マニラ旅行記

                        1998/1/1(木)〜1/6(金)           目次            1.序章            2.アキノ国際空港に到着            3.センチュリー・パーク・マニラホテル            4.マニラの街角            5.LRT(Light Rail Transit)からの眺め            6.アジアの街角に立って            7.PIANO Barにて            8.アジアの庶民の生活            9.フィリピンという国    1. ―序章―       はるか5号にて関西国際空港へ。     初めて訪れる国、フィリピンへ旅たちをする。     4日間のフリーのうち、諸々のことを見聞するするだろうが、好奇心を持って何でも見てきてやろう。     フィリピンは政情不安、治安があまり良くないと言われている。     物価はどうなのか、生活は日本と比較して、また、他のアジア諸国とはどのように異なっているのか    日本へ来訪するフィリピーナの暮らし振りは・・・・と興味が尽きない。     しかし、本当の目的は、以前何かで知った「マニラ湾の夕日」にある。     昔、マニラと言えば、「マニラ湾の夕日」のその美しさで有名であった。     また、多くの日本人がマニラを訪れた。    マニラ湾の夕日マニラ湾の夕日     しかし、今は、ツアーも少ないし、旅行代理店に行っても、紹介のパンフレットも置いていないのが    現状だ。     どうしてこのようになってしまったのだろうか。     政権が交代してからだと言われている。     そのため、以前のマルコス大統領時代を懐かしむ人々もいることだろう。     また、「ルソン壷」についても博物館にでも行けば観ることができるだろう。     フィリピンの概観は次の通りです。     フィリピンは、大小7107もの島々から成り立っている。     マニラのあるルソン島をはじめ、ミンダナオ島、セブ島など主要11の島々で総面積の96%を占めてい    ます。     その島々は中心的存在のルソン島、セブやボラカイ島などからなるピサヤ諸島、ミンダナオ島とスル    諸島の3つの大きなグループに分けられ、それぞれ独自の文化風土を持っています。     フィリピンの正式名称は、フィリピン共和国(Republic of Philippines)で、首都はメトロ・マニラ    日本語に訳せば「マニラ首都圏」と言ったところか。     人口は、約6565万人程度。     国民の約93%がキリスト教徒(80%がローマカトリック)で、ミンダナオ島の一部などにはイスラム    教徒もいる。     民族は、100以上に分かれるが、マレー系が96%を占めている。     言語的にみると、マレー系であっても、民族グループ毎に独自の言語が使われており、地域によって    文化や民俗がかなり異なっている。     気候は、1年を通じて気温が高く、正確には熱帯モンスーン型気候に属していて、季節風の影響によっ    て、乾季、暑季と雨季の3つに分けられる。     1998年の元旦より、日刊マニラ新聞のホームページが開設されました。     マニラ新聞のホームページのURLは次の通りです。     日刊マニラ新聞(http://www.manila-shimbun.com/)    目次へ>      2. ―アキノ国際空港に到着―     マニラに到着して、明日は帰国するという時期になって初めて日記(旅行記)を綴る気持ちになった。     マニラは、それほど私の頭の中が少し慣れるまでは整理が付き難い都市であった。     マニラのアキノ国際空港では、私の機内荷物がいつまでたってもターンテーブルから出てこなかった。     機内でのアナウンスでゲート3のターンテーブルから荷物が出てくるという説明があったが、出てきた    のはゲート6からであった。     団体待ち合わせゲートで待っていてくれたのは、現地ガイドのPedyという名前の40歳がらみのの    男性で日本語を器用にこなした。     空港の外に出ると、まだ午後の日差しが強く、日本における真夏を思わせる熱気が肌を直接おそってき    た。    目次へ>    3. ―センチュリー・パーク・マニラホテル―     アキノ国際空港から車で約30分程度で宿泊ホテルであるセンチュリーパークマニラホテルに到着した。     