トップへ
らんだむ
年の暮れの街 12.27

二十一日、押し詰まる前に歩いて来ました。「名古屋駅」からバスで光ヶ丘行きで「谷口」下車。
まず、覚王山日泰寺傍の「鉈薬師」。二十一日に行ったのは、弘法さま縁日のみ、三時までの公開なので先日行った時に拝観した円空佛をもう一度見たかったからです。「谷口」から南へ歩いて行きましたが、振甫町から給水塔への坂道を上がると「鉈薬師」があります。坂への起点からは、今池まで「水道のみち」の桜並木が続いていて、春は花、秋は紅葉が見事です。並木の下には給水管が今もその役目を果たしています。
振甫町には、戦前から「振甫プール」があり、戦後には盛んに水泳競技大会が開催されました。私は幼時に行った記憶があります。今はバス道路に生涯学習センターがあり見え難くなりました。「鉈薬師」への坂道で上がっていく男の人に「振甫プールが見えませんが今も有りますか」と聞いた所、「生涯学習センターの東側で判り難くなり、かっての賑わいは無くなりました。昔は大勢の人が出入りしましたがね・・」。
「鉈薬師」では、ゆっくり念入りに解説文も拝見して来ました。堂守のおばあさんが、ろうそく線香を売っておられます。撮影禁止です。
縁日で賑わう日泰寺境内を通り、東の「揚輝荘」へ。現在は二つに分園され「北園」のみ、9.30〜4.30公開されています。「南園」は、日時、人数限定で公開されています。要領は名古屋市HPで。「揚輝荘」へは何度か立ち寄っていますが整備が進んでいます。今は、池の水を抜いていました。堆積物などで泥状になっているので取り除き次の整備に入るそうです。要所に写真と解説文の案内表示が設置されました。「豊彦稲荷」は、市の移管になる時に政教分離に問題で撤去との報道がありましたが所管分離して残されました。受付の「揚揮荘の会」の方に訊ねましたら柵仕切りで表示という方法にしたという事です。色々知恵を絞ってご苦労されています。建物の無い所にも、かっての写真と解説文の表示があり以前の姿を偲ぶことができます。木々が多いので落ち葉の量が凄く半端ではありません。まだまだ整備は大変で「揚揮荘の会」の皆さんにはご苦労な事だと思います。
東へ向かい覚王山墓苑の先祖墓参をして地下鉄「自由が丘」から「金山」へ。
予定の第一目的の「名古屋都市センター」で開催中の「写真で散策・広小路通りのいま・むかし」展示へ。江戸時代から現代へそして将来への「広小路ルネサンス」まで、絵図・写真を展示、解説が展開されています。ビデオコーナーでは「名古屋まつり第一回から」の映像展示です。山車とお囃子の場面もあります。登場の町内の皆さんには懐かしい様子が見られるでしょう。月曜・12.28〜1.4は休館です。もう少し知りたいので再訪する予定です。
そこから歩いて、東別院〜上前津〜大津通り〜広小路〜名古屋駅〜ノリタケの森へと、イルミネーションを見ながら散策。大津通りの「料亭蓬莱」が、タキヒョーの買収で廃業、更地へとの報道。又一つ歴史が消えて行きます。イルミネーションはブルーLEDが多くなって、始まった頃と較べると少し地味な感じになりました。ネオン管は華やかですが省エネ時代ですから派手派手よりは落ち着いた感じになりました。
今年は年賀状も少ないですが早く書き上がって投函済み。落ち着いた年の暮れを迎えています。
年末寒波との予報です。無事新しい年を迎える事が出来ますように念じます。


'07回顧 12.20
 

今年は永年の懸案が多く叶った年でした。と共に、何か「終ったのかなぁ」という気持ちもあります。
 六月十九日「豊橋市公会堂」へ。七月十五日、百六十三年振りに実現した「那古野神社祭礼」への広井神明社山車三輌の見舞車奉曳。八月四日、私の出生地、桑名の「石取祭」を訪ね、父の勤務先病院の元看護婦さんMさん(八十才)が、八才の時の私を見た記憶があると電話で伺っていたので、六十三年後の今夏、初めて面談。八月十四日「名古屋市公会堂」での戦争展。十月六日、「はんだ祭り」ちんとろ船の「子供三番叟」、ふるさと交流ステージでの「新城子供歌舞伎」。十月「名古屋まつり」唐子車霞幕の歌舞伎役者の画、追加発見、十一月三日、文化の日、初公開の「名古屋市役所本庁貴賓室」。
 他にも「名古屋能楽堂」の、伊勢門水展、二回。「鉈薬師」円空佛拝見。「鍋屋上野浄水場」公開。尾西の「六斎ばやし」。「川合玉堂展」(一宮博物館・木曽川図書館展示室それぞれ二回)。
既にご紹介したものも、してないものもあります。HPには限界があり総てをご紹介出来ません。
初めて見る感動、驚きもあれば思っていた以上に変わってしまった状況に落胆する事もありました。
漠然と解っていたとはいえ、名古屋城下周辺の人気の無い寂しさは誠に残念です。寂れたビルと人影も見えない道路。これが、かっての賑やかな碁盤割だったとは思えません。
「花の名古屋の碁盤割(沢井鈴一著)」では、当初は道路の幅は今の三分の一程で、毎日が隣近所に声を掛け合う暮らしであったと伝えられます。
近頃は人が歩いているのは「町歩きの会」などの時だけで繁華街以外は日常は何処へ行っても人が歩いていません。車などでの点から点の移動で人のコミニュケーションの場がありません。大人が、こうですから子供にもそれは影響し、メールなどによる陰湿な「いじめ」が起こります。匿名の闇サイトや中傷が発生するのも対話によるコミニュケーションの欠如からです。
 名古屋の中心部の祭礼は「那古野祭」は、関係の皆さんの努力で、百人暴れ神輿も毎年出るようになりました。ただ、祭礼日が七月十五.十六日との定めなので、参加・見物衆との融合が出来ないのが大きな問題です。これは「若宮祭」も同じです。「熱田祭」も、壇尻は陸に上がってしまい、花火はマンションなどに遮られよく見えなくなりました。然し、まだ夜になればは相当な人が出ます。それでも課題は多く、特に、お囃子など練習が欠かせない伝統行事の継承が厳しい状況です。それは「若宮祭」のお囃子も同じで、子供達が一所懸命練習をしても例祭が平日では参加出来ません。それでは折角の意欲が削がれます。全世代が挙って行うのがお祭りなので老人ばかりが大勢出ても成立しません。
 宗教心が失われ道徳心も育たなければ人心は荒ぶばかりです。神社・お寺も境内周辺の整備と行事だけでなく、氏子・檀家との交流で心を引き付ける姿を見せて頂きたいと思います。

「今の若者は意欲が無い、気迫が無い、昔はこんなことは無かった」と年寄りは言いがちですが、私はそうは思いません。名ばかりの形式的な継承や、現代社会では通用しなくなっている「しきたり」にこだわるばかりに、やろうとしている若者の意欲を削いでいる事が多くあります。それなどを考えないと伝統行事を伝えようという意欲は衰退するばかりですす。高齢者の、かたくなな考えの押し付けが老害となっていないか考えるべきです。世代の対立があっては巧く行きません。
 都市では明治維新以降、日本の伝統文化が西洋文化に押しやられた上、太平洋戦争の戦火で文化資産の多くが失われました。未だ復活の見込みもありません。
地方に残った伝統芸能が、今、過疎の波を受け消えつつあります。三河の「花祭り」が一つづつ消えて行きます。記録による保存も必要ですが「人から人へ」の生の伝達は必須です。どうすべきでしょうか。
 平成九年十月、一宮市千秋町加納馬場の「熱田神社祭礼獅子屋形道行囃子」を、終日ビデオ記録しVHSテープで渡しましたが、先日、DVD化2枚にして届けました。記録時に健在だった笛の名手の方は亡くなられ「今は練習の時、その時のビデオを貴重な資料として使っています」と言われました。私は「記録して良かった」と思いました。当事者はなかなか客観的に撮影出来ないので、よく話を伺った上で記録する事が必要です。記録と共に人による直接対話での伝達の重要さを感じます。
 これは他の伝統文化も同じで「判っている者同志だけで良い」という狭い考えでは駄目です。
「能」「狂言」「歌舞伎」など詳しい理解の必要な古典芸能などは、より一層の努力をしなければ縮小の危機があります。

 過去の資料は探せば見付かりますが未来への思考は現代の人が考えなければいけません。
都市計画法の改正で周辺に拡散した大型店の規制が厳しくなり、都市の生活環境の充実に重点が置かれる方向に転換される方針が示されました。「食べて寝るだけの暮らし」では心は満たされません。
高齢化は硬直した社会になる危険があります。世代を超えて柔軟なゆとりある社会でありたいと思います。
 新しい年はからは、考え方も暮らしも行動もシンプルにしようと思います。
濃密な情報は専用サイトなどが充実していますからそこから得られます。
私は年齢に応じた感覚を磨きたいと思います。
 来る年が、災害やトラブルの無い事を切に念じます。


七十代よ! 12.12

私が生まれた昭和十一年二月は、あの、二・二六事件が起こった月です。
翌昭和十二年、日中戦争が始まり戦時体制一色になり、昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発、二十年八月十五日の焦土の敗戦。
その後は、ゼロ、あるいは大きなマイナスを背負っての苦難の年月を経て今も大きな傷を背負ったままと同じように人生の終焉を迎える年齢になりました。
筆舌に尽くせない苦労を経験した筈の世代中に情けない人生の結末を迎えている人達がいます。
私は、人は息絶える瞬間まで何が起きるか解らないという場面を多く見て来ました。99%旨くいったと思っていても、最後の1%まで油断出来ません。哀れな終末を迎えた人を多く見て来ました。
「死んだら終り」というのも確かですが、果たしておかなければいけない責任が多くあり、それは義務でもあります。義務を果たせず早世した両親の無念を私は墓参の度に痛感します。それを思えるようなったのはそれなりに或る程度達成できた年齢に達してからの事です。

今、世を騒がせている食品偽装の問題。いずれも会長・社長は七十代前半の人です。何故、そこまでして事業の拡大をして巨利を得ようとしたのかと考えてしまいます。明らかにブレーキの無い暴走でした。外から見れば「大成功者」でした。功なり名を遂げ、事業を引き継いだ筈の事業が不法なものであった事が情報社会の発達した現代では呆気なく暴露されました。その息子たち後継者が親の名誉を守ろうと弁解する姿は哀れに見えます。
これは「ブランド」に群がる消費者にも責任があります。双方に責任がある事を弁えなければいけません。名ばかりのプロデュースで付加価値をつけ煽るマスコミにも惑わされてはいけません。まんまと乗せられる消費者にも責任があります。
私は見る気がしないから見ませんが、ゲテ者タレントの横行にも辟易します。かっては恥ずかしい事として控え目にしていた事を逆に誇張して売り込む姿は全く不愉快で気味悪く見るに耐えません。

老いても元気なのは悪い事ではありませんが、現実にはそれほど役には立てないことが多いのです。それをわきまえる気持ちになるには葛藤がありますが、現実には、年金・医療などで大勢の人に負担を掛けているのです。
現役引退の立場になれば社会批判をする立場にはもう無いのかもしれません。「年寄りは黙れ」と現役の人に一喝されたら返す言葉はありません。それは事実ですから。

今年は七十代の人の訃報も多くありました。黒川紀章、阿久悠、稲尾和久さんなどの方々。
同年月生まれの長嶋茂雄氏が不自由ながら健在なのは結構ですが、自らは何も出来ない事に執着されるのは如何かと思います。今回のアジア予選でも星野監督と強力なコーチ陣を以ってしても必死の勝利であったことを思う時、ユニフォームだけのベンチ入り、コーチの代理采配であった前の戦いが如何に空しい名声に拘ったかを感じて欲しいのです。長嶋氏も、もう静かにして居られれば良いです。かっては天下の名選手もグランドではもう動けないのですから。
今、グランドで姿が見えるのは楽天野村監督だけになりました。マスコミには伝えられない、かっての名選手、川上哲治、金田正一さんの姿が稲尾さんの葬儀で見えましたがそれでいいのではないでしょうか。

