戦友会その後

Mさんにはミンダナオの地図をお送りしました。大変喜んで頂いて、戦友の方々に送付されたようでよかったと思います。泉会の山田さんに感謝します。

十一月十一日、父の当番兵であられた、H衛生兵(昭和五十三年没)の方のお宅に電話をしました。奥さんが出られてお話をしましたが、その内容です。

「うちの主人は、軍医さんの事は、しょっちゅう云っておりました。もう一月、終戦が遅かったら生きては帰ってこれなかったろうと思う。体力が消耗しきってしまって、もう軍医ついて行けません。もう駄目です」

と云ったといいます。

「お前を今ここで死なす訳にはいかん。何としてでも連れていく」

と云って注射を一本射ってくれて、それで終戦まで何とか持ち応えたといいます。

投降命令が下り、大隊本部は最奥地にいた為、アメリカ軍基地へは歩いて三日の距離があった為、どうして到達するか議論になったようです。Hさんは消耗の極におられ、とても歩けることは出来なかったようです。

父の指示で.他の隊員が筏を作ってくれてHさんをそれに乗せ、父は

「俺は先に行って、着いたら歩いて行くから、きっとくるように」

と云って、筏に乗ったようです。それを見送ったのが父を見た最後で、堀田さんは続いて筏を河に出して貰ったのですが、アメリカ軍基地までは到達出来ず、水中に漂っている所をアメリカ兵が泳いできて、助け上げてくれたといいます。病院に収容されたそうですが運ばれる途中何度も

「軍医はどうされましたか。何処におられますか」

と皆に尋ねたのですが、遂に父は姿を現さなかったという事です。

「やはり、河で何かが起こったのかなあ」

と主人は云っておりました。

と奥さんは語られました。 この辺りの話は多少曖昧な所が有ります。

Hさんは、奥さんと二人のお子さんを残しての出征で、二人の娘さんは今は嫁がれていますが、Hさんは復員されてから男子をもうけられ、その方は大学を卒業されて、読売新聞の記者として、家庭も持たれて活躍中とのこと誠に喜ばしいと思います。

人の運命は様々で、度々のピンチにも助かる人は救われ、新しい命まで生まれる、死ぬことなど考えていなかった者が命を落とすとは、徳分と云うか、宿業というか、考えさせられるものです。

ともあれ、部下を思い、その命を永らえてあげて、自分は運命のなす業に消えた父を、私は誇りに思っていいと思います。

私は、Hさんの奥さんにお話を伺って、我が父のことながら感動しました。

私たち遺児が、今まで無事生きてこられたのは、この父の功徳によるものではなかったかと、今思うものです。

昭和六十二年十一月十八日記

 

ある遺族の述懐

 私は、今年になって、数冊の戦記.遺族の追悼記を読む機会を得ました。

昨年来.私は、父の戦死の前後の状況が如何なるものであったのか、より詳しく知りたいと思っていました。

それは、父が戦死に至る経過の内に、不愉快な事件があったとの話を知ったからです。

そのような状況は、幾らでもあったとの事ですが、私のこだわりを無くすには、より、フイリッピン戦線の末期の転進の状況を知ることが出来れば.理解が深められると思っていました。

直接、飛行場大隊の戦友の方に、お尋ねもしましたが、より詳しいことは教えて戴けない。個人的な話なら兎も角、戦友会という組織で、親睦を深めておられる所へあれこれ、お尋ねすることは会の運営の妨害にも、なりかねない、自然に控えるようになりました。

ミンダナオの地を、一度は訪ねてみたいという気持ちは充分ありましたが、なにしろバレンシヤは島の最中心部、しかも、最終段階では、なお奥地のテンガーに転進したとの事、カガヤンからもダバオからも数百キロの奥地であります。

長部日出雄著「戦場で死んだ兄をたずねて」は、著者がルソンで戦死した、兄茂雄さんの戦没の地を訪ねられた手記ですが、昼間の炎天と、ジープによる山岳道の長距離走破は私には自信がありません。

バレンシヤ飛行場では九月九日の大空襲で、十人の方が戦死され、飛行場を見下ろす丘の中腹に埋葬されているとのことです。私の父が、その中に含まれていれば、何とかして訪ねることを考えるでしょう。