私は、その間、その車窓から見える景色を注意深く、また興味深く眺めていた。     空港周辺は、荒れ果てた土の地肌が見え隠れする空地がやけに目についた。     市街地に近づくにつれて、建物や看板が目立ち始め、人々の往来や店などが点在してきた。     もう一人、私と同じセンチュリーパーク・マニラホテルに宿泊する男性がいた。     千葉の人間で、フィリピンにはもうこれまでに6回訪問してきているとのことだった。     彼に言わせると、マニラに友人が居るとのことで、1月4日まで滞在するということだった。     ホテル、センチュリー・パークは、普通程度のホテルで、今度もなぜか動物園(Manila Zoo)のすぐ近く    に位置していた。     ハワイでも初めて宿泊したQueen Kapiolani Hotelは、Honolulu Zooのすぐ正面に位置していた。     動物園に縁があるのだろうか?・・・・、しかし、どちらにも入園しないことになる。     ホテルに到着して、Pedyさんとのその後の連絡を取るため、連絡先を聞いておいた。     なぜか、教えてもらった電話番号はPedyさんが勤めているオフィスではなく、彼のアパートの電話番    号(924-79-82)であった。                 大聖堂マニラ大聖堂     そして、もし、電話をかけてくるのであれば、朝の8時〜9時までにお願いしたいとのことであった。     ホテルの部屋は、結構良かった。     冷蔵庫ももちろんあり、ベランダもあったが、なぜかベランダは安全確保のためか、窓の鍵が常時ロック    されていた。    目次へ>    4. ―マニラの街角―     そして、一度、ホテル周辺に出てみて、その人の多さと、乱雑さ(みすぼらしさ)と、物売りの多さと、    人々の貧しさとそして異様な臭い(これは、後ほどもっと驚かされることになるのだが)に、日本では経験    できない状況に驚かされた。     それは、混沌が支配している街のように思えた。     これが、マニラかと一種の戸惑いを禁じ得なかった。     そして、この様な状況で6日帰国まで何をしてよいのかと、それまで居られるだろうか(耐えられるだろう    か)と不安になった。     「マニラ湾の夕日」を観るために訪れたが、これからどうなるのだろうかと本当に戸惑い、不安の思いが    気持ちがよぎった。     そして、この異様な「臭い」には、本当に閉口した。     生魚と生肉と野菜と果物の混ざった異様な「臭い」には、本当に吐き気を催すほどのいやな「臭い」だった。     以前、バンコクにおいても、特有の臭いがあった。それは、母なる川であるチャオプラヤー川の臭いだった。     これは、水草の臭いだった。     そして、女性の身体からもこのチャオプラヤー川の臭いが、ほのかに漂っていたことを思い出す。     しかし、このマニラの街角の「臭い」は、すごいと感じた。     数日後に訪れたSan Andress Marketの、あのすさまじいとしか言いようのない雰囲気と「臭い」、そして    人、ひと、ひと・・・・。     物貰いの幼い子供たちと老婆、そして、買い物に訪れる街の人々、そういった人々が混然一体となっていた。     また、Jeepnyのけたたましいサイレンの音、排気ガスと交通ルールを全く無視した早い者勝ちの車、車、車。     ほんの少しの隙間を我先に突っ込んでくる、そのもの凄いエネルギー。     マニラの街は、そのような混沌と喧騒に満ちた都市のように感じた。     普通、一般の人がこの様な状況を日本で言うところのスラムのような感じを私は受けた。     そして、Pasing川を渡った西側に広がるTondoという地域の本当のスラムは、日本で茶の間のテレビ画像か    ら流れてくるようなスラム映像からは、想像もつかないような所だった。     そこには、ガイド無しでは本来入ることが出来ないし、ましてや1人で、しかもカメラにその描写を撮ると    いうことはできなかった。          1路上の物売り1 2路上の物売り2     そこでは、埃まみれのバラックのような掘立小屋の中で多くの人々が生活をしていた。     その建物の隙間の路地という路地は、物売りの店が軒を連ね、その「臭い」の凄まじいこと。     