徒然なるままに書いて来ましたが、これは今の自分に対する自戒であります。


覚王山界隈 10.23

覚王山界隈は、東端の墓苑に私の父方の墓地があり、私が六才時の母の早世の折、白裃で喪主を勤めた、その頃の記憶が脳裏に沁み込んでいます。私が喪主を勤めたのは母に代わって生まれてすぐ、母の実家の養子になったからです。父母が眠る墓地のすぐ北50メートル程の所に、明治三十年には、三明火葬場が造られ、終戦直後、進駐軍の命令で廃止された事を知ったのは、平成になってから、現地の花屋さんとの会話からでした。
現在、覚王山墓苑へ行くには、姫が池交差点から自由が丘へ向かう拡張整備された道を通りますが整備以前は「陸軍戦捷碑」の北の道が主道でした。
この道が「ほうろく街道」という道である事を知ったのは「やまのて音楽祭2005」のパンフレット巻末にあった「城山・覚王山をめぐる古道(白壁アカデミア世話人 池田誠一)」の文でした。焙烙(ほうろく)というのは素焼きの平皿で、火にかけて、豆やゴマなどを煎るものです。これを三河から名古屋へ売りに来た人が通ったという説や、名古屋市内から三明火葬場への葬列が唱える法六句(南無阿弥陀仏)になぞらえるという話とがあります。
この道は東山山給水塔の北で四観音道と交差しています。
三明火葬場跡は駐車場で隣しては瑞専寺と愛昇殿が有りますが、愛昇殿の北にある、大心寺のかっての朱塗りの本堂が、今は愛昇殿になっています。
火葬場の記憶は無いのですが、朱塗りの本堂は幼時の記憶に、はっきりとありました。
覚王山墓苑には有名無名の数え切れない墓碑が立ち並んでいます。この東墓苑は中央部が谷状になっています。
東南の一角、高い所に瓦の載った漆喰壁に囲われ、観音開きの扉のある門が有ります。中に建物があるかなり広い所があります。いつも閉まっていて中には入れません。門札も有りません。ずっと疑問に思っていましたが、最近、近くの参詣の方に聞いた所、松坂屋伊藤家の、墓所だと知りました。もしや、多分という気はしていましたがやはりそうでした。
伊藤家は元は織田信長「本能寺変」の時には側近として八百石の禄を受けて清須城の詰めていた、伊藤蘭丸祐道(十九才)です。その後、二君には仕えずと浪人し閑居、慶長十六年(四十八才)、これからは商人の時代だと、妻と次男祐基と共に清洲越しを決断、名古屋本町筋茶屋町に呉服小間物問屋を開業、これが「いとう呉服店」、「松坂屋」へと大発展し、明治・大正・昭和の名古屋の近代社会に大きな貢献を果たしました。その御霊所です。
隣接して古川為三郎氏の墓所が有ります。時代の変化で色々な問題が起こりますが、何と言っても商業と文化に大きな功績を残された誇りある名士の方々です。
姫が池交差点東北角には釈尊舎利殿があり参道には、記念碑、顕彰碑が並んでいます。
名古屋区長であり国鉄東海道線建設に大きな功績を残された吉田禄在氏の墓碑も近くにあります。
覚王山の縁日には墓苑に点在する札所への参詣があり、ろうそくの灯・線香の香りが漂います。
縁日で大混雑の日泰寺の西に「鉈薬師」がありますが、縁日(21日)のみ十時から二時までの限定でお堂が開きます。薬師三尊と十二神像の円空仏が見られますが、かなり大きなもので鉈の切り口の鋭さに圧倒されます。日時限定ですが一見の価値大いにあります。
近代では、大正十二年発生した「甘粕事件」で虐殺された橘宗一少年の墓があり、先日見た時にはリンゴが一個供えてありました。
私は、先祖の墓参は良くしますが他人様の墓には参りません。写真撮影も致しません。何かを感じますし、縁者に方に失礼があってもいけません。
懇意にしていたお坊さんに「日が暮れ掛かったら墓地へは行かないほうがいい、特に夜は霊界だから、お経など唱えて頼られても出家でもない貴方では応えられないからね」と言われ、見るだけにしています。
「揚輝荘」は、北園が公開ですが、南園や建物は日時定員限定で申し込みが必要です。トンネル入り口はマンション敷地内になり外部から見る事は出来なくなりました。
歴史ある建物、行事の継続、復活は難題が多いのですが、後進の皆さんに情報をお伝えし、日本の文化資産を守って頂きたいと思います。


霞幕再見 10.18

昨年、初めて「内屋敷唐子車」の霞幕が昭和三十三年、当時の歌舞伎の名優によって描かれいるのを知り、当HPで紹介しました。再確認をしようと撮影ビデオを探していましたが不明になっていました。HP用の画像は残っていましたが、それ以上の資料は有りませんでした。
今年の「名古屋まつり」の山車揃えの機会に、より詳細な画像を撮る事にしました。
前日の天気予報は、その日は雨がシトシト降るという事で、これは難しいかなと思いましたが、夜が明けて、曇り勝ちながら青空も見え大丈夫という事で早速出掛けました。
柳橋の三輌の山車は長者町筋を北進中。恒例の那古野神社参拝、唐子車の「からくり奉納」の後、本町筋から名古屋城三之丸へ入場。若宮・筒井・出来町の六輌と共に整列しました。
この待機の時、霞幕が上段に掛けられます。尋ねて見ると唐子車が霞幕掛けるのはこの時だけという事でした。
山車揃え為に、十時十五分から山車の市役所前への移動が始まりますから、霞幕が掛けられるのは三十分位の間だけです。ですから今まで見る機会は無かったのです。
今年改めてジックリ拝見した所、前回とは違った発見がありました。
追加は仁左衛門の「兎」です。間違っていたものが有りました。「鍾輝」は三津五郎ではなく延若でした。お二人は関西歌舞伎の方です。
三津五郎は「葡萄」です。「兎」「葡萄」は薄れていて前回は見逃しました。それと、松本幸四郎は「葦から飛び立つ雁(鴫?)」ではなく、「枝に柿あるいは柘榴」です。
「葦・雁と歌一句」は署名がありますが私には読めません。教えて頂きたいと思います。
そういう事ですので、総ての画像を再構成してアップします。
昭和三十三年十月吉日(1958)とありますので四十九年前のものです。
私は非常に珍しい貴重なものだと思いますが如何でしょうか。


はんだ山車まつり 10,11

十月七日、九時三十分に、名鉄知多半田駅に降りました。既に山車の多くが集結、次々「さくら会場」へ移動中でした。私は「ちんとろ船・子供三番叟」を、まず見るのが目的でしたらマップを手に半田運河へ向かいました。私は半田へは昭和二十年代に行った事がありますが、それ以来全く行っていないので全く不案内ですが、JRのガードを潜って真っ直ぐ行き「ミツカン酢の里」の前を運河に出ました。既に前夜に「ちんとろ提灯船」や、花火があったようで強力な投光機が二台、河沿いに置いてありました。
十時には運河に居ましたが「子供三番叟」は、十時三十分からで、その前に、道行囃子に乗って肩車された子供三番叟がやって来ました。私は「北組住吉丸」の所に居ましたが、その子は、五・六才かと思います。キリリとした化粧で船に乗りました。
「南組入宮丸」が運河のT字の向こうに居て、テンポの速いお囃子が聞こえたので、少し戻ってそちらへ行きました。子供は北組の子より小さく、て四・五才くらいかと思いました。
その子の「三番叟」をビデオ撮影しました。十二分ですが、かなり長い所作を、まごつく事無くやり遂げ非常に感心しました。十二分というのは能・狂言での「揉みの段」と同じで大人でも大変な事です。
南北の船の入れ換えがあり、十一時三十分から、次の舞(三番叟は踏むと言います)が有り、北組は違うお囃子と舞のようですが、そこを離れて「さくら会場」へ向かいました。その頃には「ミツカン酢の里」には長蛇の列が出来、混雑が始まりました。撮影は困難になりました。
これは別のサイトで詳しくご紹介します。
「平和通り」は、山車が連なり市役所前の交差点は動きが取れなくなっていました。
「さくら会場」には、まだ山車は十輌程で広場も混んでいませんでしたが、パンフレットの「ふるさと交流ステージ」を見ると「新城歌舞伎白浪五人男」が十二時からJR半田駅北であるという事なので急ぎ急行、滅多に見られない子供歌舞伎をビデオ撮影出来ました。安田文吉さんが舞台に現れ新城歌舞伎公演の紹介がありました。撮影は十五分です。
続いて横須賀の「公通組のからくりとお囃子」を見ました。二時からも豊田の子供歌舞伎も有ったのですが見ずに帰りました。山車は道中で多くを見ましたが、ますます混雑は激しくなり「さくら会場」へ行っても夜までのスタミナは無く、帰りの混雑も予想され「山車」は、又の機会と言う事で早く引き上げました。もう以前のような気力体力は無いので程々にします。
然し、「三番叟」「白浪五人男」は素晴らしかった。これだけで充分でした。
ゆっくり整理してご紹介します。


内屋敷唐子車・霞幕 10.3

この霞幕については、当HPで既にご紹介していますが、今年七月「那古野祭」に広井神明社の山車三輌の百三十五年振りという歴史に残る快挙が実現しました。
その時、昨年、名古屋まつり山車揃えの時にこの霞幕の事をお尋ねした唐子車の代表の方が居られたので、その事をお話しました。憶えておられて「町内には古い話を知っている人が居なくなってねぇ」と言われました。
「二度とは得られない貴重なものですから是非大切に保存して下さい。もし難しくなったら御園座には演劇図書館が有りますから預けて頂けたらと思います」と申し上げました。
その後、常磐津でご縁のある南山大学教授安田文吉さんに「こういう珍しい貴重なものが有るのですがご存知ですか」と電話でお話しましたら「いやぁ知りません。それは一度拝見したいと思います」という事でした。
安田教授には「若宮祭」に那古野神社で久し振りに会い錦通りまでご一緒しました。

今、御園座では「恒例顔見世歌舞伎」の興行中です。菊五郎さんが來演中ですが父上の梅幸さんの梅枝花が霞幕にありますから、ご覧になられたらと思います。
出来れば興行中のロビーの四枚の霞幕が展示出来ればと思いますが、私はそういう事を申し上げる立場には無いので思いだけです。
「広井神明祭」と「名古屋まつり総揃え」では、又、九輌山車の勇姿が拝見できます。
好天と素晴らしい展開に期待しています。


望月朴清さんを偲ぶ 9.28

前文九月十六日に「歌舞伎囃子方」でご紹介したばかりの望月朴清さんが九月二十日に亡くなられました。東京歌舞伎座で十七日まで「身替座禅」の小鼓を打っておられました。七十三才でした。
 歌舞伎音楽囃子方の望月流家元、九代目望月太左衛門の長男として生まれる。88年、十一代目太左衛門を襲名。98年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。気迫のこもった演奏で知られました。
「望月朴清プロフィール」というお弟子さんが作っておいでのHPでご自分の事を語っておられます。
転載禁止のコメントはありませんのでその一部をご紹介します。素晴らしい名人を偲ぶ縁になればと思います。

「鼓と私の体重」
 私の体重は身長と共に若い頃より現在まで一度も変わったこ とがない。45キロである。
毎月のはじめに、食事の時間と メニューを一ヶ月分きめてしまう
朝食は和食、昼は日本そば、 夜は8時頃から11時頃まで晩 酌、ビール小ビン3本につまみ くだものもかならず。アロエ、ウコンとハトムギ茶、11時30分にごはんで食事をする。 たべたらすぐ眠る。 こうしないと朝のごはんがたべ られないのである。
変な人と言われるが健康なので仕方がない。 かんがえてみると小量だが無駄のない体に良いものばかりたべている。
この食事が私の仕事である鼓を打つための自然で調子の良い体重を保 っている。
鼓を打つ時の座り方、構え、左手で鼓をもち右手で打つのだが、左手の指は客席から見えない。が、これが一番難しい。一瞬、一瞬、の動きなのだが、右手の指が鼓の皮にあたった瞬間に左手の指をひらく、ほんの少しだけひらく。無駄な動き、力は必要ない。腹から息で打つ、タとポンという二種類の音だけであるが、景色、感情、心、匂い、曲のすべてを表す。 鼓が語ってくれるのである。
この変わらない体重の身体に宇宙の神様がいっしょになってくれた時、私もお客様も、素晴らしい気持ちの良い演奏の中につつまれるのである。

