ビルド鉱のエース




石勝線 沼ノ沢駅は明治38年 開駅。
付近に沼があったため、この名がついたらしい。
当初は貨物駅だったらしいが、現在、旅客駅としても寂しい状態だ。 沼の沢駅

真谷地炭鉱方面に向かい、
揚炭坑口付近に進む。
今は人家も疎らだ。 線路

揚炭坑口であるベルト斜坑(3,154m)と材料斜坑(3,011m)である。
かつては付近に選炭工場も存在した。
各坑口は昭和58年に完全密閉された。 揚炭坑口

ペンケマヤ川に沿って登る。
昭和50年より営業出炭を開始した。
炭鉱の中では相当近代に近い。 ペンケマヤ川

山中にかなり大きな坑口があった。
これは通洞坑で付近が繰込み所である。
格子で密閉されている。 通洞



内部は埋没しているのか奥に明かりは見えない。
かつては清陵町から人車でここを通り、
繰込み所から竪抗に入坑した。 通洞坑



そして1,200m離れた相手側坑口である。
こちらは慰霊碑もあり、
静かに保存されている。 清陵町


その隧道の上部には給水設備の廃祉がある。
昭和なかでもどこか近代的な遺構だ。
自然発火防止に尽力を尽くしていたので、これは消防設備だったかもしれない。 給水施設


見下ろした繰込み所全景である。
奥に見えるのが昭和49年完成の第2竪抗である。
接近してみよう。 繰込み所


足元の廃墟跡を過ぎて第2竪抗に近づく。
深さ808mの坑口はもちろん密閉されている。
ここには大きな櫓があったはずだ。 第2竪抗


竪抗の上部にはガス抜きのための配管が朽ちている。
ビクトリックジョイントで接続されたゲートバルブは、
腐食激しくすでに機能していないようだ。 ガス抜き


第2竪抗の東に位置する扇風機風洞跡。
こちら側は排気を担い、
扇風機の出力は2,000kw、風量22,000立米/分という巨大なものだった。 扇風機


付近には廃墟が点在し、
かなりの施設であったようだ。
ほとんどが撤去され、当時を忍ぶ施設は少ない。 廃墟


各施設から少し離れた一画にある廃墟。
これは少し独特で、
もしかしたら火薬関連かもしれない。 火薬庫


入構してみよう。
内部は乾燥激しく、粉塵が舞う。
棚があり折れ曲がる通路。 入構


落ちている書類は「受渡簿」。
「電気雷管〜号」との記載がある。
やはり火薬関連の施設で、もしかしたらQC手法の管理が成されていたのかもしれない。 受渡簿


これは下駄箱のようだが番号が振ってある。
恐らく出庫する雷管などを管理していたのだろう。
ここは火薬の取扱所だ。 棚


角を90°折れ曲がるとそこは、
「夕張新炭鉱 火薬取扱所」の看板が。
荒れてはいるがアルミサッシの小部屋がある。 火薬取扱所


奥は事務所のような造りだ。
もともと霊感などには疎い方だが、
ここの雰囲気は圧倒的だ。 事務所


再び繰込み所に戻り点在する廃墟群を見る。
昭和51年の在籍人員は1,510名。
廃止統合を経て大規模炭鉱となったが今は荒涼とた風景を残すのみだ。 廃祉


さらに2km程遡った第1竪抗付近である。
ここも同様に廃祉が点在し、
荒れた風景だ。 第1竪抗


第1竪抗跡は通気入坑の大部分を担っていた。
深さ916m、炭層が厚く「スライジング採炭」と呼ばれる上下2段方式がとられた。
そして一般に通気は排気側から扇風機で吸引するのが一般的だ。 竪抗跡


北の沢を跨ぐ配管の橋梁があった。
これは自然発火防止のためフライアッシュ(石炭灰)を集塵して、
パイプ流送し、不要坑道の早期密閉や採堀切羽の充填を実施するのが目的かも知れない。 配管


付近には何かの架台や基礎になる建築物も点在する。
ポンプでの揚水やガス量の計測も
自動制御していたらしい。 架台


制御や監視を自動で行う当時としてのIT炭鉱であったにもかかわらず、
大事故が発生してしまったことは、
今なお悲しい事実だ。 第1竪抗







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