白鳥庭園 われ一人 12.28
十二月九日。
知人が名古屋市民会館中ホールで開催の「内田流舞踊会」に出演されるので招待券を頂き拝見させて頂きました。十時三十分開演、三番目ということで十時過ぎに入場しましたが、既に満員状態で一階の後ろの方から拝見しました。このホールは花道もあり、伝統芸能には絶好です。今までには「花柳舞踊会」と「津軽三味線の会」を拝見しています。
「内田流舞踊会」は初めて見ましたが、演出スタッフは名古屋一流の、衣装・道具・照明・音響で豪華な舞台でした。さぞや出演の方達は物心両面が大変だろうと経験のある私は思いました。
知人以外は知らない方達ですが、常磐津・長唄・清元など、四十二番の演目が終わるのは夕方六時以降という事で、珍しく、新内も二曲有ったのですが、とても全部を見る事は出来ません。
三番が終わった所で、半券再入場可という事なので、一旦外に出て「白鳥庭園」へ歩いて行って来ました。
金山から新尾頭へ出て堀川沿いに歩きました。この日は、朝から終日雨がシトシトと止む事無く降りました。紅葉はまさに見頃。堀川も、この辺りになると川幅も広くなり匂いも全くありません。
デザイン博を機会に整備された、国際会議場の辺りや、熱田神宮公園も紅葉が美しい。川面に浮かぶ丸太材も風情を添えています。熱田記念橋・御陵橋を行き帰りにそれぞれ渡って川面を眺めそれも良し。何も雨が降るのにわざわざ歩かなくてもと思われるかもしれませんが、そこは当たり前では満足しない私の性格です。川面に当たる雨滴も絵になります。
「白鳥庭園」は北門から入りました。「ごゆっくりどうぞ」という声を後に入場。人影はありません。
木造の、くすの木橋は、島を通り、上の池・中の池を横切り、再び島を通り、常夜灯から汐入りの庭を巡ります。雨はしっとりと木々や苔を濡らし緑や紅葉を引き立たせていました。
傘を差すほどの雨でもなく、静まり返った園内は踏み石を渡る自分の足音が聞こえる程でした。
庭園の中心にある、清羽亭は、京都と尾張の大工が造り上げた本格的な数奇屋建築です。この日は利用者が無く「見学頂けます」という掲示があり、各座敷と渡り廊下まで拝見して来ました。
雨という事もありましたが、眺めの見事さに写真に切り取る気持ちを失ないました。
三十分位は居たかと思いましたが、その間、庭園に人影は見ませんでした。何か不思議な次元体験をしたように思います。こういう体験はもう出来ないかも知れません。
再び国際会議場を通り市民会館に入場、長唄・常磐津を五番見て金山を後にしました。
そこから、歩いて、東別院、大須を経て、納屋橋の加藤商会ビル堀川ギャラリーの「広小路ものがたり」展示拝見。受付の人と話が弾んで三十分ほど居ました。通り掛りの白川公園を始め各所の公園も紅葉真っ盛り。
先日の覚王山近辺は、まだまだでしたが、この日は紅葉たっぷり、話もたっぷり、眺めもたっぷりの一日でした。
ウォーキング中 12.21
一世代前のパソコンでウォーキング程度の仕事をしています。
ビデオ編集などは出来ません。メモリーは128Mしか認識しませんので失速墜落します。
静止画像は処理出来ます。OSは「Win2000」で動かしていますが「XP」では簡単に出来た事が出来ず面倒です。ボードや周辺機器・ソフトのインストールなどドライバーなどが入ったCDを探してインストールが必要なので探すのが一仕事。シリアルナンバーの確認やら手間取りましたがやっと一段落しました。「XP」ならプラグアンドプレーで必要無いことが多かったのですが今や過去のOSには戻れないです。
これで一月末登場の「Vista」まで繋ぎますがそれまでに色々リニューアルする事にします。
ジェット並みのエンジンになる「Vista」に搭乗するにはCPU・メモリー共にパワーアップしたハードが必要です。と言っても過去から較べれば随分費用は下がりました。
後は、それを扱う人次第。色々な意味で私にとっては再スタートの機会になったと思います。
では又、ボツボツ歩き始めます。
「からくり人形と木遣り」 11.18
十一月十八日、名古屋市古川美術館で開催された「人形と木遣りの華麗なる競演」を拝見してきました。
