私と宗教
私には特定の宗教観はありません。
私の家は先祖の代から浄土宗西山派ですが、特別なにという感情も持つこともなく習慣として行事は行ってきました。
浄土宗のお経も附いてなら読めますが一人では読めません(節があります)。阿弥陀経は棒読みなら何とか…。
年配の人は正信褐を読まれますが、私の家は真宗ではないので憶えませんでした。
近所でお葬式があると、お通夜で、ついて読む為、本の用意はしています。
戦後、義祖母(祖母の妹)が天理教、大乗教などの集会に私を連れて行きましたが、お話よりも、その後のお菓子が目当てで行っていました。
結婚した頃、遠縁の人の関連で立正佼成会の会合に誘われ、度々出席もしたし、練成とか団参に行った事もあります。
創価学会から強烈な折伏をされた事もありますが、私の心には響きませんでした。
一応、資料冊子は読みました。何とか理解しようと思った事もありました。
見事な理論に感心した事もありましたが、それ以上の事はしませんでした。
断片的に宗教用語は知る事が出来ましたので、時々、頭に閃く事があるので無駄にはなっていません。
「行学二道」 (行動と学問の両方を行わなければ意味が無い)
「菩薩行」 (佐藤良二さんのさくら植樹などがそうです)
佐藤良二さんは武者小路実篤さんの言葉にうなずかれ、さくら道を発起されました。
悩み苦しみがあった時、願掛け(寒中往復4K墓参り、早朝二十一日間、雪の中)をした事がありますが、分かった事は、思い違いで、間違った事を、お願いをしたら、とんでもない酷い目に逢うという事でした。
色々な宗教書も読んだ事もありましたが、学問としての研究と、一般の生活者の宗教とは距離が遠く、結局、別世界へ一時、逃避するだけの事が多いように私は思いました。
宗教が麻薬だといわれる事も、その辺りの事があるからでしょう。
確かに両刃の剣だと思います。
般若心経一巻の解釈も分からないのに、法華経、阿弥陀経など判る訳が無いと思いました。
薬師寺を訪ねた時(何十年前だったか、写経勧進が始まったばかりで、金堂も雨漏りのする古い建物の時でした。
初めて高田好胤さんの話を聞いた写経場も古い建物でした。
単純明解な解釈に、私には、これでいいのだと思いました。
「かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心 広く広くもっと広く これが般若心経 空の心なり」
般若心経と、ことばは、毎日、仏壇に読み上げる習慣が定着しました。
二、三分の事ですから、これなら楽にできます。
時に かたよるときには、かたより、こだわるときには、こだわり、とらわれるときには、とらわれて、
時々、ふっとこの言葉を思い出しては修正するしかないだろうと思っています。
「歎異抄」も「教行信証」私にはよくわかりません。
僧職、教職、医業などの地位にあれば、こういう考えも必要かも知れませんが、私は、そういう立場にはいませんから勉強しても活かせないと思い、深くは進みませんでした。
その程度の低い次元です。