に働きにより主の言
葉と救いの御業を証する者とされ、またこの世は聖霊によっ
て、神の救いの御業について目を開かれるのだ。こうして神
が聖霊において共にいまし、共に働き、主の救いの御業を常
に出来事とされるので平安があるのだ、と告げられました。
こうして弟子たちは真に主の復活を喜んだのであります、
私たちもまた、主が授与された聖霊による主イエス並びに
父なる神との交わりに導かれ、同時に聖霊は人々の上に恵み
の御業をなさるので平安のうちに証をするのであります。