本願寺道路脇の廃坑跡
交通要路であった中山超えの路が完成したのが明治4年。
松浦武四郎が唱えた本道路開削の重要性に答えたのが東本願寺であった。
現道のかなり北方に完成した道は「本願寺道路」と呼ばれ、草深い踏み分け道であったそうだ。
現国道230号線の南方を交差する林道が、
明治27年完成の旧国道だ。
古地図で見ると駅逓が配置され交通の要所であったことが伺える。
国道から湿地を挟んだ対岸の露頭が喜茂別鉱山跡だ。
設備は何もないが、
植生の無い一画を望むことができる。
黒橋駅逓(えきてい)所付近を歩く。
開拓使が北海道庁となった明治21年、
内陸道路の開削が進むにつれ「人馬継立所」としての道の駅(=駅逓)が設置されるに至った。
喜茂別川の対岸には「喜茂別鉱山自家水力発電所」跡が残る。
鉱山の最盛期の昭和14年頃に建設されたようだが、
実際には送電しないうちに休山に至った。
国道沿いに登ると右岸に植生の疎らな部分がある。
ここが昭和15年以降に建設された硫黄精錬所跡だ。
昭和40年代までは石垣等が残存していたようだが・・・。
製錬所付近を歩く。
昭和14年当時は従業員100名、
戸数30戸余りと資料にはある。
上流の鉱山跡付近。
坑内掘り・露天堀とも稼行し、精錬窯は2基あったとのこと。
かつての200人規模の街も忽然と姿を消している。
国道を峠付近まで遡った標高800m付近。
明治27年改修の旧国道から昭和39年完成の現国道を望む。
中山鉱山採掘跡はもう少し下だ。
旧道を歩いて硫黄鉱床付近に接近する。
最盛期には付近に23戸を数え、、
物資配給所なども存在したようだが今は何もない山中である。
GPSを利用して鉱床方面に向かう。
ここからはただの崖で完全廃道となる。
遭難に備えピンクテープを巻きながら下る。
30m程下ると、そこには白い大きな岩石が落ちている。
RCの塊のように見えるが、プロピライトの溶岩で、
カオリン化作用などによりこれら青灰色に漂白されているのかもしれない。
藪を掻いて下ると、急に木々の疎らな一画に到達する。
ここはどうやらズリ山だ。
当時の旭坑付近だが痕跡はない。
そこから更に下ると一気に晴れた空間に出る。
ここが採掘跡であろう。
鉱床図の新坑・東坑付近とも合致する。
近代的な砂防ダムの連続する中山鉱山跡。
本坑の鉱石の精品は美しい黄色で、
下部の喜茂別鉱山の精品とはかなり違っていたらしい。
採掘跡の最上段には小さな池がある。
目立った遺構の発見に至らないが、鉱床図には火薬庫の記述があり、
そちらを目指してみよう。
採掘跡から北西の火薬庫付近を望む。
少し遺構があるようだ。
精錬所は標高600m付近に在り、ここから索道があったようだ。
陶製のフランジ付きの土管が転がる。
これは恐らく傾斜を利用した丸桶を敷設し、
坑内水を利用して鉱石を流したのかもしれない。
枡のような継手形状の塊もある。
流送中に泥は自然に流し去られ、
盤石なども除去される。
煉瓦製の遺構もある。
60年の時を経過しても、
これら遺構は色褪せていない。
小学校分教場である「黒橋特別教授所」があったのも大正5年から大正12年であり、
黒橋地区の戸数は昭和6年(8戸)昭和7年(11戸)昭和10年(41戸)と変化してることから、
やはり両鉱山の盛衰と関連が深いようだ。
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