山海の珍味が並ぶ鉱山神社祭り
のんびりと自然豊かな黒松内町境付近。
かつては「寿都」「歌棄」「虻田」の三群に分かれていた。
地理的条件ではなく、鮭漁の区割りの関係であった。
付近には広大な牧場が広がる。
かつての後志支庁管内19町中面積は第一、
人口は第三位であった。
国道5号線からダートに入る。
牧場に囲まれた道だ。
ここから鉱山跡までは直線距離でまだ3.5kmある。
入り口には鉱山を紹介する看板が掲げてある。
蘭越町教育委員会が平成11年に掲示したものだ。
簡単な地誌と位置が記載されている。
脇の畑ではたまねぎ、
じゃがいもの収穫が最盛期を迎えていた。
さらに奥へ進む。
ここからは徒歩での探索となる。
三度目のアタックではipadを導入しての位置確認を行う。
しかしながら、衛星写真上の現在位置確認は山中では有効でなかった。
少し進むとエゾリスが現れて、やたらと追いかけてくる。
人間に興味があるのだろうか。
しかし、一定の距離以上は近づかない。
目名川最上流域を更に登る。
もうすぐ旧上目名駅だ。
未だ林道は続いている。
大正2年(1913)開業、昭和59年(1984)廃止の上目名駅だ。
駅長の娘の高校卒業により、乗降客がゼロとなる。
現在は保線小屋のような建屋のみが残存。
鉱石運搬の貨車は4〜6回/日、17t車が二連であった。
付近に積込用の土場があり、国鉄トンネルのズリで沼地を埋め立てて造成、
吹き抜けの倉庫もあったようで、それだけでも当時の鉱山の盛況がうかがえる。
上目名駅を超えると一気に林道は廃道化となる。
辛うじて保安林の工事が施工されたようで、
乗用車では躊躇するダブルトラックが続く。
水源かん養保安林の看板があり、このような場所では頼りになる存在だ。
林道は町境の尾根沿いに伸びているようだ。
当分この林道を遡り、どこか傾斜の緩い場所で白井川に下る予定だ。
40分程度進むと南西へ下る踏み分け道がある。
方向としては白井川方面であり、
直線距離200mで100m程度下るので平均斜度は26度程度。
辛うじての林道のなれの果てのような道を下る。
沢の音がやがて聞こえて来るまで、20分程度は下ったようだ。
あとは沢の太さや深さ、その状況だ。
そして予定の白井川最上流域に到達した。
GPSで確認すると鉱山跡まではまだ2km近い。
ここから恐らく廃道となることが予想される。
すぐ上流には砂防ダムがあり、
そして展望広場のような小公園の看板がある。
こんな山中に保安林の事業の一環なのだろうか。
ダムを超えると完全廃道である。
ここからはGPSとピンクテープを併用しての遭難防止だ。
この状態がおそらく1.5kmは続くだろう。
目名川も小さな流れと化す。
鉱山の最盛期(昭和15〜17年)には新鉱の発見と共に、
選鉱所も建設され、女子従業員による選鉱、50kgの叺にて上目名駅に運搬した。
今だ砂防ダムが続く。
労務者は68名に及び、駅付近には社宅が六棟建てられ、
飯場・事務所・馬小屋等も採掘場付近から移設されたという。
1時間程度藪を漕ぐと、いよいよ笹薮の廃道となり、もう鉱山道路の痕跡も解らない。
採掘箇所は第一鉱と第二鉱の二か所に分かれ、
第一鉱は水平掘進で150m、第二鉱は選鉱所から200m山上に存在したという。
更に奥の斜面で発見した赤い鉱水を流す沢。
この日、これが唯一の痕跡となる。
鉱石の運搬は箱トロッコや一輪車の記録がある。
社宅等が存在したであろう、付近で唯一の平場である。
鉱山神社の祭りでは各機関関係者が招待され、
戦時中の物資欠乏の時代にもかかわらず、山海の珍味が多数ふるまわれる盛況なものだったらしい。
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