これれは「からくり人形八代目玉屋庄兵衛(初代萬屋仁兵衛)の世界」が為三郎記念館で開催されたイベントとして行われました。三日と十八日に各二回行われました。一回目は為三郎記念館庭園・二回目は古川美術館一階ロビーで行われました。
開演時間にはロビーも階段も二階からも一杯の人になりました。
遠く外から、だんだん近付いて来る笛の音と木遣りの声。永田組二番法被姿の一行が現われからくり人形の前に整列、四代目矢沢組頭の先導で声高らかに唄い上げる素晴らしい趣向は見事でした。
二代目萬屋仁兵衛氏製作のからくり人形「三番叟」が紙吹雪を撒き散らし「お神輿」に変わる場面では見物衆から「オーッ」と感嘆の声が上がりました。
特別展「女性画家〜日本画に見る美の開花」は、上村松園、小倉遊亀・片岡球子はじめ著名な画家の名作は見応えが充分でした。
「為三郎記念館」では各座敷に八代目の「からくり人形」が展示、「茶運び人形」の実演もあり盛況でした。
私は「為三郎記念館(為春亭)」へは「ジュデイオング版画展」の時に行き、お庭も拝見しましたが今回は、尚隅々まで拝見してきました。
当日は撮影禁止なので画像は有りませんが、三年前、JR高島屋初売りのオープニング行事での「三番叟・お神輿」の画像が有りますのでそれを含めて玉屋庄兵衛さん萬屋仁兵衛さんについてレポを書こうと思います。
’06文化のみち 11.6
今年も、十一月三日、恒例になった「歩こう!文化のみち」に行ってきました。
全回参加ではありませんが、第一回から参加しています。今年は初めて「徳川園」から歩いてみました。
名古屋駅バスセンターから基幹バスで「徳川園新出来町」下車(25分)。徳川園には九時五分頃には居ました。
9.30分受付開始という事でしたが、20分頃マップを貰ってスタート。
ここで「東区文化のみち あれこれ(No4)」を頂く。(改題 東区ちょっと、ちょっと、いいはなし)という小冊子ですが、あまり知られていない面白い事が書いてあります。NO3まではB5版でしたが、今回はA4と大きくなりページ数も本文32Pとなりました。
閉じ込みで、名古屋城から碁盤割、名古屋駅一帯の「明細図」が、明治十年十二月と明治二十年八月二十六日(重訂)の二枚含まれています。本文中にある、東区板屋町生まれの、吉田禄在氏の、名古屋区長時代の十年間に実現した東海道線開通による名古屋停車場や広小路拡幅のの経緯を示すものです。
停車場周辺の町並みや、名古屋城内の軍施設の変化が見られます。
「東区文化のみちガイドボランテイアの会」の編集によるもので、これを頂くだけでも参加の価値が大いにあると思います。過去のものは保存しており時折り読み返しています。
「徳川園」では「市政資料館」の明和高校吹奏楽コンサートのようなオープニング行事は特に無く、私が出る時居た人はは二十人位でした。
「建中寺」ここには相当大勢の人が居ました。これは、JR東海が「大曽根駅から文化のみちを歩こう」というイベントを今年始めたので、その人達が公園から境内まで一杯居ました。
私は、殆どの場所を既に拝見しているので、今回は早々とポイントをスタンプしてしまう考えでしたから、スタンプを貰い「建中寺総図(天明六年(1786〜嘉永三年(1850」)と、現在の「建物・敷地配置図」を頂きました。前回も有ったのですが時間が遅く貰えなかった「元贇焼(限定二個入り200袋)が頂けました。消滅した東区特有の菓子を復元されたものです。写真に保存しました。8*3センチの8の字状のクッキーの硬い焼菓子です。
「陶磁器資料館」スタンプ。享保年間創業の灯火用油商であった「熊野屋」の、お爺さんは相変わらずお元気でした。
「金城学院栄光館講堂」AM10.00、ここでは中・高グリークラブ(約50名)の女声合唱団演奏。紅葉・浜辺の歌・こきりこ・荒城の月。美しいハーモニーで歌われました。折りしも同時刻、広小路では「中日ドラゴンズ優勝パレード」が始まった頃、特別追加で「燃えろドラゴンズ」がアクションを付けて歌われ客席からも手拍子が鳴りました。
メインは、井沢元彦氏の文化講演会「名古屋城の本丸御殿」なのですが、正午までの予定なので、一旦最後尾席に移りましたが途中で立つのも失礼と思い、次のコースへ向かいました。
