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消え行く昭和

ここで言う「昭和」は太平洋戦争敗戦までの事とします。(1926〜1945)
というのは、日本本土空襲により、それまで建っていた「昭和の家」の多くが焼失してしまったからです。人の年齢では、現在、九十五才から七十五才になります。
私は1945年には九才でした。それまでは名古屋で、門・玄関・板塀・前庭・裏庭のある二階建ての中流家庭の住む標準的な家に住んででいました。
商店は道路に面する間口は狭く奥に深い裏の道路に抜けるか裏庭で反対側の建物で行き止まる構成です。これは現在も下町商店街は殆どがそうです。
暮らしのレベルが低くなると「棟割長屋」といって、長い一棟を壁一つで区切って共同住宅のような構成になります。井戸が共有地帯にあり、いわゆる「井戸端会議」で、洗濯・洗い物などをしながら世間話(コミニュケーション」の場になります。これは江戸時代以降、形を変えながらも続いていました。
暮らしのランクも、家柄、学歴、職業によって、上・中・下がはっきりしていました。又、それで「仕方がない」という割り切りもありました。自己啓発、向上心のある人は努力によって地位の向上を計りました。地域格差、職業格差もあり、都市と地方との文化格差も大きく、東海道・中山道を始めとする「街道筋」の宿場では、文化交流、或いは「河川」に沿い物流の拠点であった「川港」沿いは栄えました。交通手段は、人力(荷馬車)や小舟でした。エンジンの付いたトラック・船舶が多くなったのは、まだ六十五年年ほど前の戦後の事です。終戦直後はガソリンも無く、バスは木炭(木片)で蒸気タンクによる動力で走っていました。タクシーは、充電したバッテリーを搭載、絶えず希硫酸液を補充して充電していました。これは、私の十五才(中学2年)のタクシー会社の整備場での夏休み職業実習で体験しました。バッテリー液を服にこぼして、かゆいのと服が駄目になってしまった嫌な思い出があります。
隣接するバス整備場では木炭エンジンに手回して風を送り煙をモウモウと上げていました。
遠い昔のように思うかもしれませんがまだ六十五年前の事です。
娯楽は「映画」と「ラジオ」くらいです。テレビなど、まだ影も形もありません。
1950年末、試験放送開始、電器屋の街頭TVでプロレスを見る人が大勢いましたが家庭に普及するのは1968年(東京オリンピック)頃からです。

初めに戻ります。
私は今年、七十六才ですが、同年の人の半分(50%)は既に世を去りました。
生存する(50%)も、もう正常とは言えません。老化による機能低下は自然の成り行きです。
視力・聴力・消化力。循環・消化・行動・総ての能力が低下。大きな手術をした人が多く居ます。
外観も悪くなって行きます。暫く会わなかった同年代に出会うと、加齢は仕方が無いにしても、衰えた、風采、姿勢、動作の一瞬に「ギョッ」とします。
私は現在、医者には定期的(月一回)に行っていますが、これは「健康管理」のチェックです。
内科・歯科ですが、眼科・耳鼻科は不定期任意です。眼科は病気は無いのですが「白内障」が緩やかに進行中です。だいぶ霞んだり見難くなりましたが、手術経験者の体験では一時的には良くなっても一年位で元に戻ってしまうから「無意味」だと言います。眼科医によれば「レーザー照射」で良くなると言われますが手術以前には若返らないと私は思います。
耳鼻科では「低音難聴」という診断ですが「補聴器」の必要は「スレスレ」だと言われます。
耳は真冬の突風に煽られてから、おかしくなりエコーが掛かるようになり、これは抗生物質で炎症は治りましたが音が悪くなり、後遺症で「低音難聴」になりました。それ以来「音楽」はともかく「観劇(台詞の多い能・狂言など)」は聞き取れません。周囲の人が笑っていても良く聴き取れないのです。
テレビも一人の時は周囲の迷惑にならないようにヘッドフォンで聴いています。「補聴器」はこれも経験者によると、廉価なものは「雑音と音質が悪い」。数十万円するデジタル高級機は「必要以上に周囲の音が聞こえて、マンツーマン会話の妨げになる」と言われます。やはりこれもハイテクでは若返らないのです。
結局、年齢相応に今後も生きて行くという事です。割り切ってしまえばいいのです。

「かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心 ひろくひろく もっと広く これが般若心経 空の心なり」  高田好胤 (心)より

又、戻ります。
空襲から焼け残った「昭和の家」が、次々姿を消しています。老朽化と生活の不便さ、耐震・或いはリフォーム工事の高額な事。
都市の場合は、三階建て以上にしないと地価に見合った効率性が無い。そして高額な払い切れない建築費。地主でも資金のリスクが大きく、空き地のままで、自らは家賃を払ってでも「UR公団住宅」に住んでいる人も居ます。
都心部では、周辺の高層化による日照など環境の悪化。等々、問題山積です。
そして、借家・或いは借地人の場合は、地主の「明け渡し要求」など。取り壊した跡地は、駐車場も空きが目立ちます。アパート・マンションも空室率が20%などなど。
最近は「郊外一戸建て」に住んでいた人達が、高齢化で家の手入れ、マイカーの危険、生活或いは文化面での行動の不便から、狭くても、生活管理が楽な、都心マンションへの回帰が進んでいるようです。
かって私たちが空襲まで住んでいた、旧「葵町」は、ビルが立ち並び、一般住宅は皆無です。もう知る人は誰も居ません。葵小学校は1学年1クラス30人前後です。先生は校長・教頭含め九人。殆どの子供がマンション・市営団地住まいだと思います。

四月十日、寒さで、年末からご無沙汰していた「覚王山」へ先祖の墓参に行ってきました。行く所、行く所、桜(ソメイヨシノ)が見事に満開。基幹バスから眺める名古屋城周辺も満開。覚王山舎利殿参道も覆い被さるような豪華さ。ここには「福沢桃介顕彰碑」や「西川鯉翁碑」が建っています。「東山給水塔」「鉈薬師堂」は公開日以外は門が閉じられていますが、この道は「四観音道」と言われる所です。
その坂を西に下ると給水塔からの配水管が埋まっているという「水道みち」。ここには今池まで1.2Kに亙り桜並木が植えられています。何度も通ってビデオ・写真も撮ってきました。この一角は空襲に遭わなかった昭和初期の家並みが有り懐かしい雰囲気が感じられました。玄関・前庭・板塀の二階建て、二軒続きの家がが有りましたが、この十日に通ったら空き地になって不動産屋の「売地」の看板が建っていました。覚王山地域には、まだ残っている昭和の家も有りますが総て無くなるのも近いでしょう。
数年前、取り壊される「昭和の家」の内外をビデオで撮影させて貰いました。今の家とは基本から造り方が違います。「重い日本瓦は地震に弱い」というのは家の構造が弱いからで充分な素材と筋違など構造計算が出来ていて手入れを怠らなければ堪えられるといいます。ただ、素材の(良質な木材)入手とコストが高くなる事です。百年住宅と言われるものです。今の住宅は耐用年数二十年と言われますが、ローン完済の頃には劣化して建て替え必要では堪りません。私の家は築四十年ですが二年前耐震補強工事をしました。絶えず点検、塗装をしています。
戦前からの家は近所にもありますが普請の良い家はビクともしていません。住み心地はわかりませんが・・。

やはり人も家も道具も手入れが大事です。頑丈な家でも、人が住まず、ほったらかしでは見る間にボロボロになります。弱い身体でも、それ相応に暮らせば長持ちします。
次の世代はどういう一生になるか、私達世代が経験したような過酷な事にはならないと思います。
明治維新から続いた錯覚と慢心の代償は国の滅亡寸前にまで暴走ました。
二度と有ってはなりません。

朝ドラで「梅ちゃん先生」が始まりました。空襲体験者には同感出来る感じです。
前の「ドラマ」は、朝から、けたたましい言い争いの連続で不愉快で殆ど見ませんでした。視聴率は高かったそうですが私は実に不愉快でした。
その前の「おひさま」は上品で殆ど見ましたが最終回の黒柳徹子・司葉子は、イメージダウン「出てこない方が良かった・・」。     2012.4.16

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