いずれ追悼の番組があると思いますが、手元には今年のお正月、大阪松竹座での「勧進帳」の出囃子の姿が有りますので、その姿を偲びご冥福をお祈り致します。


達陀 9.25

十月、御園座興行は「第四十三回 吉例顔見世興行」です。
昨年は、坂田藤十郎襲名で「堀川船乗り込み」があり、広小路・御園通りでは、お練りがありましたが、続いた一連の襲名は一通り終了し、それを見届けるかのように、松竹永山会長も亡くなられました。
御園座の「襲名歌舞伎興行お練り行事」は、総て見てきましたが今年はありません。
今年は、団十郎・菊五郎を中心に、かっての三之助、菊之助・海老蔵・松緑に、ベテラン、左団次、魁春が加わります。内容は御園座HPでご覧下さい。
私の注目は「達陀」です。パンフレット解説では、昭和四十二年二月、二代目尾上松緑振付、初演以来七度目の上演とあります。
私はNHKの放送で見ました。かなり以前に録画した教育TV芸能花舞台「尾上松緑を偲ぶ」を見ると放送は昭和五十年だということですが、スタジオでの上演で作品の解説もあり詳しく見た印象があります。
構成は四場ということですが、松緑(僧集慶)を先頭に男性ばかりの十数名の群舞が見るものを圧倒しました。
平成元年に、松緑さんは七十六才で亡くなりましたが、八年に菊五郎さんが集慶役を引き継いだと解説にはあります。舞台上演では時間がどれほどなのかは解りませんが、後段では、須彌壇をバックに錬行衆の激しい妙法の舞いが展開します。東大寺に伝わる言い伝えを萩原雪夫が作品にし、中能島欣一・柏伊三郎作曲、望月太左助作詞です。
日本舞踊は一人で踊るのが通例で、男性だけの群舞というのはそれまで、無かったという事ですが、二世松緑さんは、四世藤間勘右衛門家元でもあり、舞踊界若手男性が、お稽古を希望し、十六人が月三日づつ四グループでお稽古。昭和三十五年「藤の会」として公演をしました。
その後、振付の勉強もし「鳥獣戯画」「まつり」などが上演されました。昭和四十年松緑さんも加えて「勘右衛門と藤の会」となりました。
昭和五十年、六十二才の時、舞踊家元を息子の辰之助さんに譲られましたが、これは足の状態が悪化し活動を歌舞伎に限られたからです。「勧進帳」の弁慶は六十七才が最後でした。
「藤の会」はメンバーは、歌舞伎・日舞などで中堅になり、その後は自然休会になったそうです。
「達陀」はNHKの放送後は、前述の「偲ぶ」で三分程の断片が見れますがまだ他に録画した事があると思うので探しています。
日舞の男性群舞は花柳流の若手が稽古をし発表していると「日本の伝統芸能」NHK教育TVで紹介されています。
日本の伝統芸能も、有能な後継者の死亡や家元の世襲の難しさなど、難題を抱えているようですが発展継続と失われたものの復活を願っています。


歌舞伎囃子方 9.16

最近の歌舞伎興行では囃子方の顔ぶれが変わりました。
何時からか長唄連中の前に居並ぶ出囃子に、田中伝佐衛門・伝次郎の二人の姿がいつも見られるようになりました。パリオペラ座公演にも出演しました。歌舞伎座公演も定席となった感があります。
この席は、望月朴清(小鼓)堅田喜三久(太鼓・たいこ)さんの定席でした。
お二人は、今や人間国宝となられ古典芸能鑑賞会や新春桧舞台などの特別公演には出演され円熟の境地を披露されます。歌舞伎舞台では、各座一斉の今年のお正月公演では、大阪松竹座の「勧進帳」で団十郎・藤十郎初顔合わせに朴清さんは小鼓を打っておられました。まだ七十三才ですから、今後もまだまだ活躍されるでしょう。
平成十七年には、一月から七月までの歌舞伎座出演でしたが、若手の実力者に禅譲されたのでしょうか。それぞれが、ご兄弟です。
朴清さんのHPがありますが面白い談話が紹介されています。
田中伝佐衛門・伝次郎さんは、田中流歌舞伎囃子方で、長男亀井広忠さんは三十三才という若さながら能葛野流大鼓(おおつづみ))囃子方という若さ溢れる三兄弟です。
平成九年から「三響会」を主宰し、能・歌舞伎・狂言とのコラボレーションという画期的な活動もしています。
歌舞伎の音楽は舞台における演奏だけではなく幕外での笛、太鼓の演奏もあります。
「船弁慶」の知盛の亡霊の引っ込みでは、笛・太鼓の激しい演奏がなされます。
「黒御簾」という蔭囃子での演奏や唄もあり歌舞伎の囃子方、唄い方は見えないところでも活躍しています。これが無ければ歌舞伎は間が抜けて成立しません。
「ツケ」は、板を叩いて見栄などの所作に迫力を加えます。幕開けと幕引きの「析」の音が重要な事は周知の通りです。
演奏家の育成もNHKなどで行われ、その人達が舞台出演もされているかと思います。
大相撲の地方巡業が愛好者拡大に必須だと言われるように、歌舞伎の短期地方興行も行われています。
役者、地方(演奏者)は、東京集中になっているのは止む無い環境でありますが、高価な入場料を払う劇場観劇が出来なくても、大型TVで豪華な雰囲気は味わえます。三階席とか幕見席でも思ったより良く見えます。
上手下手はともかく、日本人が日本の伝統文化を身に付けることは正真正銘の本物です。
全く解らないというのは残念な事なので基本知識だけでも知って頂きたいと思います。



パヴァロッテイ 9.10

パヴァロッテイさんが亡くなりました。七十一才でした。,
昨年来の膵臓ガンの経過が悪く残念な事になりました。あまりにも有名な三大テナーの一人です。
即ち、ルチアーノ・パヴァロッテイ、フラシオ・ドミンゴ、ホセカレーラスが三大テナーといわれる事は周知の通りです。
十三年程前、世界各地で「三大テナー競演」という演奏会が開催され、日本での公演もあり、東京ドームや、名古屋ドームオープンでも歌われました。
私は生で聞く事は出来ませんでしたが、ビデオ録画をしました。内容は同じようなものですが大きなブーム現象でした。
その中に、「アメリカ・ロサンゼルス・ドジャースタジアム(1964・7.16)」があります。
観客席の顔ぶれが、そうそうたるもので、フランクシナトラ、ジーンケリー、ポールニューマンの姿がありました。フランクシナトラには「マイウエイ」を、ジーンケリーには「雨に歌えば」を披露。オペラのアリアは勿論、イタリア民謡、ミュージカル、ラテン音楽など、スピン・メータ指揮によるフルオーケストラ、コーラスをバックに多彩な二時間でした。
今は既に故人になった人も多く、今回のパヴァロッテイ死去で、再び姿を見る事は出来なくなりました。
パヴァロッテイは、トリノオリンピック開会式で「トゥランドット」のアリア「誰も寝てはならぬ」を歌いました。冬季オリンピックでのフイギュアソロ、荒川静香、金メダルのBGMでも一層多くの人がその曲を知りました。凄いのを通り越して、凄まじい迫力です。
アンコール「オーソレミヨ」では、カレーラス、ドミンゴが、あきれた顔を見合わせました。
これを見ていてもわかるのは、演奏者と観客との文化の一体感です。オペラはヨーロッパ発祥ではありますがアメリカにはメトロポリタンオペラがあります。
日本公演はあくまでアジアへの出張公演であり、一つのイベント・ショーです。同じ事を行っても欧米現地と東洋圏とは宗教などの文化圏が違いますが、それにしても素晴らしい芸術文化です。
私は、今では日本の伝統芸能に絞りましたが、若い時は内外の色々な素晴らしいものに関心を持ちました。
最近は、コラボレーションという事が多く言われますが、十数年前、モダンバレエ振り付け師でラベルの「ボレロ」の振り付けで有名な、モーリス・ベジャールが、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」をバレエ化。
「ザ・カブキ」として東京バレエ団が初演しました。音楽、黛敏郎、日本の所作指導は花柳芳次郎(現、寿輔)、お囃子は堅田喜三久、本来の人形浄瑠璃の太棹三味線の音が入り、衣装も着物を活用、稽古には玉三郎が顔を出すなど見事なコラボレーションでの成功でした。公演と稽古風景を保存しました。
最高の芸術は国境を越えますが、欧米文化の世界で活躍するには日本にはその場は無く海外へその道を求めて行きます。日本ではかって「藤原歌劇団」があり、その後「二期会」が公演を行っていましたが最近、情報を聞きません。どうなってしまったのでしょうか。
生活保障の無い芸術文化は衰退します。一時のブームで物珍しさや流行だけのカルチャー講座の氾濫で、かっては子女の習い事、教養としていた、日本舞踊、和楽器、茶道、生け花などは生徒が減少、師匠の生活も勿論、発表の機会も無く技術も向上せずジリ貧になってしまいます。心配な事です。
世界には素晴らしい芸術文化が多くありますが、日常の国民性に合った文化をよく理解して自己の向上を計れないかと益々思います。



日本の伝統芸能 9.5

「伊勢門水展」の「安宅」の画を見て、ふと気付いた登場人物の数から、「能・狂言」の事を調べていました。
と言っても「安宅」を重点にしました。というのは、私は極端なほど、歌舞伎「勧進帳」が好きなので、かなり以前から、録画もして来ました。ずっと言い続けていますが「二世尾上松緑」以後、それを超えたと思える役者はいません。特に「延年の舞」に始まる畳み掛ける踊りの件りは当代役者さんでは「やっと辿り着けたかなぁ」という所です。これは何百回やったという数ではありません。
ところで「安宅」と「勧進帳」ですが、現在の歌舞伎「勧進帳」は、明治初期、七代目団十郎が「松羽目物」として能に近いものにしたと言われます。
弁慶を歌舞伎にしたのは、元禄十五年二月、江戸中村座上演の市川家歌舞伎十八番として「星合十二段」が「安宅関」だといわれます。
初代団十郎が、天保十一年、江戸河原崎座弁慶初演ですが錦絵で見る様子は「荒事」としての表現で衣装も背景もかなり今のものとは違います。二代目も演じたという事ですがそれ以降の事は伝えられません。
七代目が、元祖市川団十郎生誕百九十年寿狂言十八番に、能楽の高尚・雅趣を取り入れ、今の姿を完成したと伝えられます。
「能・狂言」から「歌舞伎」への展開は数多くあります。松羽目でないものもあります。
「紅葉狩」などがそうですが、今年、パリオペラ座公演では、松羽目「勧進帳」と「口上」を挟んで「紅葉狩」が上演されました。外国人には「紅葉狩」の方が華やかで、地方も長唄・常磐津・義太夫の掛け合いで面白かったかもしれませんが、能に近い「勧進帳」の高尚さと緻密な所作も感動を与えたと思います。花道が無いという制約がかなり見せ場を披露出来なかった事は残念でした。
日本では、まず見られない無い再度のカーテンコールも違った感銘でありました。

能「安宅」を見ようと、図書館・ビデオショップを探しましたがありませんでした。
「家伝 能」という観世流宗家の能の紹介をするビデオがあったので見ました。
日本古来の種々の伝統芸能と同じく、明治維新と、太平洋戦争後の存亡の危機を経た経過が著わされています。
「能・狂言」と「歌舞伎」は、演者、観客の階級差が言われます。確かに室町時代足利義満に認められ、「猿楽」が観阿弥・世阿弥によって高貴な世界を作り上げ、徳川時代は、お抱えとして身分保障され、超エリートだけに披露を許された庶民には程遠い世界でした。
歌舞伎役者が自由奔放に歌舞くのは面白くなかったと思います。しかし、それがあって一般の社会にも芸能文化が広がった事は大きな功績です。その歌舞伎も戦後は存亡の危機がありました。
「能・狂言」には型という絶対なものがあります。その世界にありながら表現の拡大を求めて行動する人もいます。限られた空間の中ではどうしても、説明(台詞)が膨大になり見る方はいささか草臥れます。世阿弥は「演ずる事を意識せず、無心の境地で舞うことが芸の理想」と言われたのですが、凡人には判り難い世界です。
歌舞伎はジャンルが広く役者も幅広く多くの事を習得しなければなりません。血筋と練習・稽古は無限です。それがあって、主役の病気・事故の場合でも代役がすぐ勤めます。修練の賜物です。
地方では素人や子供が演じます。
日本の伝統芸能は世界に誇れるものです。欧米文化も必要ですがコピーからの脱却は至難です。
明治維新以来、「古いものは時代遅れ」と良いものでも排斥する風潮がありました。
このままでは衰退しかねない日本の文化を、現代未来にどう伝えていくべきか国を挙げて考えるべきだと思います。