「主税町長屋門」では大きな名古屋城碁盤割旧図を拝見。
「双葉御殿」は三十人ほどの列が玄関前に並んでいました。
南に向かって「貞祖院」へ。水禽窟が三つ有りますから耳を澄ませましたが、栄交差点に着く頃の「ドラパレード」の取材ヘリの空からの轟音でよく聞こえませんでした。
「ギャリー花藤」(御釜師加藤忠三郎氏)の茶釜拝見。
北へ戻って「撞木館」(旧井元邸)へ。何度も行っていますが、今回気になったのは二階の浴室。タイル貼りで陶製の大きな浴槽とシャワーが壁に付いています。給水は問題無いでしょうが給湯の方法はどうだったのでしょう。二階ですから地上の何処から補給したと思いますが機会をみて尋ねてみます。
「堀美術館」スタンプ、「豊田佐助邸」は、お庭から拝見。隣の「春田鉄次郎邸」は二階から、今は立ち入れない隣の「春田文化住宅」を遠望しました。玄関を出てボランテイアガイドに方に「誰も住んで居ませんか」と聞きましたが家主と一人の方が住んでいるという事でした。消滅は近いと思われます。隣の豊田邸の小庇に鳥除けがズーツと付けてあるので「昔から有りましたか」と聞きましたら「イヤァ、鳥がズラリと並んで糞害で酷い事になったので皆で付けました。ここにも付けました」という事でした。周辺は木々が多いので鳥も沢山来ます。大変ですね。
一本北の料亭「加茂免」この辺りの風景は静かな雰囲気でで間もなく紅葉が見事です。結婚披露宴も時々よく有り、記念撮影が玄関前でありロマン溢れるバックグラウンドの背景が一幅の絵になります。
「主税町教会」でスタンプ、終点の「市政資料館」には正午過ぎ。ポイント回りだけなら二時間で回れます。
二年前は探しながらのゴール「徳川園」で終了の三時ぎりぎりでしたから随分早くなりましたが、ただ回るだけでは味気無いので次は違ったバリエーションを考えます。
東山植物園大温室 10.30
文化審議会は「名古屋市東山植物園温室前館」を重要文化財に指定するよう文部科学省に答申しました。
この温室は昭和十二年(1936)三月三日、植物園として開園しました。
同じ地域一帯に五年を懸けた作られた「動物園」は三週間後の三月二十四日開園しました。
ここまでの経過は「東山動物園・植物園HP」に詳しく紹介されています。
東洋一と言われた先代「名古屋駅」が同年前月二月一日に完成しています。
市電は、それまで「覚王山」が終点でしたが、同じく昭和十二年「東山公園」まで延長されました。
電停は「末盛通二丁目」「城山」「本山」「唐山」「東山公園」でした。
昭和十五年(私四才)から私達が住んでいた葵町からは「新栄町」電停まで200メートル位でしたから、家からも学校の遠足でも何度も行きました。
ちなみに「新栄町」から「覚王山」までには六つの電停がありますから、十一の電停が有った事になります。どれほど時間が掛かったのかは憶えていませんが、変わり行く家並みを車窓に向け正座し眺めながら行きました。
「覚王山」からは丘陵地帯になり木立が増え、その中に姿を見せるトンガリ屋根の「昭和塾堂」は不思議な雰囲気を醸していました。そこを過ぎると暫く人家はまばらになり「城山」「唐山」は丘陵地帯が続きました。「本山」は今も地下鉄の駅名が有りますが「唐山」という地名は聞かなくなったので消滅したのかも知れません。
その丘陵地帯の向こうに忽然と現われるのが「東山公園」でした。
まさしく名古屋の東の「終点」に「東山動植物園」は出現したのでした。全体の状況は今も其の侭有りますです。
部分的な変更はありますが、多くの構築物の多くは創設当時と変わりません。変わったのは、電停から入場門に到る両側には並木に沿って軽食や土産物店が並んで賑わっていましたが、それは今は有りません。緩やかな階段を上がった所の切符売り場、入場門の姿は変わっていません。池に掛かった橋、すぐ目に入る中央噴水、その向こうのペンギン島など・・。
右の建物は以前は「爬虫類館」で、鰐やニシキヘビが殆ど動かない姿で居ました。それは今「犀館」になっています。
「東山動物園」の大きな特徴である「無柵放養式」の、ライオン・あしか・白熊や、動物の姿は広々とした開放感を見学する者にも与えました。
「古代動物苑」のコンクリートで作られた「恐竜」は誠にリアルで印象的です。今も有ります。
