《ベトナムの風に誘われて ―ホーチミン市から―

2002年1月1日〜6日                              Menu              1.ホーチミン市 タンソニャット空港到着(2002年1月1日)              2.夕暮れの市街に出て              3.バイクで溢れたホーチミン市街                                4.メコン河ツアーへ              5.Bar 259にて              6.博物館めぐり              7.再びBar259にて              8.旅行で思ったことなど              【トップページへ】 1.―ホーチミン市 タンソニャット空港到着―    (2002年01月01日)  Ho-chi-minh cityの宿泊ホテルより京都の自宅へ電話する。  電話番号は、8−0081−75−531−2541。  これで、日本の自宅との連絡が可能となった。  Ho-chi-minh Cityのタンソニャト空港に3時頃溶着する。  空港内にタラップを使って直接降り、空港バスで空港ビルに向かった。  空港ビルは、本当にこじんまりした施設で、一応はその機能は充分に整っている様であった。  関税、入口チェック共に、スムーズに進めた。      ホーチミンの銅像  到着して迎えのツアー業者が見当たらない。  仕方なく後戻りしてBestのツアー業者の名前の提示で、やっと一安心した。  Bestを利用しているツアー客は、3人組、2人組、そしてベトナムを5回も訪れている一人旅の男性と私とで、計7人の ツアー集団であった。  気温は、約30℃前後で、少しく蒸し暑く感じたが、特に問題はなかった。  観光バスにて市の中心街に行く。約20分程度で街の中心街に着いた。  話には聞いていたが、バイクの交通量の非常に多いのには驚かされた。  自転車を含めて、交通規則(交通ルールが有るのか無いのかわからないが、いや、多分有るだろうが)を全く無視?して 道路の真ん中をかなりのスピードを出して走っている。  私と2人組の男女が、NEW WORLD Hotelに宿泊することとなった。  添乗員は2人で、1人は男性、もう1人は女性であった。  男性の名前は、キン氏で、彼の携帯電話番号は、0903−90−4499と聞いておいた。  NEW WORLD Hotelは、五つ星のホテルで豪華さが感じられた。  部屋(ルーム203)に入り、やっと落ち着く。  1万円を両替し、サービスのコーヒー(ベトナムはコーヒー豆が有名)とフォーをレストランで食する。  これだけで一食分が助かった(貧乏旅行なので)。  少し、街が暗くなりかけてきたが、市街に出てみることにした。                        Menuへ 2.―夕暮れの市街に出て―  ホテルの位置がまだ充分に把握出来ていないが、人混みの多い方へ歩いて行くことにする。  近くの百貨店(スーパーマーケットの様な)に入ってみて少し食料品を買う。  人人で混雑していた。特に、子供たちが生き生きしていて可愛らしい。  アジアの街は、子供たちであふれている。そして、皆が生きいきしている。  この様な雰囲気・感じは、日本には無い様に思う。  日本は、今、少子高齢化が進んでいるが、ここアジアの国々は、は全く異なった様相をみせている様だ。  (ただし、皮肉にも日本もアジアの一員でもあるのだが)    今日は、まだ、ホーチミンに着いた早々なので夜の街散策はこのくらいにしておいて、おとなしくホテルの部屋に戻って、 頭の中を整理して明日からのホーチミンでの生活を思いめぐらすことにする。  1月3日には、メコンツアー行きを予約した。  明日2日は、ゆっくりとこの活気に溢れたこの街での生活をつぶさに体験してみることにする。 Menuへ 3.―バイクで溢れたホーチミン市街―  ホーチミンの主だった道路という道路は、バイクや自転車で溢れていた。  交通ルールは(信号がある所と無い所があり)、有っても無い様な状態だ。  サイレンをけたたましく鳴らし、我先に突っ込んでくる。  