現在、私の随筆・短編小説コーナは、工事中です。
増設、増設を繰り返して、よりよい作品にしていきたく思っております。
皆様にご迷惑をかけていますが、いましばらくおまちくだい。
【 索 引 】
−−−−雉鳩の雛誕生
−−−−
(1997/9/14)
このような時期に、もう遅いと思っていたが、家の物干しに雉鳩が巣作りを始めた。
正確には、巣を作り、もうすでに卵を抱いている状態で気が付いた。
巣を作った場所は、物干しの屋根になっているビニールトタンと物置代わりに使って
いる二人用のロッカーの約60センチメートルの隙間だ。
その隙間にどこから運んできたか知らないが藁くずや木の枝で巣ができていた。
約一週間ぐらい親鳩が卵を抱いて身動きひとつせず、しかし時々は、もう一羽と交代
しているらしかった。
物干しに出て、干し物を家の者が出し入れしていても雉鳩は全く気にしていない様子
で一心に卵を暖めている。
僕の方は何か家族が一員増えたようで、雉鳩の外敵である蛇や猫がこの親子を襲うの
が少々心配であつた。
できるだけ物音をたてず、ロッカーを揺らさないように様子を窺っていた。
しかし、なかなか雛鳥が孵らず、卵へのままで日の目を見ないのではないかと危惧感
が生じてきていた。
9月11日頃、何かいつもとは違う物音がその巣の方からするので、親鳥が巣を離れ
ているときに覗いてみると、いるいる、雛鳥がそれもなにかみすぼらしい姿をして、少
しびくびくしているような状態で、少し身を屈めたような状態で、もうすでに卵から孵
っていた。
はじめは、一羽とばかり思っていたが、二羽孵っているようだ。
ある時、親鳥が巣の中に入ろうとしていたとき、僕が物干しにいたので、その親鳥は
、すぐに巣の中に戻らずに、手前の電話線にとまって、次にまた、別の場所にとまり、
少しずつ巣に近づき、用心しながら巣にも戻った。
そして、餌を口移しで二匹の雛鳥に交互に与えていた。
僕は、双眼鏡を取り出し、その様子を観察した。−−−−−すなわち、これが、バー
ド・ウォッチングと言うものなのだろうと思った。
服飾評論家の林 勝太郎と言う人が、「バードウォッチングの休日」という一文の中
でイギリスの田舎におけるバード・ウォッチングを「水辺や梢に野鳥の姿を追い、その
さえずりに耳を傾けるバード・ウォッチングは気軽に自然とつきあえるアウトドア・レ
ジャーとして、イギリスでは古くから行われている。」と書いている。
また、その文の中で、「バード・ウォッチングは古い歴史を持ち、17〜18世紀ご
ろ、ヨーロッパで発祥した博物学に端を発し、イギリス貴族階級の知的な趣味を経て、
鳥類愛護の思想から広く一般の人々にも行われるようになった。」ともあつた。
バード・ウォッチングは、休日に郊外の森に出かけ、すがすがしい気持ちで、野鳥の
鳴き声を追う、その方向に双眼鏡のレンズを向け、自然の妙を観察する。
僕は、それが、現代社会の喧噪に疲れたビジネス戦士の「気」を少しでも自然と一体
感を味わわせてくれることで、心と身体のリラクセーションに寄与しているように感じ
た。
僕の家の新しい家族の一員は、せっせと餌運びをしている。
自然の中に少なくとも2つの命が芽生えた、この命を大切に育んでいかなければならな
い。
デズモンド・モリスは、我々人間を−「裸のサル」、「舞い上がったサル」−と表現
した。
その表現はさておき、人間も雉鳩も共に自然界の一員であることには変わりない。
お互いの生存競争があることは確かだが、自然の共生を崩してはならない。
最近の世間の現象を看ていると、人間の側に自然との共生の崩壊が起こってきている
のではないだろうかと感じるのは僕だけではないだろう。
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−−−「時」の圧力と云うモノ
−−−
かって、私は、苦しいあがきということを経験したいというような贅沢な−−−?思
いをしたことがあった。
しかし、その贅沢にも経験したいと欲した苦しいあがきというモノは、自分が実際に