北館通路は公園横の道路の下を潜る階段を降りて又上がっていきます。ここには「猛禽類(鷲・鷹など)」が居る大きなドーム状の籠舎が有ります。この公園の良さは、構築物が単なるコンクリートだけではなく、階段や通路・橋の手摺りなどの各所に、タイルや・煉瓦(テラコッタ)が使われている事です。噴水には陶製の動物のレリーフが貼られ子供の夢を誘います。
かなり広大な園内を回ると子供は快い満足と疲れを感じます。その感動を胸に市電電停に立つ頃には夕陽が赤く染まります。折り返しの電車の一本棒のパンタグラフに付いた紐を引き車掌さんが反対方向に180度嵌め換え西に向かってチンチンとお帰り出発です。
さて「植物園」ですが、昭和十二年三月三日、「動物園」より三週間早く開園しました。
東山公園電停からはかなり距離が有ります。動物園を縦断し階段を上がると上池が広がっています。かなり大きな池ですが植物園はその向こうにあります。今はモノレールで動物園から行くことが出来ますが、以前は歩いて行くしかありませんでした。子供はあまり行っていないと思います。私は行きましたから親が連れて行ってくれたのでしょう。人の姿も少なくチョッと怖いような淋しい雰囲気でした。温室と前庭の蓮池は今も同じです。南東の角にある軽食喫茶はその時からありました。オープンカフェも同じです。そこで東山公園は終わりでした。今は整備されて丘の上のお花畑まで行けます。地下鉄「星が丘」に近い門がありますから、今は「植物園」に直接行く事が出来ます。
ここは紅葉が綺麗です。間もなくその季節になります。
今回指定答申の「温室前館」は、左右対称、当時の最新溶接技術で鉄骨を組みガラスを張った貴重な構築物で全面ガラス張りの重文指定は初といわれます。
娯楽施設の多様化で「東山動植物園」はリニューアル計画が進んでいるようですが原型を損なう事無く楽しく夢のある全世代に好まれる施設として発展して欲しいと思います。
開園当時の資料が有りますから、現状と比較しながら順次、ご紹介します。(続く)
霞幕 10.15
十月十五日、恒例の名古屋まつり「山車揃え」が行われました。
私は、九時に柳橋神明社に行きましたが「花車神明社祭」の三輌の山車は、既に名古屋城三之丸の集合場所に出発した後でした。例年、那古野神社に立ち寄る事を知っていましたから、桑名通りから向かいました。
三輌の、しんがり「二福神車」が奉納参拝を終えた所で、お囃子を響かせながら本町橋を渡り三之丸へ。
市役所メイン会場パレード開始式典は十一時ですが、各山車は市役所正面に向かって並列しますから十時過ぎから行動開始となります。一番遠い古出来町は直線でも4K近くありますから山車を曳いて到着するまでに二時間の余裕が要るそうです。古出来町を出発したのは午前七時三十分だったそうです。
「山車揃え」が栄交差点で終了し、東区の五輌は東へ進み、オアシス21とNHK玄関前の間の道へ左折、信号をNHK北の道へ右折、山車が揃った所で東桜小学校で休憩。貸切バスで多くは先行帰宅されたようです。
私は「東生涯学習センター」に立ち寄って「風は東から32号(東区いまむかし・忘れえぬ葵町の思い出)」掲載のお礼を申し上げて「東区民フェスティバル祭り」が行われている建中寺公園へ行きました。そこで「2008東区制100周年記念」を購入しました。1200部限定というこの切手については改めてご紹介します。
三時頃でしたが、まだ山車の帰って来る気配は無し。「今頃は何処に居るのやら」と思いつつ、一週間程前、萱屋町に昭和二十年三月十九日の空襲まで住み、その時、葵国民学校一年生だったという方の息子さんからのお尋ねに「昭和八年住居図」を送ったあげたので、その辺りを通りながら再び久屋大通りから大須、御園座の様子を見て帰宅。6時間ほどの「てくてく」でした。中山道を歩いている勅使河原さんのように毎日ではないのでさほどの事もないし、名古屋〜金沢を三十六時間で走る人を知っているので物差しのスケールが違います。
さて、本題に入ります。
「霞幕」というのは、山車の最上段に乗る「からくり人形」が動いていない時、つまり、山車が静止休息している時、直射日光などから保護する為、四方に暖簾状に掛けられる紗幕です。大体は紋や山車の名前が描かれています。