また、その路地で何をするでもなく男女が椅子に腰掛け、また寝そべり、通りを通る人々を虚ろな目で眺め    ている、その周りには多くの裸同然の子どもたちが遊び回っていた。     この様な状況は、マニラの都市の中心部ErmitaやMalateにおいても同様であった。     公園や建築現場の片隅には、バラックが必ずあり、そして、ホームレスらしき男女が座っているか寝そべっ    ていた。なかには、路上の片隅で火をおこし煮炊きをしている場面も数多く見受けられた。     マニラ湾に沿った海岸の防波堤にも、その辺にあるベンチを炊事場として生活している家族が目に付いた。     それは、言語に言い表せられないような状態だった。     マニラ地区は、私には到着して1,2日間はいま述べてきたように感じられた。    目次へ>    5. ―LRT(Light Rail Transist)からの眺め―     その気持ちが、だんだんと和らぎ、これがアジアなのだということがおぼろげながら分ってきたのは、やっ    と3日ぐらいたってからだった。     LTR(Taft Ave.)沿いを歩き始めて、Jeepnyの排気ガスやけたたましいサイレンの音にも少しく慣れだ    してからだった。     LRTは、大変便利な簡易電車であった。     Monument St.からBacralan St.まで10ペソだ。     常に多くの人が利用しているので、混んでいた。     その車窓から見える光景は、先に述べた通りだった。     中国系の人々のお墓の豪勢さには目を見張るものがあった。     そして、スラム、スラム、スラム。     通りの周囲からの景色は、マニラの全貌を垣間見ることが出来た。     しかし、フィリピン全体がこういうことではないということがだんだん分ってきた。     新しい都市のMakati、それは成長し続けている近代的な都市であった。     今回は、残念ながラ訪れられなかったがQuezon Cityも近代化が進み、モダン化が進みきった都市なのだろう。     そこには、高層ビル群が林立はしているが、ビルとビルの谷間には貧しい人々が、―通りを闊歩している一部    裕福な人々の陰にあって―ひっそりと生活している様な、そういう思いが感じられた、いや、実際はその通りだ    った。    目次へ>      6. ―アジアの街角に立って―     そして、私は思った。私は今、アジアに来ているのだと。     この人々のエネルギーの総体が、アジアという国々の底流に共通に流れているものの様に思われてきた。    日本にもかってはあったのだろうアジア的状況――それは、一部、未だに残っているかもしれないが、私には    まだよくわからないが――     マニラの街角では多くの子供たちが元気に遊び回っていた。彼らには日本の子供たちにはない、無邪気で明る   い目をしていた。     Pedyさんに言わせると、都市部ではまだ子供の数は少ない方で、農村部にいくと一家族で10人前後いるそうだ。     このことは、これからのアジアを考える上で一つの救いであるように思われた。     このエネルギーの根を間違った方向にもっていってはならないと思う。     マニラ湾に沈む夕日は、本当に美しく、素晴らしいものであった。     毎日、このような素晴らしい眺めをマニラ湾にももたらせてくれる。     これは、創ろうとしても作ることが出来ない自然の贈り物であり、大事にしなければならないと思った。    目次へ>    7. ―Piano Barにて―     私は今、センチュリー・パーク・マニラホテルの最上階のPiano Barでカクテルを傾けながらこの旅行記を綴っ    ている。     このような状況は、マニラの街角で生活している人々との感覚とは相当ほど遠い、かけ離れた状態であろう。     少しくアルコールが入っている、そのため誇張があるかもしれない。     しかし、誇張なくしてこの様なことは書けないし、また、想いも浮かんでこないだろう。     あのSan Andreas Marketの、そしてPasing River沿いのスラムを、また、多くの人々が活き活きと幼い子供た    ちを含めて物売りをしている人々のことを思いながら。     マニラは、あの「マニラ湾に沈む夕日」の美しさをもっと観光に利用すべきである。     