祖母、岸沢式治と常磐津

常磐津はご存知でしょうか。

私は、祖母が常磐津岸沢の名古屋の家元であった事を知りましたが、常磐津とは何であるかはよく知りませんでした。家にそれらしい物も見当たりませんでした。

名古屋の家に蓄音機がありました。レコードが色々有りましたが、その中に、端唄の「春雨」と「奴さん」がありました。この節回しは子供の私もおぼえていました。

時々耳にしていたのでしょう。歌舞伎「勧進帳」の数枚組のレコードがありました。

内容は分かりませんでしたが、父が大事にしていました。新栄町のレコード店へも行きましたが、そのレコード店は今も有るそうで、戦後、その主人はクラシックのレコードコンサートを開いておられたと聞いています。

さて、常磐津ですが、これは江戸時代の歌舞伎伴奏音楽として、浄瑠璃音楽の一種として広く用いられたといわれます。

義太夫ほど語り節回しは強くなく中庸、温厚な所が踊りに適し幅広く歌舞伎、舞踊会で活躍していますが、名古屋の常磐津は事実上消滅しています。今、名古屋での常磐津伴奏は東京から常磐津派の来演に託しているのが現状だといわれます。

常磐津の三味線方であった岸沢派が、ある時期、分裂し、その内の一人が、上方から名古屋に来たのが初代岸沢式治だといわれていますが、はっきりした資料は無いそうです。

名古屋では初代西川鯉三郎の舞踊と共に一時期を風靡しました。覚王山舎利殿境内には西川鯉翁碑が建てられ高弟の名取名が列記されています。

この辺りは、「名古屋芸能史」を著された尾崎久弥さん、現在は、宗春以来の江戸歌舞伎研究を続けておられる「幕末明治名古屋常磐津史」の著者、南山大学教授、安田文吉さんによって多くの資料が纏められています。

徳川美術館に隣する蓬左文庫には尾崎久弥コレクションが多くの所蔵品を収めています。

岸沢式治は四代目を以って途絶しましたが、四代目は太平洋戦争末期、ガダルカナル島で戦死。ここにも戦争の傷痕が大きく影響しています。

祖母、岸沢式治は三代目でした。名古屋覚王山にある、父方の墓地にある岸沢式治之墓についての経緯を以前書いたものを省略して著わしたいと思います。

 

はじめに

 この度、私の永年の懸案でありました、吾が祖母(三代目 岸沢式治)の生い立ち、芸歴などが、大袈裟にいえば一瞬にして解明されたことは大きな驚きであります。

かねてより、墓参の度にどういう人であろう何とか知りたいものだと思い続けておりました。

 この、祖母の資料は、殆ど全部が、南山大学教授安田文吉氏より贈って頂いた著書(名古屋文化財叢書八十号」「幕末明治名古屋常磐津史」に依るものであることを記すと共に、安田文吉氏.名古屋タイムズ社の大野一英氏(名古屋もの作家)、それに、昭和五十六年十一月二十五日、午後九時三十分より「心中浄瑠璃大人気」のラジオ放送を聞かせて頂いた、NHKの方々に感謝致します。

 尚、昨年亡くなられたといわれる、安田文吉氏御母堂様、岸沢式登久様の申し伝えられた、お話に依る所が多々あるという事、お目に掛かれなかったのは残念でありますが、祖母との心の繋がりが、永い年月に亙り語り継がれていたということは、私には大きな驚きでありました。

六年前の放送後、もう少し努力していれば、尚一層多くのことが判ったでありましょうが、当時、我が家も諸事多忙で、機会を逸したことが今は悔やまれます。

 祖母は、私が生まれる八年前に亡くなった人でありますが、先人の遺徳を忍ぶと共に、明治大正昭和にかけての名古屋界隈の賑わいを思い巡らしたいと思います。

昭和六十二年十月四日

 

想   吾が祖母(三代目 岸沢 式治)

岸沢式治、この名前を私が目にしたのは安藤家の墓がある名古屋覚王山です。

このお墓については、私の母が昭和十七年、私が七才の夏に病死した折、喪主であった私が、何度も往来したであろう時の記憶が、戦後十三年程たって、危うく無縁仏になる寸前、捜し出した時に、意識した時に始まります。