普通、祭見物する一般の人は、山車の活動中を見ますから、あまり見られないと思います。
私も犬山などで山車名を描いた幕は見ていました。
「柳橋花車神明祭」は活動中や夜間は見ていましたが「霞幕」は見ていませんでした。
今回、三之丸待機中に霞幕が掛けられました。他の山車は、それぞれ紋の付いた幕などを掛けましたが「二福神車」と「唐子車」が白っぽい薄汚れたような幕「失礼・これから説明します」を掛けられました。遠目で見ると、みすぼらしく見えました。
「唐子車」の傍へ寄って見て驚きました。水墨で描かれた画と歌があり、左下に昭和三十三年十月吉日「八世松本幸四郎」とあり、幸を丸で囲った落款が押してあります。画は葦原から雁が飛び立つ様子を描いています。それだけでも驚きで早速「唐子車」内屋敷町の方にお尋ねしました。
「へーっ、そんなに珍しいものですか」と傍の方にも話されましたら、調査の時にそういう話があり写真に保存されたそうです。
再び、よく見直すと四方のそれぞれに当時の名優の、画、署名落款が見えます。
三世寿海・こうもり。勘三郎・茄子。三津五郎・鐘輝。七代梅幸・梅枝花。
写真をご紹介しますのでご覧下さい。読めない字もありますので教えて下さい。
「二福神車」には宝船・波千鳥・が描かれ、修・落款とあります。私には由来は判りませんので教えて下さい。
昭和三十三年当時は、上記の名優の方の他にも多くの名優方が居られました。
二世尾上松緑、中村雁治郎、市川猿之助、実川延若など綺羅星のごとくでした。先代団十郎さんはまだ海老蔵だったかもしれません。
その頃でしたが、私も歌舞伎が見たくて私は学生でなかったので友人の学生証を借りて学割で、御園座で昼夜見た事があります。その時は確か「市村羽左衛門襲名興行」だったと思います。
海老蔵は「若き日の信長」、松緑「供奴」、福助(現芝翫)「金閣寺」でした。寿海・左団次(先代)も出演だったと思います。
歌舞伎界は、戦後大きく衰退し存亡の危機の時期がありました。多くの役者が映画出演をしました。幸四郎・松緑(花の生涯)・扇雀(現藤十郎)佐々木小次郎。鶴之助(現富十郎)若様侍。友右衛門(現雀右衛門)佐々木小次郎、等々。
寿海の養子であった、雷蔵、中村錦之助、東千代之介などは遂に歌舞伎には復帰しませんでした。
その変遷を乗り越え「人間国宝」として立派に次世代に継承された功績は計り知れません。
上記、霞幕は誠に貴重なものです。何れも故人になられ二度とは得られないものです。色紙や隈取りなどは数多くあるでしょうが、山車の霞幕というのは、唯一何処にも無いでしょう。
入手由来を確証の上、多くの皆様に、ご披露下さるよう願ってやみません。
芝居の話 10.12
まずは中日ドラゴンズ、セリーグ優勝おめでとうございます。
BSが無いので、TVで見る事が出来ずラジオを聴いていました。ウッズの3ランで川上の力投で決まりかと思いきやホームラン3発で分からなくなった。9回以降は1発でジャイアンツさよならという薄氷を踏む思い。相変わらずタイムリーが出ないドラゴンズは誠に心身に悪い。11回で一旦ラジオのスイッチを切りました。数分経って矢張り気になりスイッチオン、時計は既に十時になっていました。そこから状況は急転直下(!上)後はご承知の通り。
昨日は落合監督の涙のインタビューと、優勝セールの各デパートのフィーバーでTVは大騒ぎの呈でした。
二年前の日本シリーズは惨敗でしたから今度は頑張って頂きましょう。まだ決まってはいませんがパリーグはパワーが強力ですから腹を据えて掛からないと叩きのめされます。短期決戦ですから心身の集中力が決め手でしょう。
さて芝居の話。
先日の「坂田藤十郎襲名披露船乗り込み」。御園座挨拶では翫雀丈が「私の大好きな中日ドラゴンズが、間違い無いですが優勝が目前なので楽しみに待っています」と言われましたから、昨日の「口上」では一言有っただろうと思います。新聞では「放浪記」公演のカーテンコールで森光子さんがお祝いを述べられたとの報道です。
御園座は、ドラゴンズ優勝サービスで、23・24・25日昼夜六回、各百人様、1等席20.000円を半額10.000円で今日12日発売という広告です。