伊勢門水展  8.27 

八月一日から三十一日までの一ヶ月間。名古屋市能楽堂で開館10周年記念特別企画展として開催中です。
 私は十六日と二十五日の二度見てまいりました。十六日は記録的な猛暑日(39.8度)でしたが、他行事に行って後、午後三時頃、地下鉄「丸の内」1番出口から300メートル位かと思いますが,歩いて行くとクラクラするような日差しでした。二十五日は同じ所を歩きましたが、36度位と思いますがそれほどの事はありませんでした。
展示品は二十四点ですが、なかなか味わい深いもので見入ってしまいます。
私は、随分以前に日本画を習った事があり、材料道具は一式持っていますので「こういう楽しい描き方はいいなあ」と思ってしまいます。書や水墨は地味で好みではありませんが、版画や門水さんのカラフルな日本の顔料の発色には惹かれます。これは着物の染料にも言える事で天然染料(藍など)と化学染料では味わいがまるで違います。
一時、ケバケバしいデザイナーブランド浴衣が流行りましたが暑苦しくて見られませんでした。最近は落ち着いてきたようです。
 門水さんの画は禅画が基本になっています。パンフレットや「名古屋祭」を見て「さて、どこから書き始めているのだろう」と思います。お祭りの山車は下から、だんだん上に書き加えていると見ました。狂言画は、シテをまず書いて、それにワキ・アドを加えるという手法です。スーッと書いているように見えますが表情も動作もそれぞれ特徴があり、自らも演じられる事が完成度を高めているのでしょう。
十六日に行った時は気が付かなかったのですが、二十五日に、再度行って見ていましたら、ある事に気が付きました。能「安宅」の人数です。弁慶、義経、の後ろに五人描かれています。私は歌舞伎の「勧進帳」は相当数見ていますが、歌舞伎では弁慶、義経と、いわゆる「四天王」の六人が決まりなのですが、門水「安宅」は「四天王」ではないのです。私は能「安宅」は見ていないので、早速ウエブで検索してみました。それによると義経従者は山伏、強力が十二人だとあります。なお写真などを見るといつも十二人ではなく数は減らしている事もあるようです。
こういう話は奥があるので、もう少し調べて見ます。
展示室には解説のパネルが有りますが、全部読みました。明治維新と戦中後の混乱で日本の伝統文化は多くを喪失しました。明治維新は国内事情ですから止むを得ないとしても、太平洋戦争での外国(アメリカ)による無差別な破壊は、発端が日本にあったにせよ、物心共に人も失い伝統文化の破壊でした。門水さんも、こういう事態は全く思いもよらなかったでしょう。
その復元をアメリカに求めても適わぬ以上、日本人による復活しか方法はありません。
「世界に誇れる日本の文化は何か」真剣に考える所に来ています。古典芸能の世界では世襲が危うくなっています。歌舞伎役者の三割は国立劇場研修生といわれます。伝統行事を守る事は政教分離論とは別の事だと思いますが如何でしょうか。
能狂言が歌舞伎の方へ展開していった事についての私の考えは又の機会にします。


名古屋市公会堂  8.20

「2007あいち平和のための戦争展」が、駅前中小企業センター取り壊しで、今年は「名古屋市公会堂四階ホール」開催だったので、8月16日に行って来ました。この展示には、度々行っていますが資料も戦後六十二年という風化により訴えるものが薄れて行きます。
今回行ったのは、「公会堂」の建物の内部をよく見たいという希望がありました。鶴舞へは、よく行くのですが「利用者以外は立ち入らないで下さい」という掲示で中に入る機会がありませんでした。
私は、すぐ近くの板橋町2-9-3(現千代田すかいら〜く鶴舞店辺り)に、昭和12〜15年(2才〜5才)まで、父母兄と住み弟が生まれた所です。父は名大病院勤務でしたが、ビーカーやフラスコの沢山有る所へ私も行った記憶があります。ここで、曙幼稚園(現、所在不明)に通いました。幼稚園行事はよく憶えています。
漢方の匂いのする天狗の人形の立っているショーウインドウの「本草閣」の前をよく通りました。
昭和十二年に「汎太平洋博覧会」があったのですが、私にその記憶はありません。
「名古屋市公会堂」は、昭和二年(1927)起工。五年十月十日開館ですが。今回地下一階から四階まで階段を上下し、よく眺めて来ました。大ホールや他の集会室は閉鎖されていましたが、大理石の柱や、レトロな照明器具、当時の特徴である、アーチ型の窓や扉、一階の鉄扉は中世の城のようです。
公会堂建築としては、先日、訪ねた「豊橋市公会堂」と共通する感じが多くあります。
現在は「何とか会館」とか「ホール」というのが呼称ですが、「公会堂」という呼び方は時代を感じさせます。詳しい内部紹介は名古屋市などのHPにありますからご覧になって下さい。
舞台装置など利用できる諸設備も充実しており、まだまだ永く利用される事でしょう。
その足で、「鶴舞図書館」へ行き、昭和4.8年の市内住宅図の追加分を見に行きましたが、中心部に限られ、目当ての、今池以東の覚王山などは有りませんでした。市電が「東山公園」まで開通したのが動物園開園の昭和12年ですから別荘などは有ったにせよ一般住宅は殆ど無かったんでしょう。
その後、能楽堂の「伊勢門水展」に行きましたが、それは又にして。
記録的な猛暑日(39.6度)でしたが、午前は北区へ所用。さすがに歩く事は出来ず、JRと地下鉄で移動していました。

桑名へ 8.10

八月四日、桑名へ行きました。
桑名は私の出生地です。昭和十一年二月三日、当時は三重県桑名郡西桑名町大字桑名416番地です。
現在は桑名市三栄町となっていますが全く無縁となっています。
七十一年半前の事ですから、その後の太平洋戦争による、空襲、桑名は昭和20年7月17日の焼夷弾爆撃と24日の1トン爆弾818発(面積比率全国一)による70%の破壊焼失で壊滅状態となりました。
その上、昭和34年9月26日の伊勢湾台風による堤防決壊、駅から揖斐川沿い一帯は水没破壊という二度の災害を経験しています。春日神社の鳥居は荷物船が横からぶつかり無残にへし折られてしまいました。「六華苑」も建物・庭園も大きな被害を受けました。「伊勢湾台風被災写真集」を見ると唖然とする情景が展開します。現在、嵩上げされた吉野丸防潮堤は異様とも言える風景ですが、それほど災害が凄まじかった事を思わせます。

ところで、私が桑名で生まれたのは、父が「五井病院」(現在は八間通り末広町角の第三銀行)勤務の為、そこから100mほどの前述の場所に住まいを借り、父母と兄が名古屋から転居、そこで、私が生まれました。昭和10〜12年の三年程の勤務の後、名古屋に戻りました。ですから私には当時の記憶はありません。私が戸籍を頼りに桑名市役所へ現在地を問い合わせ訪ねたのは平成になったばかりの頃です。「五井病院」の門前で白衣の医師・看護婦さんが並んでいる集合写真(7*7センチ)が唯一枚手元にあります。それをカメラ店で焼き増し(当時はそれ以外の手段は無かった)して地図を頼りに行きました。
その日は、私の生まれた日(二月三日)でした。前述のように桑名市は戦前の姿は全く消えてしまっていると思って行きました。私は戦中の様子は全く知らないのですが・・。
知る人も居ないので見当を付けて一軒のお宅を訪ねました。「西桑名大字桑名416はこの辺りでしょうか」その方は「ああ、この辺り数軒がそうですよ」と教えて下さいました。借りていた家ですから当然跡形も有りません。「五井病院は今でもありますか」「五井さんは廃院されて縁故の方も桑名には居られません」という事でした。その時、五井病院の跡地は「ショッピングセンターキシ」というスーパーになっていました。
今度訪ねて判った事は、桑名は昭和20年1月から空襲が始まり、当時としては先端医療技術のレントゲンや外科手術の機械器具を安全な地域に疎開しようと引越し作業の毎日だったという事でした。
その後の7月24日の爆弾で、鉄筋造りの五井病院も破壊、再建は無かったようです。
平成初め訪ねた時、「当時、五井病院に勤務して居られた看護婦さんが近くで健在だから伝えてあげます」という事で写真に住所を書いて、お願いし帰宅しました。その後、電話で、その看護婦さんとお話しましたが、その後、特に桑名へ行く用件も無く20年近くになりました。
今回行って見ようと思ったのは、八月四日が母が亡くなった正命日(昭和17年)ということ、土曜日・石取祭と重なり何か引き寄せられるものがあり、十時には桑名の駅に立っていました。
「石取祭」は、その日の午前零時叩き出しという事で行事は終っていましたが、それが目的の第一ではなく看護婦さんのMさんに初めて会う事が出来ればそれで総て良し、もし駄目なら「六華苑」へでも行って帰るという確信の無い訪問でした。
住所は19年前聞いてありましたが電話がわからないので突然になり驚かせて恐縮しました。
実はMさんは昭和17年からの「五井病院」勤務で、その時、父は名古屋で開院していたのですが、時折、応援診療などに行っていたようです。昭和19年、応召になり、フイリッピン出発前に、父と兄、私が挨拶に行った時の事を憶えておられて「その時の下の方」と電話の時に話されていました。
ですから是非一度面談出来たらというのが私の望みでした。
漠然と石垣や川の様なイメージが脳裏にあるのはその時の記憶だろうかと思います。
それは叶えられました。昭和10年頃に「五井病院」に居られたとすれば九十才位になっておられるかと思っていましたが、時期にずれがあり、今八十才と言われました。「五井病院」閉院後はY総合病院に七十才まで勤務し看護に努められました。
しばらくお話をしていて「当時、五井病院で、私より先輩だった方が健在で居られるので、あなたのお父さんを知っておられるかも知れない」と電話をして下さり「近くだから行きましょうか」と案内して下さいました。八十七才だと言われるその方は「お父さんを憶えています。丸い度の強そうなメガネをはめておられた」と当時の病院の方々の写真を見ながら、Mさんと「もっぱら空襲に備えて疎開準備の毎日だったね」と回顧談が続きました。私達家族の事まではご存じなかったようです。
とにかく、これで資料のみで曖昧だった私の人生の原点がはっきりしました。

その後、石取会館〜春日神社〜九華公園〜七里の渡し〜六華苑と歩き、街中、祭提灯の中を所々で祭車も見掛け、夕方からの祭列準備中の各町や屋台を見ましたが、汗だくになり「ゴンチキチ」は見る事無く帰りました。津島や名古屋市西区平野町の祭車石取囃子は見ており、桑名の祭車は以前に名古屋まつりにも来ていました。
以前行った時より、今回は祭りという事もあったのでしょうが街並みも綺麗になり歴史と風情を感じました。空襲と伊勢湾台風という未曾有の難事を乗り越えた誇りを感じました。
今度は下調べをした上で「六華苑」を初めとして観光コースに無い裏道歩き(既に発見有り)をしようかと思います。


写真とビデオ 7.26


年齢と共に、行動力を伴うビデオ撮影が長時間持続できないのではと思うようになったので、ビデオカメラに200万画素カメラ機能も有るので、大容量SDカードを装着、写真撮影をやってみました。
ビデオ撮影の静止画よりは遥かに鮮明で拡大も充分です。しかし、動画を永年やって来た者には不満です。音も出ないし動きもありません。やはりやめる事にしました。
写真がビデオに劣るという事ではありません。写真には一瞬の機会を逃さない鋭い感性と気迫が必要です。その為でしょう。被写体に出来る限り接近して細かい描写をしたい気持ちは解ります。
最近は高齢者のカメラマンが増えました。リョックを背負い、大型三脚持参の重装備で、しかも団体で被写体を取り囲みます。前後左右周囲への気配りは感じられません。
写真が世に現れてより、愛好者の団体がカメラ店やメーカーの後援で撮影会なるものを行うようになりました。撮影技術もさることながら高級カメラの自慢が優先する傾向があります。
プロ並みの機種自慢も行き過ぎの感があります。
盗撮が問題になるほどズームレンズが普及したのに、何故ああも接近しなければ撮影出来ないのかと思います。特に撮影許可を得て撮影するプロは別としても、アマチュアが独りよがりで周囲への気遣いもなく我が物顔に振る舞うのは如何かと思います。