男名のこの名はなんだろう、全く知識の無い私には謎でした。お墓が見つかってすぐ、名古屋上前津の伯父がお参りしたいとのことで案内しました。そのおり、伯父が話すには、このお墓の前で、大勢の人達が唄やら何やらで賑やかに供養したと云うことを開きました。

が、それ以上の事は聞くことはありませんでした。

その時は、私にはあまり関心がなかったのです。祖母は昭和三年に亡くなり、私の生まれる八年前の事ですから実感がありませんでした。          

しばらく一緒に暮らした叔母(父の妹)の言葉は、「いやはる」とか「ゆうてはりました」とか京都弁が多かったので、私は、祖母は、京都の人かと思っていました。

安田氏の著書に因れば、初代式治は京都の人だとありますから、芸と共に言葉が伝えられたのだと思います。

ここで、祖父について記します。祖父は、岐阜県可児郡御嵩町の出身であります。

先祖は、土岐城主安藤美濃守の弟で城代家老であったのが、信長の家臣、猛将と言われた兼山城主、森長可(蘭丸、坊丸の父)に攻められ、平芝村(現、可児市)に落ち延び、明治維新迄、百姓に姿を変え、陰屯の永きを耐えていたとの事です。

私は土岐市史により土岐城なるものを調べましたが、土岐の名称がある城は見当たらず、土岐領内には三っの城が有り、そこでは色々な謀略があったようです。説は色々です。安藤美濃守という名は見当たりませんが、安藤左京亮という武将はいました。それ以上の事はわかりません。

御嵩の墓には安藤某藤原の字が読み取れます。敵の手を逃れ、久々利に逃れたと伯父は書いていますが、久々利は織田徳川時代、古田織部が美濃焼を手懸けた地でありますから、陶工として身を潜めていたのかも知れません。

現在でも久々利は陶芸工業団地として活動しており、荒川豊蔵記念館があります。荒川豊蔵(人間国宝)などの陶芸作家を排出しています。古志野再掘は有名な逸話であります。御嵩は中仙道の街道筋に位置し、本陣野呂家を始め、そうそうたる、名家が軒を連ね、参勤交代の諸大名や、学問、商業の栄えた土地でありました。

私が、土地の旧家の人に尋ねたところ、源氏の流れだということで、東濃地方では優秀な人材を輩出している土地柄のようであります。美濃太田も名だたる旧家が多いようです。

曾祖父はなかなかの傑物で、輸出蚕糸の工場を興したり、冬に結氷した氷を、山の氷室に貯蔵し、夏に売り出したりでかなりの財を為したとのことです。

二代目町長も務めたとのことで、御嵩迄、名鉄電車を誘致したのも業績の一つだといわれています。

祖父は高山師範を出て御嵩の小学校の教師などをしていましたが、妻が、明治三十四年四月亡くなります。その時、三男は四才でありました。祖父は、妻を亡くし、曾祖父の後妻との中もうまく行かず、生活が荒んだ様です。

周囲の取り巻き連中の唆しかやら、何やらで、散財甚だしく、遂に、曾祖父に廃嫡勘当申し渡され、身辺の物一切を荷車に積み、生まれ故郷を去るのです。名古屋に出ました。

三人の子供は曾祖父が養育しました。

然し、子供たちは学業優秀で、長男は京大医学部卒で故郷の可児川に寄生するジストマの研究等で博士号を受け、名古屋市上前津で皮膚泌尿器料を開業しました。

幼時に去った父ではありましたが、交流があったと思います。八十三才で天寿を全うされました。次男は他家へ養子され、医専を経て軍医の道を進まれ、少佐で終戦、戦後は生命保険会社に勤め東京で八十数才で天寿を全うされました。