もう一つ、「平成中村座名古屋同朋高校公演」中村勘三郎一座(九月二十四日〜二十七日)。
1.100席は一時間で完売でした。15.000円です。
見て来たという人の話。「船乗込み」の時、見に来ていた二人の人と話をしましたが、一人の方は女性で「堀川ギャラリー」で「娘が御園座友の会で優先発売で手に入れましたが、一枚だけなのでお母さんにあげると言って呉れたとの事。かなり高齢の方でしたが「幸せだねぇ」と言ってあげました。
もう一人の方は、天王崎橋で大きなカメラを構えていたおじさん。この方も御園座友の会のルートから入手されたとの事。
芝居や展覧会などは「撮影禁止」なのでプロ以外は内部の写真は入手不能です。ロックなどのコンサートは生写真とかが出回りますが、クラシックや古典芸能は生公演を見る事が必須でした。幸いな事にTVの普及で放送があれば録画などで詳しく何度も見ることが出来ます。高価な入場料で少数の者だけしか機会が無かった事が機会を得られることは誠に有り難い事です。生で接する事が出来れば、これに勝る事が無いのは言うまでもありません。
一昨日(10日)、某TVで、同朋高校公演の高校生の協力の様子と勘三郎さんとの交流の感動的なドキュメントが放送されました。7分ほどでしたが公演の様子を知る事が出来ました。
「平成中村座」はニューヨーク公演の大成功の後、全国の地芝居座でも襲名興行を続け、名古屋でも御園座でも興行が行われました。お練り行事は大須商店街であり当HPで紹介しました。
最終興行は十二月の京都南座「恒例師走顔見世興行」で「十八代目中村勘三郎襲名披露興行」として行われます。入場料は25.000円です。
同朋高校公演は、初代中村勘三郎が名古屋中村の出身という歴史があり是非とも、この地でという思いで実現したものです。高校体育館は三日間で見事に変身し、花道は24.5メートルという長ーいものでお客さん総てが楽しめたそうです。仮造りなので座布団席にはズンズン響いたそうです。あまりに長くて役者さんは大変な様子も見られたとか。篠山紀信さんや山川静夫さんも来ていたそうです。
演目は「口上」「義経千本桜」「本朝二十四考」「身替座禅」など。
「口上」では、ご当地向けの挨拶や扇雀丈の「勘三郎さんには色々な事をさせて貰いますが体育館は初めてで・・」とあったそうです。
TV放送があります。十月二十九日NHK教育「芸術劇場・義経千本桜」周囲の様子も伝えられるかも知れません。
鼓の音 9.24
九月二十三日、名古屋能楽堂展示室で十月一日まで開催中の「能楽小鼓方 福井家伝来名品展」の一行事として「小鼓ワークショップ」が二時から開催されました。
十一世福井四郎兵衛師・船戸昭弘師による対面方式での体験ワークショップです。学校などでは行われているのですが、能楽堂での一般の人を対象にして行うのは初めてという事です。
私は所用などあり、金山から、別院、大須、大津通りを歩き、一時過ぎに能楽堂に行きました。
展示の、蒔絵の施された、胴、能管、小鼓、太鼓(おおつづみ)、太鼓、鼓箱、それに掛軸、稽古書などの書物等、名古屋における能楽の歴史等、じっくり学習の上、ワークショップに参加させて頂きました。福井師は名古屋の山車囃子の指導もしておられるので祭関係の人も来ておられるかなと思いましたが見掛けませんでした。
「ワークショップ」なるものが馴染みでないのか、二時になっても五〜六人の人がいるのみ。
それでも「始めましょう」という事で、まず、福井師による、能楽の構成から囃子方の役目、笛・太鼓・太鼓(おおつづみ)・小鼓の構造・音の種類、扱いの詳しい説明がありました。私はお囃子は舞台やTVで随分見てきましたが歌舞伎囃子方が多く能楽を見るようになったのは最近です。歌舞伎囃子方は、舞踊など、長唄・常磐津・清元などで「鳴り物」として、かなり華やかに活躍し無くてはならないものです。
福井師の解説は誠に丁寧で、太鼓(おおつづみ)と小鼓との大きな違いは、皮が大鼓(消耗品)小鼓(長く使うもの)など私の無学を知らされるお話でした。叩く場所、強弱、紐の握りによって音の種類(バリエーション)が展開される事も知り、かなりの文化体験(カルチャーショック)でありました。