従って、道路を横断する場合は、突進してくるバイクや自転車を間隔を見計らってスルリと避けながら渡りきらなければ ならない。  少しすれば、この微妙な感覚を覚えて上手く渡ることに慣れてくるだろう。  宿泊ホテル、NEW WORLD Hotelの近くにあるかの有名なベンタインマーケットへ行ってみる。  想像していた以上に大変賑わっていた。  鶏肉や豚肉、そして、アヒルや他の鳥が生きた状態(ケイジに入れられた)で売られていた。  魚は、川魚(メコン河の)が中心だろうと思われるが、ナマズらしき大きな魚が生きて状態で動いて跳ね回っていた。  (新鮮と言えば新鮮だが) ベンタイン市場1 ベンタイン市場2 ベンタイン市場3  そして、その周りで花や野菜や熱帯性果物が店頭に溢れかえっていた。  私の感想で、ホーチミン市は(他の街でも同様と思われるが)、食物が豊富であり、その点で繁栄している様に思えた。  中には、それに反して街中には「物乞い」をしている人見られたが、これはごく少数で有る様に思えた。   街中の人の着ている服装は、やはりアジアらしきカラフルだが少々薄汚く思えたが、皆は元気そのものだった。    ホテルに戻る途中で、このホテルで働いているという若者に呼び止められた。  仕事が終わったところであり、美味しいベトナム料理の店を案内してやるとの事で、すこし心配したが最終的には案内して もらうことにした。  そこは、ベンタインマーケットの近くの屋台風の店であった。  3,4品のトナム風の料理とTiger Beerを2缶。  野菜の炒め物、小エビのから揚げ風料理、そしてチキン風料理と白ごはん。  これを、ソーイ醤油と魚醤で付けて食する。  チキンは、何か訳のわからない様な食べ物で、少し鼻についた。  後で、果物としてスイカが出た。  これで合計15万ドン(日本円で1,500円程度)。    この後、どこか適当なバーを紹介してもらった。  チャンフンダオSt.の259という店が安くて安全であるとの事で、明日訪れてみることにした。  しかし、この若者は、本当に信用できるかどうかの不安を残しながら。                        Menuへ 4.―メコン河ツアーへ―  メコン河クルーズに朝8時30分の待ち合わせで、ホテルのロビーでツアー会社の案内人を待つ。  45分頃になって空港到着時に迎えに来てくれた案内人と同じガイドが迎えに来てくれた。  そして、再た空港で一緒だったグループと同じツアーとなった。  大木さん御夫婦2名、岡本さん御両親と娘さんの3名、そして、男女2名(多分ご夫婦か)と私の総計8人のツアーとなった。  中型のワゴン車で、約2時間をかけてメコンデルタへ移動することとなった。           ドンコイ通り  途中の道路は、バイク、トラック、そして自転車ではちきれんばかりであった。  なぜ、この様に人が多いのだろう。  道路という道路は、車と同様に人で溢れかえっていた。  どこへ向かっているのだろうか?  警笛をむやみに鳴らしながら、右へ左へと進んでいく。  バイクには、荷台に多くの荷物を積み、2人、3人乗りのバイクが、自動車や他のバイクを上手にかわしながら進んでいく。  この光景は、喧騒という活気に満ち溢れていた。  この様な光景は、フィリピンのマニラでもないし、バリのクタの様相でもなかった。  ベトナムは、ベトナム戦争後、ドイモイで社会主義国でありながら資本主義が横行していた。  私の感想では、ベトナムの人民にとっては社会主義は似つかわしくない様に思えた。                        Menuへ 5.―Bar259にて  夜9時30分頃、知り合ったホテルの従業員?と待ち合わせて、NEW WORLD Hotelから約10分のチャンフンダオ通りにあるBar 259へ向かう。  店内は、音楽のボリュームを最大にして、センターではライブを演奏していた。  その周りにはカウンター越しに若い女の子が、セイラ―服用のユニホームの様な衣服を着て、バーテンダーの様なことをし ていた。  年齢は非常に若く見えた。ほとんどが20歳前後ではないかと思われた。  非常に気が利いていて、店の教育が行き届いている様だ。  新しく入っているビール瓶のビンの口の周りに、少々塩を付け、さらにライムを入れて飲ましてくれた。  