以前、どこかで聞いたのであろう、あの真っ赤に染まったマニラ湾の夕日は素晴らしい。あの夕日を眺めるため    にマニラを訪れる観光客が多数いた。     周囲の地平を真っ赤に染めて、マニラ湾に沈む夕日。     そのためには、マニラ湾をもっと綺麗にしなければならないとも思った。               Rizal-Shrine     街角の多くで、Clean Campaignのポスターが貼られていた。     自分たちの生活をしているこの街をGreenに、そしてCreanにする、当然大切なことだが、マニラ湾を綺麗に、海    岸を美しくしなければ、折角の「マニラ湾の夕日」が半減してしまう、いや死んでしまうことになる。     湾、海岸が澄み切って綺麗であれば自ずと街角も綺麗になるものだ。     子供たちにいくらClean Upというスローガンの下での教育をしても、大人がこれを子供たちに見せなければ何も    ならない。     まずは、大人にClean Upの教育を実践させなければならないと思う。―−−−真にそのように感じた。    目次へ>    8. ―アジアの庶民の生活―     この旅行の中で読了した小林紀晴の「Asian Japanese」のなかでもその著者は私と同じ様な風景を他のアジア諸    国で見ていたことだろう。     さらに、「深夜特急」の澤木耕太郎も私よりもっとすごい過酷な旅経験を味わったことだろう。     しかし、そのどちらの著者の中で、この様なアジアの「状況」を語っていないように思える。     何度も言うが、あのSan andress Marketの人混みの中の、体臭の、果物の、魚の、肉の、排水からくる腐った臭    い、そういった諸々のエッセンスの混じったあの異様な「庶民臭」、そして、その中でひしめき合いながら生活して    いる人々の群れを。     たった5日間のマニラ滞在の中で、私はもっと多く、このフィリピンの「アジア」を主観的な印象でもって述べてお    きたいと思った。     10数年前にタイのバンコクを訪れたことがあったが、その時の水上マーケット沿いの情景を今も記憶にとどめている。     恐らく、Taft Ave.沿いのJeepnyの混雑さ、埃まみれの崩れかかった建物、その中で生活している人々、そういった    状況は忘れないで記憶に残っていくだろう。    目次へ>    9. ーフィリピンという国―     フィリピンは、スペイン、米国と植民地時代が続いた。    サンチャゴ要塞     マニラは、スペイン統治時代の影響をかなり受け、その面影を今も強く引き    継いでいるようだ。家並みで、スペイン風の面影が色濃く残っている。約80%    以上の人々の宗教が、ローマカトリックである。     日常使っている言語は、元々の言語であったタガログ語にスペイン語が混ざ    って出来たようなフィリピーノ、さらにそれに英語が混ざっている。     また、特に女性の顔立ちがスペイン風である様に思う。     重層構造の最初の基盤層であるスペインの影響を色濃く受け継いでいるのは    当然だろう。     その後、米国の影響をその基盤の上から受けている。それは、大規模なShop    ping Mallだ。     巨大な建物の中に商店が多く集まり、何でも揃えられるようになっている。     映画館があれば、劇場も、ボーリング場、そして、マクドナルドと何から何    まで揃っている。     その中は、一つの巨大な「迷路」を形作っている様に思えた。     そういった巨大なShopping Centerが、各駅の中核をなす様に、また、巨大な駐車場を備えて郊外に出来ていた。     しかし、この様なShopping Centerの中では、マニラの路地の片隅で生活している「みすぼらしい」が、しかし真のマ    ニラの住人を見かけることはほとんどなかった。     この様なShopping Centerは、環境的に彼らを排除しているかの様であった。     この真のマニラの住人が、この様な「近代的な」Shopping Centerにも自由に何の気兼ねもなく入れるようにならなけ    ればならないと思った。     そうなったときに、アジアの諸国は、真に「ドラゴン」となって飛び立つことが出来るのではないかと思った。    目次へ>

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