続いて、いよいよ、扱い、構え方から始まる実体験、教えられたように打ちました。素晴らしい音が鳴り響きました。
自分でもビックリしました。実に爽やかな快い癒される音でした。
所が、その後、なかなか良い音が出ません。最初の無心さが良かったのでしょう。「意識して力が入っている」と指摘されました。なかなか表現は難しいのですが、指を広くでは無く少ない面積で瞬時に当てる、これは音の出るポイント探しですが、数多く打って見付けるしか無いと思います。
皮の縁を打つと高い音が出ます。紐の締め方の強弱で音程が変わります。縁は打ち易いと思いますが、皮の真ん中に当たった時の爽快な音の響きはこたえられない魅力です。単純に見えながら奥深い日本の伝統楽器を再確認した素晴らしい経験でした。邦楽番組を見る視点が大きく広がった体験でした。
始まった時は少ない人でしたが、だんだん増えて来て、六人づつの体験が五回ほど行われ、かなりの盛り上がりとなりました。ちなみに私は勧められて二回参加させて頂きました。
今にして新しい始めての体験をさせて頂いた、福井師、船戸師に感謝致します。
情報 三っ 9.17
ご承知の方は多いでしょうがあまり伝えられていないのでご紹介します。
@ 「幕末の残像 -尾張の殿様が撮った写真−」 徳川美術館 9月9日-10月1日
名古屋天王祭山車行列、名古屋城内外、熱田浜御殿など多数 有料
A 福井家伝来名品展 9月1日-10月1日 名古屋能楽堂展示室
能楽小鼓方十一世福井四郎兵衛襲名記念
9月23日 PM2時〜3時30分 福井四郎兵衛・船戸昭弘師によるワークショップ
申し込み・参加無料
B 坂田藤十郎襲名披露興行堀川船乗込みに続いてお練り
9月28日 12時15分 白鳥桟橋〜納屋橋〜広小路〜御園通り〜御園座 2時
日時は現在は予定です。要確認です。
資料処理 9.14
那古野祭以後、特に興味のある行事も無く、八月になってから暑さも厳しくなったので、今迄に集めた諸々の資料の整理に明け暮れていました。
七月末に「ど真ん中祭り」がありましたが今年は行きませんでした。TVの中継は見ましたが、どうも、だんだんケバケバシクなって来て本来の純粋な趣旨とは離れて行くような気配を感じます。しっかりした定番バージョンを確立する時期に来ていると思います。やたらに派手にするばかりでは息切れ脱落するでしょう。
数十年来の画像データを、ピックアップしてはDVDに変換して来ましたが100枚近くなりました。
これを又見直す機会があるのかどうかはわかりません。
二十年ほど前の電話記録をパソコンに取り込もうと、以前やったのですが、ステレオテープデッキは無く、ラジカセ外部出力では音量不足でした。今回はラジカセのスピーカー生音からDVカメラに録画(画面無し)し、編集ソフトで音だけ分離しましたがWAV形式なのでWindowsかRealプレーヤーでの再生になるので面倒。
DVDプレーヤーの方が家電再生出来るので画面は無しですがDVDにしました。
これでテープのディスクバックアップは終了。
要る物、要らない物の分類処理は厄介ですが、空っぽの老後よりはましでしょう。
自分としては捨て難いものですが、コレクションとして寄贈する程の物でも無し、後はどうなることやら・・。
動画データ 9.1
動画記録は、「8ミリムービー」から始まりましたが、四十年程前の東京オリンピックの頃にに遡ります。
フイルム1巻で6分ですが音は記録できませんでした。カラーから始めましたが、あまりに高価で続かず、モノクロに換えましたが映写機購入を考えている頃、シングル8に方式が変わり、そのまま永い間、フイルムのまま凍結してありました。
劣化も気に掛かりましたが已む無く棚の上の箱に入ったままでした。
「ビデオレコーダー」が登場したのは、かなり後です。
私が最初に購入したのはソニーのβHiBandです。音はシングルですが画質は素晴らしく、今でも綺麗に再生出来ます。現在、ソニーの家庭用β機は新品は当然ありませんが、中古でも「ヤフオク」にジャンク品で出ることも有ったようですがそれも消滅模様です。私の物はテープの出し入れは上蓋を外してあり、手を添えないと引っ掛かってしまいます。ベルトも延び切って硬化していますが動くのが不思議な有様です。