この様な飲み方があるのかと少々感心した(私が知らなかっただけかもしれないが)。  そのあと、カクテル3杯程度注文し、ビーフステーキとカラッと揚げられた春巻きを追加オーダーし、約2時間程度をその店で 楽しく過ごした。  女のことは、筆談で少々の会話が通じた。  英語は、少々だが通じる様だった。  彼女たちは学生のアルバイトでは無い様だ。  昼間は、どのような生活をしているのか興味をそそられた。    店内は、若者たちでいっぱいだった。  カップル同士で来ているというよりも、男性2,3名で来て、店内で個々の友人と騒いでいるといった風だった。  それにしても若い女の子が多くいたのには驚いた。  私にアルコールが少々入っているからかも知れないが、皆なスタイルが良く、カウンターの中にいる女の子や若い女の客たちも 可愛らしく見えた。  客の男性も比較的スマートな若者が多い様だった。  夜11時30分頃、店を出る。  米$で35$。おつりは、チップとして渡してしまったが値打ちはあると思った。 チャンフンダオ通り1 チャンフンダオ通り2    夜11時30分頃のチャンフンダオ通りは、昼間に比べて行きかうバイクや自動車は少ない様に見えたが、道路の脇にはまだ人が椅子 を出して道路をそれとなくぼんやり眺めている人がいた。  3名の所謂「ホンダガール」に声を掛けられた。  これがガイドブックにある「売春婦」なのだろうか? Menuへ 6.―博物館めぐり―  ベトナム・ホーチミン市での後残すところ最終のフリーの1日となった。  最終の丸々の1日ということなので、人民会堂と戦争証拠博物館を訪れることにした。  人民会堂は入場料は、15,000ドンで、主に3,4階の大統領実務室や来賓室、ライブラリーや条約締結等を見て廻った。  入場した時偶然に3人の女性のガイド付きグループに加わることが出来たので、日本語の解説付きで見て廻ることが出来た。  地下部では、ベトナム戦争時、激しい爆撃に逢ってもどうも無い様な頑丈に設えられている様に構築されていた。  また、さらに戦争終結博物館も訪れてみたが、そこでは主に当時の写真パネルと戦車や戦闘機のディスプレー、そして、共産ゲリ ラに対する拷問のあった「トラの檻」等が実物様に作られていた。  また、当時大量に撒かれた「枯葉剤」による悲惨なホルマリン付けにされた人体模型も展示されていた。  こういったことに対して、私は何も語ることはできない、資格がない様に思った。              人民会堂  博物館巡りの後、人民会堂付近のレストランで食事を摂った。  Tiger Beerと日本風で言うところのチャーハンを注文した。  値段は、両方合わせて50,000ドン。恐らく現地の人にとっては高いのであろうが、実価はわからないのは少々残念だ。    さて、そこからホテルに戻ろうとしたが、どこでどう間違ってしまったのか、帰り道が分らなくなってしまった。  ホーチミン市街は、同じ様なよく似た5,5階建の建物が所狭しと立ち並んでいる。  道路を直進していると思っていると斜めに進んでいると云った様になかなか思っている場所に行き当たらない。  近くをぐるぐると廻っている様だった。  何か目印がはっきりしていればいいのだが。  さらに、看板の文字がほとんどベトナム語ときている。  どう発音して良いのかもわからない。  現地のベトナム人に尋ねても、ほとんど英語が通じない様だ。  困ってしまったが、何とかホテルに戻れてひと安心した。  その夜、ベンタイン市場の先にある国営百貨店の方へ土産物を物色するために、散歩がてらに出かける。  水上人形らしき土産物があったので、40,000ドンを35,000ドンに値引きしてもらって購入する(30,000ドンでも良かったかもしれ ないが)。  絵画やピンクフロイドのCD(The Wall)は、値段に折り合いがつかなかったので購入を止めることにした。  その通り沿いの書店で、Barでの会話を楽しむために、また、ベトナム旅行の記念にと思って、Vietnam-Japanese(Jap-Vietnam) の辞書を購入する。値段は、60,000ドン。  途中、子供たちにお金をせがまれて断るために逃げ回ってしまった。  