経験してみなければ全く理解でき得ない代物であった。
その苦しみからはい上がるためには格段の勇気と努力と運が必要であった。
一番取り返しのつかないモノは、苦しみから離脱するためには、それに必要なモノは、
「時間」であった。
苦しいあがきの淵から脱出するためには、「時間」が、思っている以上の数倍の「時
間」が必要であり、これは、絶対に元に戻すことのできない不可逆的なモノであつた。
「時」とは、この世で一番恐ろしいモノであり、また、経験のための必要不可欠なモ
ノであった。
それを「時」の圧力と言い表すことが出来る。
この「時」の圧力は、時間が経過する度に徐々にその力を増していく。
避けることの出来ない人間を含めた・・・いや人間のみが味わう性であると思う。
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−−−一般小市民考
−−−
戦前においては、東北貧困農民が社会の全ての矛盾、不合理を背負った一種の安全弁
的な、ある意味では、日本において重要な役割を担ってきていた。
ところが、現代社会では、一般無資格労働者がその現代的な意味において、より一層
の不合理性が渦巻く社会において、安全弁の役割をはたしているようであると思われて
ならない。
彼らは、悪い意味で利口になりすぎた。
これからの社会は、彼らのような一般教養を少しく身につけて、ある程度の情報を得
られる一般知識人を土台にして(犠牲にして)、虚像の情報化社会を築いていくことだ
ろう。
そして、この者たちを土台にして成り上がって行く者たちとは、どのような輩である
のだろうか。
教えて欲しいものだ。
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−−−両者の言い分
−−−
彼の言い分は、分かるが筋が通っていないと言うことがよくある。
その場合、その両者の間に入っている者は、どういう立場に立つべきか想い迷うこと
がある。
両者のどちらの言い分も理解を得ることは、表面上は容易いことかもしれない。
しかし、それは、本質から逃げていることになりはしないか。
二者択一でどちらかを選ばなければならない場合、もしAを選べばBにとっては不満
が残ってしまう事になり、逆の場合も然りである。
ゲーム理論の中に「囚人のジレンマ」と云うのが有るらしい。
どちらを選ぶか思い悩み立ち止まってしまいどちらも選べない状態になってしまう。
どのように解決すればよいのであろうか・・・。
少しのヒントがあれば教えてほしいものだ。
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−−−山鳩の巣作り
−−−
ここ一週間前から裏庭から山鳥らしき鳥が、二匹で何かしらばたばたした動きが気に罹っ
ていた。
洗濯物を干す棹や近くの屋根に留まったりして、しきりにこの近辺が気になる様な仕草を
見せていた。
以前にも雉鳩が、以前に植わっていた金木犀の木に巣づいたことがあった。そこで生まれ
育った雉鳩が、一種の帰巣本能のような形で近辺で、再た巣作りを始めたのであろうか?
時々、巣の方を覗ってみると、確かに一匹の山鳥(雉鳩か?)が、じっと止まっている。
卵を抱いているのであろうか、もし、そうであれば、ここで生まれて3世ということにな
ると思われる。
自宅の裏庭の木に、鳥が巣作りを始めたと云う事は、僕にとっては一種「縁起が良い」事
の様に思われる。
台風が近づいている。20号のあの強風にも潰されなかった様だ。21号も近じか到来し
そうである。風水害で潰れてしまったら仕方がないが、無事を願っている。
8月29日になって巣の中に山鳩が見えなくなった。巣の中は詳しく見えないが羽毛の様
なものが散らばっていた。
卵を抱いている様に思えたのだが卵を産むことに失敗したのだろうか?
残念だ。再た巣に戻ってくることを期待したい。
(2018/8/)
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