父の場合、プランギ河の流れに呑まれ遺骨の所在を確かめることは不可能です。戦後四十四年を経て、父はプランギ河の砂になってしまったのでしょう。

霊魂になれば百万億土も自由自在でしょう。お墓も仏壇もあります。せめても、当時の所在や行動を知ることが出来たのですから、心おきなく我が家に帰って下さい。

遺族の思いについては、後藤正男さんの著書「ああレイテの墓標」、伊藤美代さんの著書「金子克巳と昭和の時代」で、何れも、御令兄に対する切々たる思いを、綿々と書き表されています。後藤さんは、何度もしイテ墓参団に参加され、戦没の地を訪ねておられます。

後藤さんは御自身のお兄さんに対する思いと、御両親の悲しみを、長い間心に止めて居られ.墓標に替えて自費出版されたものです。

私は後藤さんにお尋ねしたうえ、一宮市立図書館に寄贈されている著書の借り出しを得拝読しました。

レイテ戦の戦況と、墓参団の行動記録、お兄さんの人となり.亡くなられた御両親の悲しみと、公報の確認の為に、御両親が色々尋ね歩かれた様子が伺えます。

伊藤美代さんの著書も拝読しましたが、短期間に多くの資料を纏め上げられ、追悼記としておられます。やはり、この場合も、亡くなられた母上様の哀しみを目の当たりにされ纏められたものです。

伊藤さんのお兄さんはホロ島に派遣され、戦死されたのですが、ホロ島は狂暴な部族が住み、約三千人の戦没者の遺骨収集は全く行われていないとの事です。

お二人共、親様の哀しみを身にしみて感じておられ労作を物されました。

当時、父方の祖父祖母は既に亡く、母方の祖父(当時六十三才)、継祖母(当時五十一才)がいましたが、祖父は高齢、それに戦後の混乱で余裕もなく、祖父が二十九年、七十二才で亡くなってからは、全くその機会は無かったのです。

継祖母は、頑強な体格で百五十坪程の畑を耕作し、陸稲、麦、野菜を作り、食料不足の戦後混乱期、私たちを養育してくれました。昭和五十七年、八十六才で亡くなりましたが、二年ほどボケの状態になり、当時は現在程ボケに対する理解が無く、どの病院でも断られ.我が家で最期を看取りましたが、誠に壮烈な人生でありました。私は、その恩を忘れるものではありません。

私は、今年四月、愛知護国神社の、みたま祭りの開催時、桜花会館での、曙光小会に出席のため出掛けましたが、その時、境内の一角に天幕張りの御遺族相談所というのがあり、私が、みたま祭りに出席する機会が今迄にあれば(私は、母方の実家の養子に生後すぐなっているので、私にはそういう通知は来ません)或いは、もっと早く情報が得られたかもしれません。

兄が、時々参拝していますが、参拝されるのは戦没者の奥さんであろう、老婦人が多く、事実、私が見た様子も、露店商が立ち並び、境内では大テントに、ござが敷かれて、浪曲や講談などの催しがあるようでした。然し.それは盛大にというよりは、なにか裏寂しい感じがしたのは私の偏見でしょうか。

みたま祭りも、戦友会も、何年か後にはどうなるのだろうかと思います。それは戦後五十年の頃が一つの節目になるのではないでしょうか。

桜花会館内にある、戦時の展示品コーナーも、年間見学者が数えるほどだと言われます。戦争展も六「十三年開催が最後になった様です。自発的な意志が無ければ、戦没者の実態を遺族が知ることは無いと思います。

父の戦没の地ミンダナオの、ある程度の情報を知る事が出来たのは、戦争展でお世話になった山田武彦さんに、お礼を申し上げるため訪ねた、桜花会館での泉会の会合に伺った折ご紹介いただいた曙光新聞の会員で、ミンダナオ派遣後、帰還された方々に、隋時お尋ねすることによって、だんだん判ってきました。

戦闘末期の状況を知ることによって、単に個人的な理解に留まらず、戦争とは如何なるものか、如何に理不尽なものであるか、終戦二ケ月後、軍使として白旗を持ち投降中の清原少尉ほか十名の方がゲリラに射殺された。

