金城鉱山跡  探検: 北の細道 金城鉱山

金城鉱山で少年たちの錬磨を見る




北海道函館市

 函館市の少年刑務所は明治2年(1869)に庁内に開設され、
函館少年刑務所と改称したのが昭和18年(1943)、
特に被収容者の出所後の生活基盤確保のため、職業訓練に力を入れている。

職業に必要な知識や技術、資格取得を目的としながらも、
訓練を通じての忍耐力や自立心の向上など、精神面の鍛錬も視野に入れた教育を行っているという。
また日本で唯一、訓練船舶を所有し船舶職員の職業指導も行っている。


 本坑の主鉱物、マンガンは鉄に似た金属元素で、
天然には常に化合物となって存在する。
つまり単体で存在していないことから、その発見は1774年と遅く、
化合物から還元されて初めての認識となる。

マンガンの原子記号はMn、原子番号25、原子量54.93と、
全ての原子の中で最も軽い水素から数えて、 25番目の重量を持つこととなる。
比重7.42、融点1230℃、沸点1900℃、
鉄に添加すると機械的強度・耐摩耗性が格段に向上する。

明治初年から始まった我が国のマンガン鉱業は当初鉱石のまま海外に輸出した。
製鉄所が八幡・釜石・室蘭などに建設された以降は、
冶金製錬が発達、乾電池原料などとしても重要となり、
輸出鉱石は国内消費に転換される。

日本は第一次大戦(T3〜T7)時、連合国の兵器砦として、
武器用フェロマンガンなどの合金製造で独自の地歩を確立した。
大戦後の不況を乗り越えた後、昭和7年(1932)満州事変によるマンガン鉱需要は、
太平洋戦争の軍需拡充により更に加速的となり、 国の統制機関をもって増産体制が強化される。

しかし昭和19年(1944)以降は鉱石品位と製錬能率の低下が顕著となり、
第二次炭戦後のマンガン鉱業は疲弊、輸入鉱石に安価な国内鉱石を配合して使用し、
やがて電気炉などによる効率的な精錬技術も空しく、
アメリカ、アフリカなどの大規模マンガン産地の需要が増えていくこととなる。


金城鉱山は実は函館少年刑務所と緊密な関りがある。
鉱山跡で発見できた諸設備遺構も、
恐らく刑務所の職業訓練と関係すると思われる。

それら予備知識を持ったうえで、
この山深い鉱山跡を探索してみたいと思う。



竈・レール・カルバート・・・



遺構
( ̄u ̄;)遺構





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