●●● 「死」についての一考察 ●●●


  死について     先日、母親が95歳で亡くなってしまた。大正14年産まれであるので、大正、昭和、平成として令和という4世代を生き抜いたことになる。     親父が亡くなったのは、平成10年。     これで、私の両親はもういなくなったことになる。     また、ある女性が1人で、所謂「孤独死」と云う事で自宅で亡くなっていた。     銭湯でよく一緒になった齢92,3歳の御老人が原因はわからないが亡くなっていたことを知った。     居酒屋で親しくなった私よりも9歳ぐらい年上の人も、健康状態がすぐれないと云う事で、入院したままである。     私の高校時代からの親友も歳若くしてくも膜下出血でしばらく入院していた様であるが亡くなってしまった。     この様に、人間と云うモノはすべての生き物と同様にある限定された期間で、あの世(もし有るとすれば)に行ってしまう事になる。     今までに、どのくらいの生命が、この世からあの世に行ってしまった事だろうか。   死後の世界     死後の世界が有るとすれば、どの様なものあろうか?     キリスト教やユダヤ教、及びそこを起源とする諸派宗教のによる「天国と地獄」     仏教による「六道」の世界観(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)     輪廻転生観     古代エジプトにおける天国観     道教には「不老長生」、儒教には「招魂再生」というコンセプトがあるが「死」についての記述はあまり見られない。     イスラーム教においては、人は死んでも永遠に墓のなかに眠るのではなく、最後の日には呼び戻されて審判を受け、永遠の生命を与えられる者と     地獄へ墜ちる者とに分ける ...     神道(日本人)の「死生観」は、. 肉体という物質に産霊神(むすびのかみ)から魂を付与してもらう. =これを「誕生」と捉える。     魂が産霊神の元に帰り、家の守り神になる. = これを「死」と捉える. この魂は祖霊(たま)であり先祖代々の霊魂。     拝火教(ゾロアスター教)においては、<生きた人間にあるのは意識だけであり、霊魂は存在しない>として、<「霊魂の不滅」という説が生ま     れてきたのは、人間の意識のうちで非常によく発達している「自分」という意識、別の言葉でいえば自我とか自己意識にとっては、それが永遠に     消滅するという認識は、非常に受け入れがたいし、恐怖ですらあるから、霊魂が不死であってほしいという願望を生み、さらに、それが宗教とし     て発展したのだ。>   この様に各宗派によって、「死生観」についての考え方は様々である。   この中で私が注目したいのは、「人間の意識」の存在である。   「意識が有る」と云う事は、「生」を得ているという、所謂「証」であると思う。人間を含めた高等動物には「意識」が有ると思えるが、他の下等生   物、例えば、植物、ミミズ、昆虫類等に「意識」、「自我」と云うモノが存在するだろうか。どんな形態にしろ、生きている証として、「自我」、   「意識」は存在している様に私は考える。   そうすると、この「意識」や「自我」と云ったものが存在しない「状態」が、「死」と云う事なのだろうか。        そして未来永劫この人間に特有の「自我」、「意識」が無くなってしまうと云う事はどういうことなのだろうか。    この様に文章に書き、生きていると云うことを「考える」ことが出来ることの素晴らしさが無くなってしまうと云う事は僕にとっては本当に恐ろし   い事のように思える。    この「恐ろしい」無我の境地とはどのような事なのかを考察してみたい。         
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