父は兄達とは異母でありますが、その関係もあって医学の道を目指したものです。特殊な雰囲気の漂う花柳界の真っ只中でどういう生活をしていたのか想像もつきません。

安田氏の著書に依って窺えば、祖母の教授料に依って生活が維持されていたようですから多くの芸者衆の血涙の御蔭と云うことになります。祖父が、どういう巡り併せで、一緒に祖母と暮らすようになったか判りません。お城の傍、長者町に暮らしました。

安田氏の著作に依れば、祖母は、唄、三味線、踊りとも名取であったとあります。

祖母は遊び心で芸道に入ったのでは無く、幼時から修業として励んだので、縁者である二代目夫人に見込まれたとの事です。新作は一つも無いとの事ですが、先人が作られて完成された作品を、完全にマスターしようと思えば、その完成度の高さにおそれをなしたのでは無いかと思います。

歌舞伎に、新作で名品は数多くありますが、古典の良い物には及ぶべきもないと思います。「曽根崎心中」「修善寺物語」「若き日の信長」などありますが、所謂「十八番物」の完成度にはかないません。私は「勧進帳」が大好きですが、出出しから、飛六方の幕切れ迄、一分の無駄のの無さに惹かれます。

祖母は、芸を楽しんだのでは無く、完璧な芸を追って燃え尽きて終ったのではとも思います。祖父がどのような役目を果たしていたのか判りませんが、うまくマネージメントしていたらまだ長生き出来たかも知れません。五十五才で亡くなりました。

墓碑の後面には盛栄連中、浪越連中、門人一同と記されています。

祖父は昭和十二年亡くなり、この頃、我が家と芸界とは疎遠になったようです。

昭和十七年四月、私は葵国民学校へ入学しましたが、その夏、母が病気で急死しました。

その時、覚王山の北山への数回の往来が、後、お墓を捜す基になるのです。

覚王山の市電電停を降りて参道を進み、本堂前を右に曲がり、東に向かうと大きな池が広がっていました。今は、放生池と彫られた石碑が道角にその名残をとどめています。

その池の向こう側に忠魂碑が立っていました。それは今でもあります。

その池に添って、ゆるい勾配を暫く登っていくと、丘の上に朱塗りのお寺がありました。そのお寺が私の記憶にありました。そのすぐ下に、斜めに降りる道が有り、そこに安藤の墓がありました。

墓碑の新設と、母の納骨に行ったのだと思います。

私は、初めからの約束で成人に達するまでは、両親兄弟と一緒に暮らすと言うことでした間もなく戦争は激しくなり、父は昭和十九年三月召集されました。我が家の事については何も聞かされていませんでしたし、又、十才に満たない幼児に話すべくもなかったのでしょう。

葵町の家に仏壇はありましたが、内容は全く知らないままに空襲で焼失してしまいました。父は、昭和二十年九月五日、フイリッピン、ミンダナオ島で戦死しました。

これで、父から、祖母の事を聞く機会は永久に失われました。

それから昭和三十三年頃まで、覚王山のお墓のことは誰も言い出しませんでした。妹が年頃になり身の回りの事に気が付き始めました。

私は幼時の記憶を頼りに、覚王山を訪ねました。朱塗りのお寺は朱は禿落ちてひどいものでしたがまだ建っていました。斜めに降りる道を思い出し、そこを捜しました。お墓は見付かりました。

周囲は大きな樹木に覆われ、草や笹で荒れ果てていました。石の柵は一部壊れ、墓石は所々、欠けていました。爆弾か焼夷弾が落ちたようです。木を切り、笹を苅り、何とか現れた墓石の傍に、覚王山名で、届け出が無ければ、近く撤去する旨の掲示板が建ててありました。私は兄にその旨を伝えました。

兄は、早速日秦寺へ出掛け、我が家の墓であることを届け出ました。日秦寺によれば岸沢の門人の名前で届けてあったようですが誰も訪ねていなかったようです

その時から、岸沢式治の名が私の意識の中に何時もとどまるようになりました。断続的に調べてはいましたが全く手懸かりはありませんでした。

昭和五十六年十一月二十五日夜九時半過ぎ、妻が私を大声で呼びました。

「お父さん、お父さん。今ラジオで岸沢式治の話をしているけど、あれは名古屋のお墓の岸沢式治と関係があるのでは無いですか」

と言うのです。

「え-つ」

私は早速ラジオに耳を傾けました。

NHK第一放送で「心中浄瑠璃大人気」という対談を、安田文吉さんと大野一英さんがしておられました。が、気がつくのが遅かったので殆ど聞けないうちに放送は終わってしまいました

