中小炭鉱のモデル鉱
茶志内市街地を望む。
炭鉱時代の昭和24年世帯数1,313戸、人口7,387名、うち炭鉱関係者が44%を占める。
現在は131世帯、345名の牧歌的な街だ。
産化美唄川に沿って林道を遡る。
茶志内駅から約4qとそのアクセスも楽だ。
いきなり土手に何か見える。
附近が上村炭鉱選炭所全景である。
ここには木造のホッパーやかつての選炭所があった。
奥へ進んでみよう。
RC造の廃祉が連なる。
昭和22年以降の業績は順調で、
昭和24年には年産1万t程度の出炭規模にまで拡充された。
土手にはレイルが埋没している。
政府資金の導入、昭和32年には年産32,000tの出炭となる。
レイルは多数落ちている。
幾何学的に組み合わさる遺構群。
斜面に設置されているのは、
上からの重力を利用したカスケードシステムの産物のようだ。
レイルの高さはおよそ63mm。
これは恐らく9kg級のレイルとなる。
標準軌道は30kg以上なので、これはトロッコなどの軽軌道用となる。
選炭所に沿って登坂する。
かなりの斜面だ。
当時、道内中小炭鉱のモデル鉱として認められた。
水槽らしき遺構がある。
モデル鉱となった要因としては、
坑内におけるガスの発生量、湧水量ともに少なく安全だったことが大きい。
遺構は続く。
炭層の上下磐も固く、採炭条件も良かったという。
それらもモデル鉱と称された要因であった。
炭質も良好で光沢のある漆黒。
硫黄燐はほとんどなく。
自然発火の恐れも少なかった。
分岐するレイルも残存する。
坑道運搬は4t蓄電池式機関車を利用していたらしい。
このような分岐が残るのは珍しい。
昭和36年が転機であり、釧路の休山中炭鉱、
上尾幌坑の開発着手が赤字計上の起因だったという。
今は森に遺構が残るのみである。
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