棄てられた路、公園そして鉱山
国道5号線張碓トンネル札幌側には人家もない場所に「神工園」というバス停がある。
昭和初期の国道開通時、自然の巨石が連なる風景に、遊歩道や茶店を設けた小公園があった。
戦前に営業を休止したまま、現在は一部が採石場となっている。
張碓橋付近の除雪車輌のテストコース付近から山に入る。
この先が「軍事道路」の起点だ。
鉱山は更に奥の標高180m付近となる。
軍事道路起点には人家もあり電信棒が立っている。
小樽・札幌近郊とは言え、自然豊かな土地だ。
この先、しばらくはダートの生活道路の雰囲気がある。
しばらく進むと木製の電柱が疎らとなり、
ついには廃墟が林立する。
付近の脇道から鉱山探索を行う。
脇道の奥で発見した〒マークの謎の廃祉。高さ2.5m程度のRC製で堅牢な扉がある。
これは郵便施設ではなく電話線ケーブルを通る通信信号の減衰を補う、
「装荷線輪」(そうかせんりん)装置の収納部だ。旧逓信省管轄のため〒マークが刻印されている。
軍事道路から東部へ廃道を進む。
目指すは最奥の仏の沢鉱床だ。
地質図では「佛の沢鉱床」との記載が混在している。
分岐から約600m廃道を進むこと20分。
斜面に黄色の巨岩が点在してきた。
これらが黄褐色塊状鉄鉱石の残留鉱床かもしれない。
木漏れ日の鉱山道路をさらに進む。
そろそろ仏の沢鉱床に到達するが、巨石の出現以外目ぼしい痕跡はない。
このまま、徒労に終わるのか。
足元に人工的な木材である。
φ350程度の木材に番線が束ねて結束してある。
鉱山の遺物である人工物には違いないが、目的は不明だ。
その上の斜面には明らかに人工的な巨岩の点在が見られる。
転石状の産出は付近の銭函鉱山でも見られたらしいが、
その成因は鉱石の性質上異なる結果が確認されている。
鉱床付近にキンクしたワイヤーケーブルがあった。
ここが仏の沢鉱床で間違いないだろう。
唯一の坑道との情報であったがそれは発見に至らなかった。
苔むした電柱の廃祉がある。
最盛期には20人以上の労務者がいたとのこと。
搬出や土場が電化されていてもおかしくない。
仏の沢鉱床から下り再び軍事道路付近に出る。
ここにはケルンのような石積みがある。
これは鉱山系でなく、郵便事業と電気通信事業を管轄していた旧逓信省の施設跡かもしれない。
軍事道路も前述の「神工園」を小樽側へ超えた場所まで入山した。
ここから、南西に200mで本鉱床のはずだ。
しかし鉱山道路の痕跡さえない激藪だ。
道が無い以上、藪を漕いで進むしかない。
GPSと磁石をセットし、マーキングテープを巻きながら、
道なきルートを進む。
ここから一気に下る。
斜面を下るときの基準は、そこを逆に登れるか?だ。
沢沿いに下る場合もそこが要注意だ。
20m程度下ると巨大な岩盤が現れ、
これは明らかに人工的な坑口跡だ。
ここが本鉱床の1号部分になる。仮に第一坑口とする。
坑内は2m程度の採掘である。やはり人工的な掘削跡で、
灰黄色で良質な褐鉄鉱石に見えるが、
実際はFe分が少なく、珪酸(SiO2)分が多いのが特徴だ。
坑口から巻いて更に巨岩に沿って進む。岩盤の色が明らかに黒色に変化した。
これは黒青色結晶質鉄鉱石で母岩に鉱染した黄鉄鉱が二次的に酸化したもので、
硬度が高く、実は品位もFe56%と良質の鉄鉱石となる。
その脇には第二の坑口である。
ここは藪に埋もれ、辛うじてその痕跡が見える。
深さは第一坑口同様、2.3mしかない。
第二坑口にはスレートの部材が朽ちている。
当初は坑内面の盤圧に対して、築壁設備として覆われていたものかもしれないが、
時間的経過で発生した岩盤のはく離によって、地圧を伝達しなくなった免圧圏の死荷重によるものかもしれない。
鉱床の岩盤に育つ木々。
岩盤を割って育つ木々の生命力は計り知れない。
更に巨岩に沿って進む。
そして第三の坑口である。
ここにもスレートが落ちている。
鉱床の走向に沿ってほぼ水平に開かれた横坑であるから、「樋押坑道」と言えるのかもしれない。
森に辛うじて残る九十九折れの鉱山道路跡。
写真では非常に解りにくいが、運搬は鉱山事業の中でも中心要素であるから
きっと鉱石搬出や資材投入の道が開墾されていたのだろう。
思わず見過ごしそうな、木に残るワイヤーケーブルの跡だ。
人跡未踏の山中に、人工の痕跡だ。
この奥が鉱床に違いない。
再び目の前に立ちはだかる巨岩である。
前鉱床と似た風景だ。
藪を漕いで巨岩を一周してみよう。
巨岩をぐるりとほぼ一周し、諦めかけた矢先に坑口の発見である。
ここはぽっかりと空いた坑口だ。
第四坑道としよう。
この第四坑口も深さは2m程度しかない。
恐らく水平方向の穿孔を行うドリフターかレッグドリルのような削岩機を利用したようだ。
このような堅岩にはタガネの回転機構と打撃機構が別となった器具が使用されたであろう。
坑口の脇の岩盤に食らいつく木の根である。
硬い岩盤を侵食し、
岩をも砕きながら延長している。
第四坑口から北へ向かう。
鉱山道路は見当たらず、
果たして鉱石はどのようにして搬出したのだろう。
第四坑口から廃道を400m進んだ地点で発見した鋼製の架台だ。
人知れず森の奥に残存するこれは鉱山に起因する産業遺産だ。
これはいったい何のか・・・詳しく見てみよう。
H鋼と等辺山形鋼で組まれたL×W×Hとも3,000程度のイケールである。
接合部はスラグが残る被覆アーク溶接のようで、どうやら現場で接合したようだ。
形状は横から見ると直角三角形で、片側が平面となっている。
床面にはアングルが格子状に組まれ、縞鋼板でも張ってあったようだ。
これはエンドレス運搬の終端部ではないだろうか。原動車輪と終端車輪の滑車に鋼索を環状にかけ、
これに鉱車を等間隔に取付け、循環運搬を行ったのではないだろうか。
形状から写真左にテンションが係る構造らしい。
とすると、これは単純な構造から1本の鋼索でバケットを支持し牽引する架空索道の跡かもしれない。
規模からいって曳索の両端に搬器を付けて上下停留所を交互に行きかう交走式(ロープウエイ方式)索道だった可能性もある。
架台の間から延びる白樺。
一般に鉱山索道の始点-終点(一区間)間距離は6km以内であり、
索条の撓度(たわみ)と緊張を考慮すると、どこかにこの相棒があるはずだがそれは謎のままである。
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