私は、すぐNHKに電話を入れ、今の放送をもう一度開きたいから、テープなり、何か便宜を図って頂けないか、お願いしましたが、公共放送物は個人には提供出来ないとの事で断念しました。

ナゴヤタイムズ社の大野一英さんにお伺いしました。大体のことは判ったのですが、当時、我が家は、子供の進学問題や、ら養母(当時八十五才、翌年一月没)の老人ボケによる混乱やらで、てんやわんやでしたからそれ以上、事は進みませんでした。

安田文吉さんの事は、その時から存じていましたが、おそらく年配の方で、所謂、歴史に詳しい老先生であろうと勝手に想像していましたから、おそれおおくて伺う気持ちになりませんでした。あの時、もっと積極的に伺っていたら、先生の母上様にもお逢い出来たでしょうに。残念なことをしました。

数年前、大須で訊ね歩いたことがあります。万松寺通りの老舗らしい酒屋で尋ねましたが、代が替って全然判りません。つぎに、これも古い三味線屋さんへ入って聞いてみました。

そこでもあまり手懸かりは無く、紹介されて大須演芸場の裏の、三味線のお師匠さんの家を訪ねました。色々伺いましたが、年数の経過が大きく「なみ」さん、「斎藤なお代(文字直)」さん、「常磐津京子(浪越)」さん等の電話番号を教えて頂き電話で尋ねてごらんなさいと言われましたが、それもそれ迄で中断しました。

今夏、松坂屋で「鎮魂、外地に眠る兵士たちの詩」展が開催されました。私は、父の戦死公報を持って取材デスク尋ね人のコーナーを訪ね、父の詳しい最期の状況を知ることが出来ました。その時、私は、祖母の事も、もう一度調べてみようと思いました。私は、再び名古屋タイムズ社の大野一 英さんにお尋ねしました。大野さんは安田文吉さんをご紹介下さいました。

最近、NHKテレビ北陸東海で「文さんの味な旅」というシリーズが放送されています。

その番組のレポーターが.誰あろう安田文吉さんでありました。私は我が目を疑いました。

「えーっ」 この人が安田文吉さん、間違い無く字は一緒、こんな若い先生が、古い芸能を研究しておられるとは、夢にも思わなかった。しかも、お母さんが祖母と深い関わり合いがあったとは。

安田先生の著書に依り、岸沢式治の謎は殆ど解明されました。芸歴は幾ら戸籍謄本を調べても判る筈はありません。これほど詳しく判ることが出来たのは安田文吉先生の御努力の賜ものだと感謝致します

芸能界という特殊な世界、光の部分に生きた人、影に隠れて消えた人、様々でしょうが善悪取り混ぜて自分の過去を知っておくことは必要だと思います。岸沢の名は消えましたが先祖として永遠に供養してあげたいと思います。覚王山の墓碑はこれでやっと子孫に理解されたと思います

祖母、はじめ、父の供養にもなることでしょう。

昭和六十二年十月四日

 

 

名古屋の芸能は宗春時代、江戸で吉宗の質素倹約の政治で活躍の場を失った芸人、商人の名古屋城下への流入により亨元絵巻に表される絢爛華麗な一時代を醸し出しました。

宗春政治は八年で終わりを告げますが、その間に、祭り、芝居などを求めて多くの人々が名古屋に集中、名古屋の町と文化が花開いたといわれます。

宗春蟄居の後は、灯が消えたようになり時代を懐かしむ「ゆめのあと」という書が各種出ました。この研究は安田文吉教授が「ゆめのあと諸本考」に著されました。

安田教授はNHK「芸能花舞台」にも解説でよく出演されます。

私も日本舞踊と民謡は少し関わりましたが、それは又、別の機会で…。

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