又、目決した戦友のまきぞえで亡くなった方(三十七飛大隊、日比政夫氏資料)など遺族にとっては何ともやりきれないことだと思います。

豹兵団輜重兵三十連隊の記録(死の転進)によればミンダナオへのアメリカ軍上陸により、二十年六月マライバライから転進、分水嶺を越えての二ケ月の労苦の有様が詳しく描かれています。終戦を知ったのが十月中旬で、二十四日以降.筏下りをして投降しているとのことです。

やはり、筏で下る途中、流された人、岩に激突、負傷の上亡くなられた人など多勢のかたが戦没しておられます。私の父が行方不明になったのが九月五日で、終戦の後の事ですから、何故それまで五体満足であったのに、何と不運な事かと天を恨まずにはいられませんでした。

然し、数々の出版物や、お話を伺ううち、今まで何も知らずにいた戦場の様子を知り、戦場での兵士の皆さんののご苦労が幾らかでも判るような気がします。

唯、このような話は、限られた一部の方たちが語り、書き延べられているのみで、多くの人に伝わっていないのが実情です。遺族の私でさえ何も知らなかったのですから、関係のない人には何の興味もないでしょう。妙に強調して語ると、偏った反戦思想家との誤解を受けかねません。

生還された皆さんが、何とか悲惨な戦争体験を伝えようと戦記、手記にして自費出版等の手段を経て発表されていますが、なかなか一般の人の目に触れることは少ないと思います。私も、「一宮市立図書館」でミンダナオの戦況を調べようとしたのですが、殆どそれらしい資料は有りませんでした。

生還された皆さんが、体験されたご苦労を、是非、誰かに伝えたいという気持ちと、遺族である私が、父の死後、経験した様々な思いを二度と有ってはならない事として、伝えなければならないという思いは、共通するものが有ると思います。

戦友会の皆さんには、ご迷惑をお掛けしたかも知れませんが、父の戦場での様子を出来得る限り知り理解することが、父に対するせめてもの供養になると思うからです。戦友の方の話に依れば、父は周囲の方が

「軍医、軍刀は重いですから外しておられたらどうですか」

と、言われたのですが、外さなかったということですが、天皇陛下御下賜のものを外してはならぬと、かたくなに思っていたのかも知れません。戦時教育が如何に徹底していたかが想像できます。

戦場では瀕死の重傷を負っても、銃を離さなかったが為に、敢えて命を落とした方が多くおられたということも聞きました。

何れにせよ、私の場合、母が父より先に亡くなっていましたので、父のことを調べるのは私たち遺児の役目だと長い間考えていました。遺族年金についても、母がいませんから私達は成人に達した時点で打ち切られます。

男兄弟は末妹(当時五才)の将来のために、手を付けることはしませんでした。母がいれば父への思いとか、私達の対応も、又違ったであろうと思います。

然し、たとえ四十三年振りとはいえ、これほど詳しくミンダナオの日本軍の行動も含めて、全体の状況が理解出来たことは本当に有難いことだと思います。

他にもフイリッピンに向かいながら、バシー海峡で潜水艦攻撃により、数分のうちに海没された、数千の方々の遺族の思い如何ばかりか胸が痛みます。

然し、時は流れ、戦争を口にする人は少なくなります。戦争体験者でも、戦時体験は話したくないと言われますし、若い世代は暗い話からは逃げようとします。

が、今、戦争の実体験をした人が実在している間に、正確に戦争の悲惨さと、家族に及ぼした大きな影響が、如何なるものかを伝える方法を考えなければならないと思います。

四十数年前の過去の出来事と言う勿れ。

過去の事実を知らずして未来を語ることは出来ません。戦争の影響を、今も生活に、身体に、精神に受けて暮らしている方々が実在することを忘れてはなりません。

真実を知り、同じ過ちを再び繰り返すこと無く、将来を見つめるべきでありましょう。

平成元年十月八日

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戦争と父に関する話は一応区切りを付けようと思います。五十年以上前の事ですが、恵まれた環境で何も知らずに来た若い人達が、今目標を失って空虚な感情にいるのを見て、受け身ばかりにならずに、自分から何かに挑戦する勇気を持って欲しいと思います。

私のような者でも、生きている限りは頑張ろうと思っているのですから・・・・・・・。

人生はいつも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なのです。