スキーでの通勤


まずは瀬ノ沢(岩手県)側の探索だ。
こちらは花輪鉱山の鉱山事務所・選鉱場・シックナー分析所などが配置された、
後工程の主施設側となる。 瀬ノ沢


本鉱山の組織機構は所長以下総務課と鉱務課に分かれ、
総務には庶務や経理の4係、鉱務には採鉱、選鉱、分析などの5係、
その下請けが7組あり、ボーリングや坑内作業、土木などを分担していた。 探索


選鉱所の廃祉に到達だ。

下請事業者は6名から80名の7組織、
青森、大館、新潟から京都、石川の業者も所属していた。 選鉱所


ここ瀬ノ沢地区には選鉱所などの鉱山中枢と、
変電所・分析所・診療所・集会所や浴場・理髪所
などが集約され鉱山住宅278戸が建造されていた。 遺構


選鉱施設が点在する。

95%の従業員が瀬ノ沢地区の鉱山住宅に入居し、
残りの5%は周辺集落での半農半鉱の通勤労働者となる。 選鉱場


巨大な石垣も残存する。

鉱山住宅は急こう配の屋根を持ち、冬季の深雪に備えていたという。
住宅は従業者に無料貸与、電気・水道・燃料費なども会社から大幅な補助があった。 石垣


管理職社宅は高台にあり、一般社宅とは間取りも異なり、
宅地も広かったという。
かつては各飯場から作業現場へスキーで通勤したということもあったらしい。 U字溝


巨大なシックナー(連続式沈殿濃縮装置)が残る。
選鉱時に発生する水に混合された汚泥(スラリー)を濃縮したり、
溶け込んだ汚泥と水分と分離させるのがこのシックナーの目的だ。 シックナー


槽中心の回転軸に取り付けられた回転レーキ(かき取り羽根)がゆっくり回り、
鉱滓(濃縮スラッジ)は中心部底に集められ排泥後、パイプで送られる。
上澄水は外周の壁を越えてあふれ出し(上澄層)、
溢流樋(いつりゅうとい)を通り外部に排水される。 マウスon 沈殿濃縮装置


労務者の出身地は岩手・秋田で64名と最も多く、
その他は高玉(福島)、日立(茨城)豊羽/恵庭(北海道)と、
鉱山地域出身者が多いのが特色となる。 選鉱場


職員のうち管理職者は6名で構成されており、
地元(秋田/岩手)出身者は技師長1名に過ぎず、
日鉱や三菱などの鉱山地域ではこれが一つの問題点だとの指摘もあった。 選鉱所


選鉱場は破砕摩鉱を行った後、浮遊選鉱を行っていた。
完成した精鉱はトラックで田山駅貯鉱舎に送り、
日立・佐賀関・新潟などの精錬所に鉱送された。 選鉱施設


今度は秋田県女平側に移動、
採鉱現場付近を探索する。
当時の鉱区は三平・安代・明遠などであった。 遺構


山中を進むと坑口、元山通洞に到達だ。

昭和46年(1971)の従業員給与は安代町内で最高額、
鉱業所から町への諸税額も多く、地域社会に対する発言力も大きかった。 元山坑


当時の安代町議会議員定数26名中、
鉱山出身者は3名が占めており、
町議会、行政の運営にも大きな影響力を持っていた。 元山通洞


元山通洞坑口である。

女平と瀬ノ沢の鉱山町には供給所が設置され、
商店機能として従業員に日用品などの販売を行っていた。 元山通洞


各鉱業所の供給所は独立採算を打ち出していたが、
現実には営利を目的とせず、商品を市価の80〜90%で販売。
そのため鉱山従業員だけでなく近隣地区住民も利用していたという。 選鉱所


供給所の売り上げは安代町内ではトップクラスであり、
瀬ノ沢地区には民間経営の4商店が存在、
米穀・鮮魚・青果・豆腐店が販売を司っていた。 選鉱施設


女平と瀬ノ沢には鉱山診療所があり、
週に3日間、大館市の労災病院からの出張診療が執り行われていた。
急患の場合は総務課付けの車で花輪町の病院に搬送していた。 選鉱施設


無料の浴場は各社宅ブロックごとにあり、
理髪店は鉱業所との委託契約により安価で利用可能、
山深い鉱山地帯でも生活に不自由はなかった。 廃墟


鉱業所の総務課庶務係は鉱山地区の、
戸籍や住民票、年金、母子手帳などの公共サービスも担っており、
役場の支所的な役割も果たしていた。 水槽


かつて瀬ノ沢には昭和15年(1940)設立の花輪鉱山小学校があり、
中学校へは鉱山のスクールバスによって通学した。
花輪鉱山小学校のピーク時児童数は238名に及んだ。 ベルトコンベヤー


従業員の子弟が高校進学の場合は就学補助金の支給、
昭和34年(1959)鉱業所経営の公立保育所の設置、
そして鉱業所内には文化図書室の存在と充実した施設が揃っていた。 コンディショナー


瀬ノ沢の鉱山事務所傍近には山神神社があり、
毎年7月12日には山神祭が行われ、会社代表、来賓の町長や議会議員も出席、
盛大な神事と諸行事が開催、鉱業所は前後3日間の休業となった。 廃祉







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コンディショナー跡
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