他人様の事を批判する以上、私も周囲への気配りは絶えず注意を払っています。
幸か不幸か、私のビデオカメラは視界が狭いので接近するとアップばかりになって全体の情景が撮影出来ないという問題があります。前のカメラでは安価で入手したワイドレンズが使えたので接近しても広い範囲が撮影出来ました。但し画面が湾曲するという副作用があります。今は広角レンズを持っていないので、止む無くある程度の距離を置かなければならず、観衆の皆さんの後ろからの撮影か歩道があればそこからの撮影になります。それでも被写体が入りきらない場合は、パン、或いは被写体が移動して行くのを撮影する事になります。その点ではあまり他人様には迷惑を掛けていないとは思います。必要あればズームでアップは出来ますから充分だと思います。
その為、いわゆるカメラ目線が全く無い画面ばかりです。被写体が全然気付かないのですから悪く言えば盗撮と言われても仕方ありません。但し、私の場合は、お祭りや公開行事での撮影で、禁止のアナウンスがある所では誤解されないようバッグに仕舞います。それは当然のエチケットです。
私の場合はあくまで客観的な視点で記録しますから特定の対象は決めません。アナウンスもインタビューもしません。
その余裕も無いし、後から編集でナレーションも可能ですが、これは撮影以上に大変難しいです。
お祭りなどのイベントのように音も動きもあるものは必要無いのでタイトルスーパーだけで済むので幸いです。
私は、原則として、一つの行事に五年は行かないと全体(当日だけでも)が把握出来ないので、あちこちへ行く余裕はありません。名古屋周辺だけでもまだ不足です。当日前後の様子も知りたいのですがもう不可能です。
一時は衰退したと言われた名古屋の祭りですがここ数年復活の機運が大いに盛り上がって来ました。
一層の発展を眺め続けたいと切望しています。


輝いた「那古野祭」


十五、十六の二日間、唐子車の出迎えから山車蔵収めまでの試楽宵祭までと十六日の御輿渡御・還御までお供出来ました。有難う御座いました。
少し時間を掛けて丁寧にご紹介出来ればと思います。


輝け「那古野祭」 7.10

私が「那古野祭」の現状について神社を訪ねたのは平成十二年でした。
それから、今年で八年目になります。
その年は、諸般の事情とかで「御輿渡御」は中断していて、翌十三年も中止。
拝殿の中の御輿と社務所の子供御輿、写真で想像するのみでした。
十四年、三年振りに「中御輿」が、若宮様へ渡御、初めて勇姿が拝見出来ました。
十五年、「大御輿」を、若宮様で見た時には、前年の様子から「えっ!」と目を疑いました。
復路を、お供しましたが、担ぎ手八十五人とかで余裕が無く、かなり厳しい様子でした。
その数年は、梅雨明けに、35度を超える猛暑が続きました。
十六年は、あまりの暑さに出掛ける気力を失い行きそびれました。現永田組頭さんにビデオを戴き拝見しましたが、先代組頭さんの「役納め」と「河文さん」の、先代女将さんの最後の見送りが印象的でした。お孫さんの「鈴祓い」や、「御輿送迎」の姿を今は見られなくなった事は誠に残念です。
十七年は、「境内笹提灯」の点灯と「二福神車」の、お囃子奉納が実現しました。
「本祭」は、大御輿渡御の往復にお供しました。あ、お供というのはビデオ撮影での事です。担ぎ手ではありませんので・・・。
この年は「河文さん」玄関付けが無く寂しい思いでした。
昨十八年、遂に念願の大中二基の「御輿渡御」と「二福神車」の見舞い奉納と町内曳行という夢が実現、その姿を目の当たりにすることが出来ました。
更に、更に、本年は「広井」の三車が試樂祭に奉納参加という、百三十五年振りという幻ではないかと思える便り。
「試樂」から「御輿還御」まで、お供出来るかどうかわかりませんが邪魔にならないように快挙が記録出来れば幸いと思います。
私の年齢では、次の事は考えず、今出来る事で僅かながらも、祖の地へご奉公できればと願っています。
初め、訪ねた時には想像も出来なかった行事の発展への努力と、熱意に燃える皆様の心意気に感服するばかりです。
来る日が好日である事を心から念じます。


盆踊り考 7.6

盆踊りのシーズンになりました。各地、各所で行われます。
中部地方で有名なのは、ご存知「郡上八幡」ですが、隣接の「白鳥」では、楽器を使わず唄だけで踊る「拝殿踊り」があります。これは「野添神社」の拝殿の天井に切子灯篭を下げ、拝殿の床板に下駄を鳴らして踊ります。「盆踊り」の原点の姿と言われます。
八幡と共通の曲名もあります。説明は既にご紹介していますのでそちらをご覧下さい。
ところで都会には、これという盆踊りがありません。
まず「東京音頭」はというと、これは昭和七年に「丸の内音頭」として発表されましたが普及せず、翌八年「東京音頭」に改編、爆発的に大流行、盆踊りでも、東京定番化、現在はヤクルトスワローズの応援歌となりました。
といっても、これは本来の「お盆」の先祖供養のものとは違ったものです。
大阪も有りません。「河内音頭」は、近くではありますが違います。
名古屋はどうかというとこれも有りません。名古屋のみならず尾張部にも、これといった盆踊り唄も踊りも有りません。三河には「足助綾渡踊り」が有名ですが、これは純粋に先祖供養の盆踊りです。盆踊り曲が全く無いのかというと、そうでもないので、各地で「盆踊り大会」が行われるのですが、殆どが昭和生まれで、文明開化と産業の発展による好景気の時に、新民謡として、西条八十、中山晋平、北原白秋、野口雨情などが日本全国を旅しながら土地の風俗、風景などを描写、調子の良い囃子ことばをつけて多くの作品を残しました。残念ながら太平洋戦争の断絶により一部は復活しましたが、戦後の生活環境の変化もあり埋もれてしまったものがかなりあります。
一宮には「はっちゃえ節」「イットショ節」がありますが、これも「一宮の唄・歌」でご紹介しました。
さすが素晴らしい描写力だと思います。短い逗留で作ったと思いますが情緒も風情もよく感じられます。戦後すぐの盆踊りブームの時は、よく踊られましたが今は殆どの人が知らないと言います。惜しい事だと思います。
さて、名古屋に「盆踊り」が無いのは何故か。
名古屋には戦後の盆踊りブームに発生、創立された「日本民踊研究会」という名立たる巨大な団体が存在します。これは島田豊年さんという初代が盆踊り愛好者を組織化、地域の婦人会や老人会、公民館などの愛好者が集い巨大な組織に発展しました。名古屋「広小路まつり」には大パレードが行われるのは周知の通りです。
私も、八年程、「一宮民踊クラブ」に籍を置き「民踊まつり」には、一宮・名古屋の市民会館で出演しました。
名古屋の盆踊りですが、戦前のものは聞きません。戦後「名古屋ばやし」とか「広小路音頭」などが出ましたが、今は「名古屋ばやし」が残っているくらいのようです。
ですから、この辺りの盆踊りは郡上の「かわさき」「春駒」と「炭坑節」が入り、他は前述の「民踊研究会」が毎年発表する新曲が入るようですが、際物が多く「万博音頭」などはもうやらないと思います。
そういう事で本来の夏の夜の情緒は失われ、本当の盆踊りは八幡や白鳥の現地へ行かなければ感じられなくなったのは残念な事です。
 都会(昔は城下町)に庶民文化が殆ど見られないのは、財力に恵まれ、教養として、謡曲・長唄・少しくだけて、常磐津・清元、女性は、舞踊・琴・三味線などの稽古事を身に付けることが多かったのです。ご城下の旦那衆は師匠について習い事に励み強力なスポンサーでもありました。私も、少しお稽古をしましたが、稽古の厳しさも、それに伴う費用も半端でなく、桁が違います。一桁ではなく、もう一桁上です。
一時期、多く居た芸者衆も芸事の習得に励みました。その中から「名古屋甚句」も生まれました。

一方、地方の農家などの暮らしは、厳しく、貧しく、寒暖の気候や、苦しさを紛らす仕事唄や、心を慰める説教唄などの娯楽として、仲間が集い手軽に楽しめる盆踊りに癒しを求めたのでしょう。郡上の唄に「農民一揆」の物語(口説き)が延々と語られるのは先人を慰める供養の踊りなのです。
恵まれた地域に盆踊りが無く、地方に「盆踊り」が盛んなのは、そういった生活背景があるのだと思います。


豊橋三題 6.20

名鉄電車フリー乗車券の期限が今月末だったので豊橋まで行ってきました。
第一の目的は「豊橋市公会堂」です。その訳は「NHKTVドラマ二本の桜」のロケがここで行われたからです。これについては既に当HPで紹介しています。公会堂についても「豊橋市の近代建築」にリンクさせて頂いていますので、ご覧下さい。すぐ近くの「聖ハリスト教会」も訪ねました。
「豊橋市公会堂」は、国道1号に面し、市役所、豊橋公園(吉田城址)、美術博物館、「聖ハリスト教会」が隣接します。ハリスト教会は国道1号の一本北ですから鐘楼の尖端が見えます。
ドラマ「二本の桜」は、平成四年の文化庁芸術祭作品賞受賞です。
当時βで録画したものをSVHSに変換保存しています。三時間の長編です。私はNHK名古屋の「ながらえば」と共に傑作だと思います。ドキュメンタリーでは「北陸東海桜紀行もう一つの旅」が私の心を揺さぶりました。
「桜紀行(昭和五十九年五月年放送)」と「二本の桜(平成四年放送)」は、荘川桜を軸に構成され
ています。
「二本の桜」に登場した「豊橋市公会堂」は一度見てみたいと思いつつ果たしていなかったので今回出掛けました。画像と共にコーナーを今から作ります。見学をお願いし、快く屋上まで案内して頂いた事を感謝します。
なお、最近では「早咲きの花(浅丘ルリ子主演)」の大々的な撮影が一週間に亙ってここで行われました。太平洋戦争末期の豊川工廠爆撃の幼時体験回想の映画で劇場公開され、間もなくDVD発売という事です。
全く違うジャンルの映画では「陽気なギャングが地球を回す」という佐藤浩市などの出演で銀行の建物と見なして撮影があったと案内の方が話して下さいました。
懐かしかったのは数十年振りに見た市電です。岐阜の路面電車には感じなかったロマンを感じました。
インターネットの検索サイトは非常に強力になっています。興味の深い方は色々ご覧になると宜しいでしょう。
残念ながら個人のインターネットでは「動画」を紹介するには不十分ですから詳しくお伝えする事が出来ません。現在ではこれが伝達の限界です。


オペラ座の弁慶 6.10

NHKプライム10で「オペラ座の弁慶」が放映されました。
パリオペラ座(ガルニエ)での、市川団十郎丈の公演の初期準備段階から公演後の想いまでのドキュメントです。
歌舞伎公演は中継などで、日本の劇場での完成されたものは見る事が出来ますが、パリオペラ座という全く違った舞台構成では通用しない制約があります。だからといって、単に省略したものを披露する事は出来ません。
放送では「勧進帳」を重点に、バレエの為に作られた傾斜のある床面や、舞台と客席を隔てるオーケストラボックス、歌舞伎には欠かせない、花道、生音の反響など、多くを団十郎さんがチェックしました。歴史的建物の中での日本歌舞伎という観点から、歌舞伎では幕が使われる「松羽目」を反響を考慮して板にし、絵柄も現代の鮮やかな「緑青(ろくしょう)」ではなく、明治時代の薄暗い舞台をイメージして水墨を下地に老松を描くなど、海老蔵さんの直感的な意見も取り入れ、現場で何度も修正を加えました。
「地方(演奏)」も、長唄、三味線、囃子方の人数が少ないので強弱のメリハリをはっきりするなど、稽古の様子が詳しく描かれていました。
花道などの事は前文「パリオペラ座公演」で書きましたから省略します。
芸能公演については、あまり稽古練習の様子は公開されませんから一般の方は知る機会がありませんが本当に涙ぐましい努力がなされます。素人の場合は一回限りですから大変です。批評は「上手、下手」と簡単に片付けられますが、この心境は経験しなければ分かりません。
海老蔵さんは「満足していない」と語りましたが当然でしょう。体力と気迫だけでは表現出来ない重厚な風格への追求は遥かな道程です。
日本の古典芸能の伝承普及の為にも、こういう努力の様子を伝えて頂きたいと思います。
「門外不出」とか「口伝秘伝」にしていたのでは衰退してしまいます。
欧米文化に食い荒らされないよう日本文化の奮起を願います。