Tシャツの袖を握って離さない。  仕方がないので無理に指をこじ開けて走って逃げるがどこまでも追いかけてくる。途中で女の子も加わって困ってしまった。                        Menuへ 7.―再びBar259にて ―  夜8時30分頃、再びチャンフンダオ通りのBar 25へ。  紹介してくれたホテル従業員の彼も来ると思っていたが、来ていない様なので一人で入ることにした。  昨日座った席の近くに席を取る。  私が昨日筆談で会話をした女の子は、昨日買った辞書を見せると非常に興味を示し、ページをパラパラと捲りながら何か内容を読ん でいる様だった。  他の女の子も見に来たが、あまり興味が無い様な素振りだった。  会話の途中で、途中で見知らぬ若者が1人割り込んできた。  オストラリアの出身で、友人が東京にいるとの事だった。  その彼は、英語がわかるので、彼及び彼女と主に筆談でコミュニケーションをとることが出来た。  彼女は、私に英語でこそっと「彼は悪い人なのであまり話しをしないように」と耳打ちしてくれた。  Barでは、ビール2本とカクテル2杯、女の子にはビール1本とエビのフライをオーダーした。  しめて料金は、350,000ドン(米ドルで25$)となった。  最後のカクテルを飲み終わった時、昨日と同様にお茶を出してくれた。  もうこれ以上飲まないようにとのサインなのだろう。  親切さがそれとなく見にしみてうれしかった。  彼女は5人兄妹の上?(brotherが通じなくて弱ったが)と話してくれた。  彼女のここでの給料は、日給で40,000ドン。  日中はどの様な生活をしているのか興味があったが、あまり立ち入らないことにした。  恐らく学生ではなく、学校へは少なくとも通っていない様であった。  そして、英語は学校で習ったきりなのだろう。  場の雰囲気は、昨日と同じように大音響と煌びやかな光で満ち溢れ、その周りを若い男女が、各々テーブルを囲んで飲み、踊り、語 り合っていた。  ステージでは、ベトナムロック(アジアンロック)のライブが常時行なわれていた。  そんな中での約2時間程度を過ごしたが、昨日の若者は良い店を教えてくれたものだとありがたく思った。 Menuへ 8.―旅行で思ったことなど―  筆談という方法の会話でもいい、今回は筆談という手段でしかお互いをコミュニケートできなかったが、少しは通じ合えた様だった。  1日目にベトナムの小学校及び高等学校を無断で入り、教室等を見て廻ったが、1教室約20名程度で椅子や机は木製で設えられていた。  また、グラウンドは、あまり広くなくコンクリートが敷き詰められていた。  学校は二部交代制の様で、4時30分頃になると校門の辺りには学校を出る子供たちを出迎える両親のバイクでごったがえっていた。  そして、5時頃になると学校へ登校する生徒の姿が目に付いた。  小学生の服装は、女の子は上は白のブラウスに下は紺色のスカートで、男の子は白のシャツで下は紺色の半ズボンと云う様であった。  高校生になると、女の子は白のアオザイが制服の様であった。  話は一時途切れたが、今回の旅行で筆談も結構有効なコミュニケート手段であることが分かった。  このコミュニケート手段を有効に活用するためには、英語の単語力の必要性を痛感した。  ヒアリングは、もっと大切だがこれが出来なくとも英語のWrittingができれば、用を足せることが分かった。  今回はベトナム語の世界である。  現地のほとんどの人は、英語が分らない。  前にも記したが、”学校”も英語の”School”とは表示されていない。  これには参ってしまった。  しかし、もっともっと英語力を身に着ける必要を感じた。  英語が分れば、異文化とコンタクトした際にその異文化性を理解できることになる。  旅行の第一義的な目的は、異文化とのコミュニケートにあると思う。  グロバール化した世界に住んでいくためには、絶対条件として英語力であると思った。  (米国、英国に追随する訳では無いが)  コミュニケート言語としての英語が、重要なのであると思う。 Menuへ

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