町内曳きの「門前町」への道行きには「大楽」という「楽・三番叟・車切・神楽」を併せて構成した曲を披露するとの事でした。この曲を理解するには前記の四曲の理解が必要です。言うなればそれぞれが単独ですがクラシックで言えば組曲でしょう。それをミックスして交響誌にしたのが「大楽」という事ですからそれを聞く耳が必要です。
上記の山車囃子は「尾張の山車祭り(尾張の山車囃子」で聞くことが出来ます
山車が那古野神社から帰還後、提灯付けまでの間に演奏があり梶棒の所で聞いていましたが、かなりの長時間で笛の方など演奏するだけでも大変そうでした。笛方が三・四人という事ですからご苦労な事です。平成六年(1994)放映の「CBC名古屋ウィークリー(まつり再発見〜山車の今昔)」では男性二人、女性三人が吹いておられます。当時の人形方の方が、今回、門前町では木遣りを唄われました。
他町内では若い人が多く山車の外でも、吹いて随行されます。
曳き手は随分多人数です。年配の方が殆どですが平日という事もあります。女性の朱塗りの菅笠は、この町内の特徴です。境内には氏子十一町内の天幕が並びます。名古屋の総鎮守、財力は充分お有りと思いますが戦後で焼け爛れた時はさすがに祭の復活を絶望視されたと聞いています。
復活後も、交通事情や居住人口減で、昭和四十年から二十年間那古野神社への山車曳行は中断されています。
現在の「福禄寿車」は祭創始時からの姿ですが多少の変更はされているようです。最も古い姿といえるでしょう。
かって「門前町・稜王車」の楫方を勤められた二番永田組の人達が駆け付けられ梃子などの応援をされました。
「神輿渡御」は初めて拝見しました。珍しかったのは担ぎ手の足に巻かれた物。手に触らせて貰いましたが柔らかく麻ではないと思います。和紙の原料の「こうぞ」かもしれません。いわゆる脚判ですが足首から膝までの長さの太目の繊維で紐で横に編んであり、脛に巻いて結んでいます。毛の生えたマンモスの脚のような感じに見えます。使い続けているようで毛羽立って柔らかいものです。初めて見ました。
某町のYさんが「うちの町内では道行囃子は切れ目無く演奏し続けるのが当たり前だが、のんびりした道行きだなあ」と言っておられましたが、囃子方数多の町内と違い「囃子方も女性が多いし笛も少ないから難しいのでは・・。時にはこういう、のんびりした祭りも良いのではないですか」と話しました。
往路は予定タイムオーバーで十五分到着が遅れましたが帰路は逆に十五分早く帰還しました。
同じコースを「那古野祭百人大神輿」が七月十六日往復します。
相当、暑い日です。午後半日、同行するのも大変ですが一度は必見の豪快な行事です。
「福禄寿車」
この山車は私が一番多く見ている山車です。「筒井天王祭」を見始める前から良く見ていました。
「第1回ゾロ目祭り」にも高架下に居ました。その時は、犬山(鍛冶屋町)と他に、もう一輌の山車も居ました。Hi8で撮影しましたがHI8ビデオ故障で再生不可です。借りて見直します。
「元三味線屋さんの梵天車の写真」
門前町曳行の帰途、通りかかりの店のウインドウに、扇や色紙などが飾ってあったので、ご主人と思われる女性の方に「お宅は何がご商売ですか」と訊ねた所、「今は廃業しましたが三味線屋です。子供さん達に長唄(吉住会)の、お稽古場にしています」との返事。
ふと見ると、小さな額に「山車」の写真。「これは・・」と聞くと、「浅間神社の「梵天車」です。筋向いの空き地に飾り、子供が曳いていましたが子供が居なくなり、時折、出していましたが破損が激しく、今は庫入りのままです」との事。
上記写真の物ですが可愛らしい綺麗な姿です。いつか拝見したいものです。
一般の方へのご商売だったのですが、和楽器が売れなくなり廃業されたのですが木彫りの見事な看板が架かっています。安田文吉先生の母上「常磐津文字登和(岸沢式登久)」さんをご存知でした。
長唄や常磐津の木版稽古本をお持ちで「宜しければ差し上げます。明治の大須案内図もどうぞ」と言われましたが「今日は山車の追っかけなので、又改めて伺います」と店を出ました。
(修正もあり続く) |