徳川園山車揃え 6.3

昨日は「徳川園山車揃え」を見に行きました。
今年は「徳川園」新装開園を機に始められてから三年目になります。
第一回は「筒井町神皇車」を含めた五輌による文字通り、東区「山車総揃え」という豪華なもので絶好の快晴という好条件にも恵まれ、さほど広くはない会場広場は見物衆で溢れました。八千人という報道でした。
昨年、今年と「神皇車」が、何かの事情で参加されません。
「五輌総揃え」を拝見した人は、私も含めて物足りない感じは否めません。「何故、一輌来ないの」という声はかなり聞こえます。昨年はあまり感じませんでしたが今年は見物衆が少なかったと思います。第一回のような熱気を感じませんでした。
第一回の時、某保存会の方に「これは一回限りの行事ですか」と聞きましたが「五輌の山車一回りはやりますよ」との答えでした。出来町山車三輌が今年で先頭役を終わりました。順番から行けば来年は「神皇車」になります。
来年は、是非参加して頂いて見事な先頭役を見せて頂きたいと切に願っています。
那古野神社氏子のKさんとお話しましたが「何か徳川様から記念に形のある印を頂けると良いのにね」と言われました。
今は、お酒とご祝儀を頂いておられるようですが「提灯とかもね」と・・。私は「頂けるなら、三つ葉葵の「高張り提灯」だと、お祭りに披露出来て良いですが」と・・。
「中之切」は既に、許し紋として「三つ葉葵」でしたか。広井の「紅葉狩車」もそうでした。
「徳川家拝領印提灯」有っても良いと思います。とにかく始めた以上プラス要素を加えて益々の盛り上がりを期待しています。
さて、五日は久し振りに「熱田祭り(尚武祭)」に行き「熱田神楽」を拝聴してきます。
消滅している「一宮桃花祭」の車楽のお囃子(児の舞・獅子の曲・太鼓の曲と伝えられる。所作共不明)同じように、絶えている「那古野祭」の「壇尻車」の、扇獅子の、お囃子の手懸りを掴めないかと思います。


JOCKはどこに  5.13

古い話ばかりで恐縮ですが名古屋城郭内に有ったJOCKを訪ねた事がありました。
昭和二十五年(1950)ですから五十七年前です。当HPに有ります「恩師T先生」の怪我静養中の下宿先であった名古屋城東の土居下(柳原町)へお見舞に伺った時の帰途です。
行きは、多分、名古屋駅から市電(昭和49.3.31廃止)で「景雲橋」迄行き、そこから瀬戸電(昭和51お堀線廃止)「堀川」から「本町-大津橋-土居下」へ。「土居下」で降り、訪ねて行きました。
その様子は「恩師T先生」に書きました。その帰りに名古屋城郭内を通り抜けました。空襲焼失で、お城無く石垣のみ、木造バラックのような「名大学生寮」が、今の「県体育館(その時はまだ無い)」の辺りに有ったように思います。城郭内は通り抜け自由でした。その中に「名古屋放送局JOCK」が有りスタジオ見学開放中で立ち寄りました。
昭和二十年五月十四日、名古屋城は空襲で一帯は焼失しCKも被災、予備演奏所から放送は継続されました。ここが、大正十四年七月十五日放送開始の地です。同年八月二十日、東京、大阪の両放送局が合同して「社団法人日本放送協会」となりNHKの母体となりました。
昭和二十九年三月一日、TV放送開始。三十年「名古屋放送会館」は、現在の東桜に建設され、平成三年「名古屋NHK放送センタービル」完成まで三十六年間「名古屋放送会館」から放送は発信されました。
さて、かっての城郭内に有ったJOCKの所在地は、今どの辺りになるのでしょう。NHK放送開始80年と言われますが、四十周年記念の「放送記念碑」が、モニュメントと放送略歴を記した石板が建っています。丸の内、「愛知県図書館」の北隣「丸の内中学校」の門傍に伏見通りに面して有ります。

現在、昭和四十四年開通の国道22号(当時はバイパス)伏見通りが、新御園橋から城郭内を大きくカーブして突き抜け幅下橋に到る有様は歩道橋から眺めると唖然とします。市電はもう廃止されていたのでしょうか。国指定の名古屋城史跡保存地域は「どの範囲なのだろう」と思います。本来の城郭図と現在の道路地図を較べると「よくまあズタズタにしたものだ」と思います。
明治維新により「名古屋城」は、姫路城と共に廃城と一旦は決まったのですが西南戦争での熊本城攻撃があり、国家保安の要有りとの判断で陸軍鎮台の要衝としての必要と、英大使の保存上申などで残された経緯が有ります。それに伴い「那古野神社」の茶屋町への移転もありました。本町御門の枡形取り壊しなど・・。
何といっても太平洋戦争空襲、昭和二十年五月十四日の名古屋城一帯の炎上が大きな悔恨です。
未だ復活の気配は感じられません。「東照宮祭」「片端壇尻車」が復活されても、かっての町の姿は蘇りません。
「現代社会」と「伝統文化」との融合共生を、どういう形で実現出来るのか、その辺りを歩く度に思いを巡らします。


パリ・オペラ座歌舞伎公演  5.8

三月二十三日から、パリ・オペラ座で五日間、市川団十郎、海老蔵、亀治郎などの皆さんによる歌舞伎公演が行われました。五月四日、NHK教育TVで、その模様が放映されましたので録画しゴールデンウイーク中は落ち着かなかったので、今日やっと全部見終わりました。
演目は「勧進帳」「口上」「紅葉狩」です。二十三日には、すぐニュースで伝えられました。
放送の一週間程前から、NHKや、民放で、団十郎さんが海老蔵襲名興行中の白血病発病、そして再発、骨髄移植の凄まじい闘病の様子などを語っておられましたが良く克服され、見事にオペラ座での大役を成功されました。
私の感想ですが、かなりの演出面での苦心が見られました。間口が想像と違って短い事。歌舞伎座の三分の二くらいと思います。長唄・三味線が十人です。歌舞伎座では十六人、或いは十八人が並びます。
それと団十郎さんの話では、オペラの舞台は奥から舞台先までがスロープになっているそうです。
歌舞伎は水平が基本ですから、その為に地方(演奏者)から前が、三段造りになりました。
これは特異な構成です。演出もさりながら、所作(演技)に神経を使わなければなりません。踊りや大きな所作事では足を踏み外したら大変です。「勧進帳」などは、大袴で足元が見えませんから見ている方がハラハラしました。
決定的なのが「花道」が無い事です。「勧進帳」の幕切れの見せ場「飛び六法」は、四つのパターンを考えられたそうです。団十郎さんは、上手いっぱいから左下手幕内へ飛び込む。海老蔵さんは中央から客席通路を通り抜け飛び込む。
五日の公演中、日替わりで、団十郎・海老蔵さんは、「弁慶・富樫」の入れ替わり配役でした。
客席通路は、幅90センチしか無く衣装や金剛杖がお客さんに当たっても、お構い無しとの劇場の了解があったとの事です。それにしても舞台上の、段を上がったり下りたりは心配でした。
花道が無いのは、相当歌舞伎のスケールを萎縮させるものだと痛感すると共に、歌舞伎の長年の伝統の積み重ねの成果の再発見を思い直しました。
私は二代目「松緑」の弁慶を超えたと思う役者さんはまだ見ていません。昭和五十年の「勧進帳」を大事に保存していますが、それを見直して比較して見ました。その時の「富樫」は現団十郎の海老蔵でした。「義経」は梅幸です。出演の殆どの方は今や故人ですが正に伝説の至芸だと思います。
歌舞伎の歴史に1ページを加えた事は素晴らしい事ですが矢張り「歌舞伎は歌舞伎の劇場で」と申し上げます。
お客さん丸ごと劇場気分になれるのは「歌舞伎」ですよ。
最近、ますます感じるのは、欧米文化とアジア文化とは全く起源から違う物だということです。イスラム文化もそうでしょう。
歴史の中では、違う民族が無理やり文化まで植民地化しようとしましたが結局拒絶されました。
それぞれの文化を認め合って共存する事が自然なのだと私は思います。自国の文化に誇りを持たず一時の風潮に振り回されない気概が欲しいと思います。
それには、自国の文化を良く学び身に着けて欲しいと、つくづく思うこの頃です。


花巡り 5.1

訂正です。下の文の徳源寺の花、桐です。桐の花がこういうものだとは知りませんでした。これを知ったのは「撞木倶楽部」のブログです。写真も掲載されています。
「撞木倶楽部」は名古屋市の管理になり一般公開されています。毎日ではありませんので確認して下さい。それにしても「桐の花は素晴らしい。


花巡り 4.30

二十六日、「徳川園」の牡丹を第一の目的として見に行きました。今の「徳川園」の立派なお庭が出来る以前に見に行った事はあります。現在の「蓬左文庫」の辺りが以前の牡丹園でした。
「東区の花」が、牡丹ですから矢張り見なければいけません。今回は家内と共に出掛けました。名古屋駅バスセンターから基幹バスで行きましたが、いつもはスカスカの状態が満員状態。「徳川園新出来」で殆どの人が降りました。平日でもあり高齢の人が多くでした。肝心の牡丹ですが全開でした。「チョッと遅かったかな」という感じでした。花びらが垂れかかっていました。週初め頃が良かっただろうと思います。
蕾は、日陰部分には有りましたが、花も蕾も有ると宜しいです。数百種類との事ですが花の王者と言われる豪華さです。芝居や彫刻にも多く用いられます。庭園の他の敷地内の花も総て観賞しました。
今の「徳川園」は、シャガ(射干)が咲き乱れています。エビネは終わっていました。
「蓬左文庫」にも立ち寄りました。受付案内の傍に販売書籍があり文化財叢書が並んでいました。その内の一巻に尾張年中行事絵抄が含まれ「一宮桃花祭礼図」が有りました。全十巻(各3000円)だったかと思いますが一冊買うと止め度がなくなるので購入は一思案です。
六月には「山車揃」で様相を一変する「徳川園」を後にして、あまり歩き慣れないお供が居るので「山口町」バス停へ。よく通る「徳源寺」ですが道路から境内を見ると二本の巨木の枝先に花房が一杯。
「あれっ、ライラックじゃないか」「ライラック」は、わが家にも有りますからどうも同じらしい、それにしても巨木であり臨済禅寺に洋木とは。これほどの大きな「ライラック」は見た事がなく、暫く呆気に取られて眺めていました。「ライラック」に違いないと思いますが間違っていたら御免なさい。これももうすぐ終わりです。今の内に・・。
市バス「市役所」で降りて名城公園の「藤の回廊」へ。東二之丸外から藤棚は北へ、西に曲がって広場をコの字に藤棚が連なります昨年は、何故か花付きが非常に悪かったのですが今年は順調です。今からドンドン房が下がってきます。満開になると下を通ると「雨か」と思うほど蜜が降ってきます。今からが見頃です。
お堀に沿って西へ。八重桜の並木が真っ盛りです。剪定が良く綺麗に漏斗型に咲いています。ツルッとした裸のような木が並んでいますが、これは「さるすべり(千日紅)」で、秋に濃い桃色の花が咲きます。
お堀の水面から風を感じながら「キャッスルホテル」前を南へ。能楽堂の西、幅下から円頓寺商店街へ。先週放送していた「発見わくわくMYTOWN(石原良純・夏川純・内藤剛志・)」の、レポをなぞって(川伊藤さん訪問は無理)西円頓寺へ。昨年夏、記録した、那古野の市バス車庫に有る「レンガ造りの長ーい防火壁」は、高層ビル建設の工事開始で戦時遺産消滅の気配濃厚です。「堀川探索隊」で沢井さんに教わった所です。すぐ傍の「桂芳院」の「愚痴聞き地蔵さん」に寄って、先に帰宅のお供とは名古屋駅で別れ、私はメールで情報を頂いた亀島の「名古屋市立則武保育園」へ。昭和十年開園で三月末で閉園、五月には取り壊しという事です。周辺は空襲からは免れているようです。保育園の建物は木造ですが屋根はスレートや洋瓦など何度も取り替えてあるようです。板張りの外壁はペンキを塗り重ねています。
市HPでは昭和二十四年開園となっていますが、それ以前は違う形での運営だった事も考えられます。
職員6名園児24名とありますから消滅状態だったのでしょう。文化財という姿ではありませんでした。地域の人達の愛着は深いのでしょうね。


