私の自分史考
自分史とは主観で書くという事を前提にしています。
そうでないと、何を言おうとしているのか焦点が曖昧になるからです。
ですから,前もって、事実との食い違い、思い違い、誤解などがよく発生する事は避けられない、という事を断っておかないといけません。
その為、加筆、訂正は絶えず続けられると思います。
大岡昇平さんの「レイテ戦記」が生涯書き直された事を、初期から編集に関わられた沢地久枝さんが、教育TV、ETV8「レイテ戦記を読む」で説明されました。
私は、自分が「何者か」を知る事が、両親の早世で聞く機会が無かった為、自分で行動を起こさなければ何も解明されませんでした。
空襲の為、写真を始め、資料が乏しいのが余計難かしくしていました。
古い先祖の事は、伯父が書き、親族に配布された「祖父に捧ぐ」(私には曾祖父)という、伯父の自叙伝(自分史)に戦国時代にさかのぼる歴史が書かれていました。
これは子孫にとっては貴重な伝達の意義があったと感じたからです。
賞賛と批判の入り混じった誤字、訂正の多いタイプ印刷の読み難い冊子でしたが、知らなかった事も書いてあり、貴重な資料になりました。
伯父七十七才の時(1966)、親族に配られたのですが、当時の人の死亡などで紛失が多く、私が所有しているものが貴重な存在のようです。当事者から世代が代わっていますが、その頃は、直接影響を受ける事を良しとしない人もいたので一部回収という事もあったと聞きました。
然し、子孫の為に教育的な意味も込めて失敗、過失も、ある程度は伝えなければならない事もあります。
隠しても周囲が知っている事があります。
「知らぬは己ればかりなり」
旧家の場合は一層、隣近所の古老が知っている事が多いのです。
まず、百年(三世代)ぐらいの事は誰か知っていると思った方がいいでしょう。だからこそ、善行も悪行も孫の代まで影響を及ぼすと思って間違いないと私は思います。
宗教では「因果応報」とか「善因善果・悪業悪果」とか言いますが、単純にそう思うのも良いだろうと思います。
自分の世代が巧く行かない事があっても、何処かで、何時か、理由があったのだろうと思えば、せめて、自分は子孫に災いを残したくないと思う気持ちでいれば、世の中、そんなに悪くならないと思うのですが…。