今年の枝垂れ桜  4.13

「太平洋と日本海を結ぶ桜」の内、一宮裁判所前庭の「枝垂れ桜」は、ここ数年来、二又になっている一方の枯れが進み、昨年、切断の大手術が行われました。
今は、日差しが強くなる季節を前に紗幕で保護されています。
昨春は、枯れていない枝には花が一杯付いていましたが、今年はチラホラという程度で全体の樹勢が衰えている感じです。これから新芽の出方がどうなるか見守っています。今年の夏を乗り越えれば大丈夫とは思います。
各所の「枝垂れ桜」はどうなのだろうと、見て回った所、今年は、どこの「枝垂れ桜」も花付きが少なく例年のような見事さは無く既に新芽が出始めています。一旦暖かくなってから寒の戻りが強かったのが影響したのかとも思われます。十数年来見ていますがこういう事は今まで無かったと思います。
私が知る、名古屋から岐阜県境までに植えられた「佐藤桜」は、第一号の国鉄千種バス営業所の「ソメイヨシノ」は、高畑へ移植後枯死、二世が育っています。名古屋城内「八重桜」は御深井丸に、枇杷島小学校には「ソメイヨシノ」稲沢赤池の「八重桜」は、移植で大きく枯れましたが新芽復活1,50メートルになり成長が進んでいます。
一宮裁判所には「山桜」が「枝垂れ」に並んで元気です。木曽川には交番に有った「ソメイヨシノ」は交番建物新築で消滅、クラボウの塀沿い有った「ソメイヨシノ」は、跡地に開業した「イオンダイヤモンドシテイ」の駐車場内緑地域に移植定着、今年は多くの花を開きました。
私が知る事になった二十五年前以来、環境は変わって行きますが是非生き続けて欲しいと願います。


桃花祭再考 4.4

真清田神社(一宮市)の桃花祭については、当HPに掲載していますが、氏子町内の馬の塔(駄志馬)の参加が減少の一途で、今年は飾り馬五頭と飾り馬具搭載車両三台でした。
平日という事が大きな理由ですがこれは真清田神社が伝統を尊重され変えない方針である限り止む無い状態で、現代のサラリーマン社会では良い思案も浮かびません。
これはこれとして、五年程前に、空襲を免れ蔵に保管されていた「車楽」の「西車」が五十五年振りに復元されました。
毎年、少しずつ飾り調度などを整え、外観は大体整ったので、かっての行事(扇獅子・稚児・お囃子)の復活という事になりますが、何しろ昭和十九年(1944)以来六十三年を経過し、世代を大きく経過し体験者が皆無との事です。
既に書いていますが「東西祭車」には支中があり「東車」百二十八戸、「西車」六十五戸の方が携わっています。
私は、何れにも携わりはありませんが、所属町内の殿町一丁目が、祭りの殿り役、押さえ馬と若殿行列奴踊りという特別役になっていて、如何なる事情があろうとも、「押さえ馬」だけは納めなければ祭り終了の太鼓が鳴らないという義務があります。
これも、既に記載しましたが「若殿行列奴・踊り」は、平成四・五年(1992・3)に五十年振りに復活しました。残念ながら再び中断し、平成五年、六年の二回、若殿・子供奴・露払いの四人だけで行いましたがそれも中断、現在は年行司と子供によって「押さえ馬」の奉納をしています。
奴踊り復活には、昭和十九年、十八才の時の経験者、永井さんが五十年前の体験を披露、文字通り手取り足取りで指導、復活が実現しました。まさに消滅寸前に再現、稽古から本番までビデオ撮影、最近DVD三枚に保存しました。いずれ再開の機会があれば活用されると思います。
さて、「西車支中」には、かねてから知人があり、二年前に西車組み上げをビデオ撮影させて頂きました。尾張各地での山車組み上げは「空木建」といい、町内衆総掛かりで行われますが「西車」は建築業の方に依頼されます。朝から三時頃まで重機も使って行います。飾り付けは四月一日に支中の方がされます。
今年は飾り付けを拝見し、中心になっておられる方に所有の資料をお見せして色々訊ねました。
結局、今後は「車楽」で行われていた、かっての所作事をどう復活させるかという事ですが、現在そういう行事が行われている祭礼を検索するという事になり、春日井の内津の「内々神社」の、扇獅子・稚児行事が如何なるものかを知る手段という事で、三日の本祭に、もしかしたら「郷土誌かすがい」に、そのレポートを書かれた民俗芸能研究家の鬼頭秀明さんが来られたら話が聞けるかもしれないと期待をしました。
(つづく)


DV(IEEE1394)が・・・。 3.25

最近のパソコンにはDV端子が有りません。USB2.0の普及で汎用利便性からIEEE1394の単機能が標準設定から外されたと思います。ですからDVカメラからパソコンに取り込むにはIEEE1394カードを装着しなければなりません。これは¥2.000位で購入できます。TVやビデオもパソコンで見たい場合はビデオキャプチャーカードが要ります。これは¥10.000以上は必要です。
DV端子が消えたのはパソコンだけではありません。DVDレコーダーもDV入力端子の無いのが最近の傾向で注意が必要です。
危うくなって来たのは、ビデオカメラのDVテープ仕様が店頭から消えかかっている事です。店頭ではダンピング気味。過去にβの苦い経験もあり、Hi8が僅かに1機種が生き残っているだけ、テープ機種¥30.000なら保険で買っておくかとも思いますが考える所です。DVDは録画時間と出し入れの問題があり故障が怖い。HDD仕様・ハイビジョン・SDカード仕様も出て来たのですが、記録方式も圧縮方法が様々で標準化されていないので互換性には大いに注意が必要です。
何れにせよ、テープやDVD方式はメディアの個別化は可能な代りに、出し入れのメカニックがカメラ本体の故障の最大の原因です。私の過去のカメラは全てこれでお釈迦になりました。不調な機種によるテープ損傷で貴重な記録が失われました。テープ保存は過去にもあった機種消滅の危険があり現状ではDVDへのバックアップが取り敢えずの手段と思われコンバート作業を続けています。
これからはHDDハイビジョン仕様への方向と思いますが、DVDレコーダーと同じく、録画したデータの整理・外部メディアへの保存という事でパソコン連動作業が必須となります。TVのデジタル放送移行に伴いコンピュータ・画像機器・多機能表示可能な大型TVなど目まぐるしく変わって行きます。
一方ではDVDレコーダーの売れ行きが止まっているというニュース。使い方が理解出来ないという入り口でのつまづき。
多くのハードは持っているが使っていない、或いは、使い方が理解出来ないという様子を見ます。各種教室は結構授業料が高くハードの購入金額を忽ち追い越してしまい挫折となります。
TV局や各種情報メディアからの情報の受身でも良かったのですが、捏造や隠蔽、悪質な勧誘など油断の出来ない情報も多いので正しい判断の出来る知識も必要になります。
携帯電話は持っていますが全くというほど使いません。面倒で高コスト、面倒臭くて使う気になりません。


釣狐 3.1

平成十六年に録画した、野村万作師の「釣狐」を、Hi8-DV-DVDと転送しています。
「釣狐」は、昨年、子息の野村萬斎師が全国公演を続けられました。
野村万作師が還暦を過ぎて、二十五才から挑み続けた「釣狐」の最後の連続公演をされました。
国立能楽堂公演放送前に「NHKスペシャル「ドキュメンタリー「野村万作最後の「狐」に挑戦」が放送されました。いずれも録画してありました。NHKスペシャルはVHSで有ったのですが、本編の「釣狐」が不明で探したところ、HIi8録画で見付かったので故障の無いうちに保存する事にしました。
野村万作師は、徳川園新装開園時に水上ステージで「三番叟」を上演されました。それも一部ノイズはありますが保存しました。
こういう作品は奥が深く理解力が身に付かないとなかなか消化出来ません。時間を置いては見直していますが、その度に理解が少しずつ深まって行きます。なかなか深層には達せませんが酌めども尽きぬ世界です。
「三番叟」は、邦楽の世界では非常にバリエーションが広く、能楽では狂言師によって行われますが、舞踊では、長唄・清元・義太夫等々、表現は多種多様、お祭りのお囃子でもお馴染みです。
一宮の「桃花祭」では、鳥居前の東西に「車楽」を飾ります。本来は町中を曳行したと言われますが今は動きません。かっては、お囃子を奏し「扇獅子」の舞などが行われたと内藤東甫が画に残しています。
「扇獅子」は、日本舞踊では踊られますが、祭礼では、春日井の「内々神社」に有ると鬼頭秀明さんがレポートされています。「桃花祭」と共通するかはわかりませんが、その気があれば伝統行事の復活は不可能ではないと思います。
日本本来の文化が衰退し、欧米文化に侵食され、食・生態・文化まで植民地化されないよう注意しなければ伝統文化の継承は危ういと心配しています。


祭再考 2.20

「名古屋祭」など、戦争による被災山車焼失や、少子高齢化、都市計画、防災工事など、社会構造の変化により伝統行事の継続が難しくなっています。
太平洋戦争の空襲被害は、明治維新の、藩社領廃止などの荒波にも耐えた町の気力を徹底的に打ちのめしたと思います。戦後六十二年、尾張開府名古屋城築城四百年を三年後に控えてていますが、未だ、かっての姿の復興の兆しは見られません。
そこで、私なりに復活はもう出来ないのだろうかと、江戸時代「東照宮祭」が、藩祖義直公によって家康公没後三年目に始められてからの歴史を乏しい蔵書をめくって調べ始めました。かなり文章は書いたのですが、ふと、最近話題が大きくなっている「Google」の検索機能ではどれほどの情報が得られるのだろうと検索をしてみました。単純検索でも、かなりの情報は得られますが、ORを加えるだけでも、かなり深い情報が得られます。その道の専門家、趣味の深い人、思い入れの深い人など。
私は両親が、長者町、南外堀町という至近で育ったという思い入れがあります。検索では、かなり多くの情報や関係書籍の存在入手の手段がわかります。多くのHPによる、歴史探索や体験談(名古屋城炎上など。)
私は、名古屋祭「東照宮・若宮・天王(那古野)」だけでも奥が深いので、それに絞っています。
検索には「Google」「MSN」「Yahoo」などあります。辞書・地図など、それぞれ、かなり多機能です。
私は七十才を過ぎましたが節目が二度有りました。消えて行った人や建物や品々。新しい世代、建築物、等々。生涯のうちに、一度ならず再度大きく変わり行く街並み。
昔のままの原型復活を望むのは難題では無いかと思います。考察すると判る過去の劣悪な環境は現代社会の人には受け入れられません。
現存する、有形無形の文化財も消滅止む無しというものと、公費・私費・寄付(金品労力等)による修復保存に分離されますが、多くを保存する事は諦めざるを得ません。
消滅したものは再び復活は出来ないので復刻復元という形になります。この形は「奈良薬師寺」が大きな例で猛火を浴びた黒光りの「薬師三尊」は国宝ですが西塔の他は復刻復元です。
般若心経写経勧進による大きな寄進により天平の姿を再現しました。
文化財としての価値云々より、その姿は人々に感動を与えました。こういう考えや形もありますから全く不可能と諦めてはいけません。
「揚輝荘」と「撞木館」の修復保存公開の報が伝えられました。
現代にあっても、心が一つになれば実現は可能です。行政を含む体制と住民意識が合致した時にそれは大きな盛り上りになるのでないかと、その日を待ち望んでいます。


自作ビデオ 2.9

私の「ビデオライブラリー」は、かなりの量だという事は、今までにも、お話していますが整理する事は出来ないだろうと一旦諦める事にする事も一つの解決ではないかと思う事にしました。
TVで放送された歴史番組や芸能が多くですが必要を感じた時にピックアップする事にします。
ただ、経過年数が長く保存環境は良いとは言えないので再生不良も発生します。
一例は、市川新之助(現海老蔵)の、「勧進帳」弁慶初演、義経(菊之助)富樫(辰之助(現松緑))という十代の三之助が、お正月「浅草公会堂」初日のSVHSビデオの75分、始めから30分位音が出ません。
「ライブラリー」は、β2・VHS。ビデオカメラ撮影自作は、Hi8,DV(LP/SP)。
これも、かなりの量です。重要なものはDVD化しましたが、まだ相当有ります。自己満足自己完結で良しと思えばそれでも良いのですがどうもスッキリしません。これもピックアップして整理を始めました。
今、着手しているのは名古屋能楽堂で開催された、玄関前広場と能舞台での二度の「山車囃子実演会」。
「白鳥踊り」(現地徹夜踊り・一宮七夕特設舞台(三回))の編集DVD化。
まだまだ、沢山未編集ビデオが有りますが、自分では、その時の集中した気持ちが蘇るひと時でもあり、その時、そこに居たという証でもあるます。
最近、心を動かされるのは、七十代の映画監督。殊にクリントイーストウッドの「硫黄島二部作」です。マカロニウエスタン「用心棒シリーズ」。ダーティハリーシリーズでヒーロー俳優で完結したのかと思っていたら監督としての才能溢れる活躍。
日本では「寅さんシリーズ」終了後の山田洋次監督の時代劇三部作の快挙。
アマチュアのビデオ取材などは取るに足りませんが素晴らしい機会に接した時には精神は大いに高揚します。その感動を再体験させてくれるビデオは有り難いメディアだと再確認しています。
今の作業が一応終了したら、又感動を求めて出掛ける事にします。


人生延長戦 2.3

今日、二月三日は私の誕生日です。
お釈迦様は「われ誕生の日は母苦難の日」と言われたと、薬師寺前管主・高田好胤さんの説法で伺いました。私の出生の様子を聞く機会は両親の早世でありませんでした。ただ、毎年思うのは、年の内一番寒い時だったという事です。事実、この時期、よく雪が降ります。
この日は「節分」で、翌日は「立春」、暦では春なのですが「春は名のみの風の寒さよ」という表現は正にその通りです。冬に弱い私には辛い時期です。
それでも、七十一才に達しました。自分では七十才でゲームセットの予定で、そのように保険なども設定したのですが、幸か不幸か通過してしまいました。なかなか人生計画通りには行きません。苦笑するばかりです。人生延長戦に入りましたが、何時まで続いて、再試合になるのかどうか全く分からなくなりました。
偶然と言うか、たまたまと言うか、色々な符合が有ります。
「名古屋東山動植物園」の開園が今年七十周年、「名古屋観光ホテル」の前を通り掛かったら開業七十周年と掲示されていました。「先代名古屋駅完成」が、同じく七十年ですが、こちらは六十五年で、その使命を終わりました。「東山動植物園」は、今年から十年計画で大幅なリニューアルが進められる予定です。
私も、一応、過去の記録や資料を纏めようと、昨年、機会を失しないようにと思い、名古屋の祭りの十年程前からのビデオをDVD化したものを、「筒井・柳橋」の方にお渡ししました。
「那古野神社祭礼」は、昨年、大・中・子供の神輿が揃って登場、「柳橋花車二福神車」の百三十年振りの見舞車参加という快挙が実現し、目の当たりに見られるという幸運に巡り合えました。誠に幸運であったと思っています。
昨年末からパソコン故障となり「WinVista」登場もあり、新機種調達まで、暫く時間が得られたので色々考察する機会となりました。
「名古屋三大祭(東照宮祭・若宮祭・那古野)」は、明治維新による徳川藩消滅という大事を経た後、太平洋戦争による空襲での壊滅で無残な形になってしまいました。
それでも昔には及ばなくても消滅はしていません。多くの山車や祭道具は灰燼に帰し今は存在しません。「復活」という言葉は使えませんから「復刻」という形でしか再現は出来ないでしょう。それでも実現可能かどうか、町並みの変化、居住人口の現状など諸資料を調べています。
これは、かなり長文になるので別のコーナーを作ります。
私の知らない情報が有りましたらお知らせ頂ければ有り難いです。


Vista 1.26

「Vista」への対応は完了しました。
たまたま、昨年末にパソコンが故障。このパソコンは自作で、CPUが「Athlon」で「Win2000」以前から使っていました。「XP」登場から6年振りの「Vista」登場という事ですから6年以上は使っていた事になります。「Athlon」の前は「Dulon」でした。
何故「AMD」だったかという理由は単純です。「Intel」より、かなり安かったからです。AMDショップの「Intel」より廉価で、しかも性能は高いという評価を納得した上での選択です。高熱発生という事は知っていましたがこれは本当でした。「Dulon」はピシッという音と共に焼き鳥になり昇天。
「Athlon」の故障も高熱によると思います。冬はまだしも、夏はケースの蓋を開け側面から扇風機の風を吹き付けてバテ防止をしていましたが扇風機を忘れると、酸っぱいような臭気が発生、コンデンサーが溶けたと思います。開けっ放しによる埃のショートも考えられます。
遂に、ブルー画面でハードエラーの警告。CPUは、まだ生きていると思いますが、200Gのハードディスクと512Mメモリーが連鎖破壊したようです。
6年以上の間にパーツは大きく変わりました。メモリーはDDRからDDR2へ、ハードディスクはSirialにCPUはDual2Coreに。まだまだ進化は続きます。さほど人間は進化しているとは思えませんが・・。
熱暴走の最大の原因はビデオ編集だと思います。過労死でしょう。随分働いてくれました。焦熱地獄で昇天してしまった累代パソコンと同じ事は、累代ビデオカメラにも言えます。
酷使しましたが、親族・祭関係者・ウルトラマラソン関係者の皆さんには100%以上のパワーと感動を伝える事が出来ました。七色の虹の煙となって天国へ昇天したと思います。本当にご苦労様でした。有難う。極楽往生して下さい。
今手元にあるのは「Vista・Aero」に対応出来る機種です。これは自作ではありません。パソコンシヨップのBTO品で「VistaPremiumu」アップグレード対象なので1月30日発売後、適時アップグレードする事になります。
パソコンに限らず、家電品なども高性能になりますが使いこなせないのが実情です。皆さん随分高価な機械を持っておられますがどう使いこなされているのでしょうか。
この所、「やらせ」「偽装」「過剰」など真実を偽ってまでして利益を求める情報が溢れます。
CMも一応疑ってかからなければ騙される事を知らなければならない事になります。
個人の場合も、いい加減な情報を流すことは大きな害を齎す事になります。心掛けなければいけないと痛感します。


お正月芝居 1.16

大晦日の「京都顔見世興行(中村勘三郎襲名興行打ち上げ)」放送から始まって「新春檜舞台」一・二日、各二時間。
二日「こいつぁ春から」三時間と、たっぷり伝統芸能邦楽番組を録画。
「どんど焼き」で、お正月飾りの炎上と共に、お正月行事の終わりに並行してTVでの芝居見物も終了しました。
DVDレコーダーでの再生はテープ再生より遥かに便利で、じっくり鑑賞出来ました。
昨年までは、ずっとSVHSで保存してありますが、なかなか再見する事が出来ません。
歌舞伎中継は殆ど教育TV「芸術劇場」で二ヶ月に一度位。舞踊や名人の回想などは「芸能花舞台」で見る事が出来ます。
名古屋での歌舞伎公演は御園座の「陽春歌舞伎」「顔見世興行」の二ヶ月と、中日劇場の「スーパー歌舞伎」その他は厚生年金ホールなどで単発興行が有ります。
お正月は、歌舞伎役者の皆さんも在宅を望まれる事もあり、東京・大阪の興行に集中されます。
東京は「歌舞伎座」「国立劇場」「浅草公会堂」の三座で華やかな寿興行。掛け持ち出演する役者さんもあります。賑やかな事で名古屋人は垂涎するのみです。
大阪は「松竹座」で、団十郎・藤十郎の歌舞伎史上初めての舞台共演。
演目は、これまた絶好の「勧進帳」団十郎の弁慶、藤十郎の義経に海老蔵が富樫と、当世、これ以上は望めない配役。私には、松緑・梅幸の「勧進帳」が至宝ですが闘病生活からの復帰の団十郎の弁慶には悲壮感が漲っていました。海老蔵襲名興行での、団十郎・海老蔵共演という史上記念すべき上演半ばで休演という事がありました。一時復活はあり「醍醐寺歌舞伎」での「声明」に続いて上演された「勧進帳」(団十郎・海老蔵・時蔵)は録画してあります。
今回は、今までとは顔付きから違っていたと思います。出演直後、ロビーでの団十郎・藤十郎へのインタビューがありましたが、骨髄移植も受けられており、病院での隔離闘病の様子は団十郎HPで伝えられていました。三月にはパリオペラ座出演があります。まずは二十六日千秋楽まで勤め上げられる事を願っています。
歌舞伎興行の情報は「松竹」のHPから知る事が出来ます。「国立劇場」はそのHPから知る事が出来ます。
上半期の興行・配役も判ります。「エッ」と思われる配役も見られ面白いものです。
名古屋での興行は少ないのですが、東京・京都・大阪と真中に位置する地の利はあり余裕のある歌舞伎フアンは東西どちらも可とは言えます。宗春時代の「享元絵巻」は、まさに東西役者が名古屋に集結した時代でした。
歌舞伎役者の世代交代は著しく、ここ数年続いた大名題の襲名興行は一応完結し、それを見届けたかのように松竹永山会長は亡くなられました。
昨年は、色々な事が区切りを付けた年だったと思います。

こいつぁ春から  1.6

何年か前からNHK教育TVで、二日には、東京・大阪を結び、お正月歌舞伎興行初日の生中継が三時間放送されます。この機会に演目初演する役者さんがあります。海老蔵の「勧進帳」弁慶もそうでした。
このタイトルが「こいつぁ春から」です。
東京は当然「歌舞伎座」大阪は「松竹座」です。この他にも「浅草公会堂」では恒例若手歌舞伎が普段は出来ない大役を披露します。
古典の邦楽番組は「新春桧舞台」が舞台公演録画などを交えて、長唄・筝曲・義太夫などを、一日・二日の両日二時間放送されます。この三つだけでも七時間有りますから、毎日一時間づつ見ても一週間は楽しめます。
家庭で見る時も、一演目見たら一旦止めて、幕間にしたほうが良いと思います。それと、「乍ら」ではなく劇場で見るのと同じように集中して見ると色々な事がわかります。音量はある程度大きくしないと聞き取り難い難しい詞章もあります。それに劇場臨場感も味わいたくあり、周囲に迷惑な事もあるのでその時はヘッドフォンにします。
こたつで一等席の気分で、役者の表情、地方(演奏者)の技量の細部まで見せて頂けるのですから有り難い事です。これだけ多くの人間国宝の方々の至芸を連日見せて頂き、その上、録画保存、好きな時に繰り返し見直せるのですから贅沢な事です。生で拝見するには萬の上の方の桁が要るでしょう。
NHKでは、年に一度「古典芸能鑑賞会」をNHKホールで開催します。この時は、普段、我々ではまず見る事は出来ない東西各地の芸妓連のお座敷芸が披露されます。これは、その土地の料亭のお座敷でしか見る事は出来ない土地特有の伝統芸です。
歌舞伎を始め、こういう芸能は江戸時代に花開いたもので、わかり易く華やかな展開で趣向も多いので楽しいものです。
一時代前の室町時代に「世阿弥」によって完成された「能」或いは「狂言」は放送でも別になっていますが矢張り判り難いと思います。それ故、江戸時代に歌舞伎などに判り易く移し変えられたものが多くあります。私も江戸時代のものは良く見ますが「能・狂言」には達せずにいます。
歌舞伎なども、TVが無い時代は、音だけとか、財布を叩いて劇場へ行く、或いは地方の「地芝居」が少ない見物の機会でした。それさえ戦時は無かったのですから今は結構な時代だと思わなければいけません。
今日は、坂東三津五郎の「京鹿子娘道成寺」を見ました。まだ沢山見るものがあります。暫くの間楽しむ事が出来ます。


和三昧 1.1

例年の事ながら歌舞伎や邦楽番組を次々録画しています。用事や来客などで続けて見ていられないので撮り溜めておいて後からゆっくり見直す事になります。
以前は「第九」や「ウィーンフィル」なども見ていましたが、年齢的にも、あれもこれもと言う訳にはいかず本来の「和」に絞りました。今までは常識的な事位で止めていましたが最近は一つ一つの奥深さを味わおうと思っています。
パソコンは、五年以上前の物に、次の「Vista対応機」入手まで繋いでもらっていますがメモリー不足で、スワップ度々、フリーズ再起動頻発状態なので一月中は容量の大きい仕事は出来ません。
何れにせよ、一応完結したものもありますので今後はゆっくり歩こうと思います。
ただ、立ち止まる事はあっても前進を止める事はしません。進めば何かが見えると信じて歩きます。

トップへ