前述の8ミリフイルムはカメラ店でVHSに変換して貰いましたが相当費用を払ったと思います。
VHSも、今や風前の灯火ですが、SVHSよりβの方が遥かに高画質だと今も思います。業務用ではEDβが今も使われていると思います。HiVisionカメラの形式がどうなっているかは知りません。
βが販売戦略では敗れてVHSになりましたが録画は殆どSVHSで記録してきました。
ビデオカメラが登場し、撮影は「ソニーHi8」からスタートしました。デジタルの登場で移行。画素数もどんどんアップして今やHiVisionですが、記録メデイアもHDやSDへと変わっています。変わらないのは撮影と処理のマンパワー。これはハードの機能だけではどうしようもない課題です。又、それが面白い所でもあります。
さて、自作・他作(録画)の処理。自分にとっては捨て難い物が殆どです。メデイア変換も考えますが手の付け方が決まらないので、取り敢えずは、タイトルを確認してファイル化するしかないようです。後は必要に応じてキャプチャー変換するしかないと思います。
画像の殆どは「邦楽」で歌舞伎、舞踊、民俗芸能(民謡・伝統行事)です。流行には左右されない物なので価値観に変化は無く古い記録は貴重で価値が増していると私は思います。
これらは捨てたり消去するには忍びない物です。NHKはインターネットでアーカイブスを公開する計画のようですが夥しい量と要望に応じる対応が出来るかどうかは難しい事でしょう。
私も年齢的には限りもあり、体力(視力・聴力・行動力・思考力など諸々)も怪しくなって来たので無理はしたくありません。余裕の無い哀れな姿は見せたくない気持ちは有ります。
それ位の気持ちは持っていたいと思いますがどうでしょうか。
八月は 8.10
今年の「那古野祭」は、当日以前から、復活行事などの話題が伝わって来たので、ビデオ取材をする為の前準備の上、祭礼を迎えました。天候急変などは有りましたが、90%は取材できたと思います。
試楽祭、午後から百三十年振りという「花車二福神車」の桑名通り奉曳から始まって、本祭、神輿還御まで、よく取材出来たと思います。90分取材して、DVD一枚(60分)は無理かと思いましたが30%カットして完成しました。今年の「那古野祭」は多くの感動を多くの人に与え、呼び起こし、今後に大きな可能性を感じて終りました。
さて、八月は、自分にとっても、日本の国にとっても黙っていてはいけない重要な月です。
今や、時代を動かしている人達は実際に戦争体験をしていない人達です。
色々、勝手な理屈で真実から目を逸らそうとしています。靖国問題については、私の意見はハッキリしています。
今まで、真剣に解決をしようという態度が、全くとは言いませんが為されて来ませんでした。
ここに来て、やっと、「昭和天皇メモ」や、「東条通達」などが公表されていますが、何故、今まで公表されなかったのかを感じます。
私の気持ちは明快です。即ち、開戦の理由はどうであれ、戦争を決断し、多くの国民には絶対服従、果ては三百万人を越すといわれる、戦死、戦災死、そして、その家族に苦難を齎した責任者が、戦死英霊と、同じ扱いをされている場所(靖国神社)に遺族が頭を下げ参拝する事は出来ません。
「東京裁判」の正当性の議論は遺族には、全く別の問題で、それはジャーナリストが勝手に議論の材料にすれば良いので、遺族の心理とはかけ離れたものです。
私は、父の戦友会開催時に「靖国神社」に、一度行きましたが、その時見た「就遊館」は、正に戦争記念館であり戦争の正当性を解説し、参拝する生還した心傷ついた旧軍人の心を慰める手段の一つだと私は見ました。
事実、そういう傾向は「戦友会」にも有り、その後も、戦友会出席の、お招きはありましたが遺族の居場所は無いのが「戦友会」の雰囲気でした。戦後四十三年目にして、始めて出席し、心こもる心遣いを頂きましたが以後は文面での濃密な交流は有りましたが古傷を思い起こす苦しみを、当時、昭和六十三年(1988)七十才の方に与える事は心苦しく終わりの無いままの終結でした。
毎年、この月は、新聞、TVなどで戦争特集が組まれますが、戦争を実感した人の年齢は六十八才(終戦時七才)が記憶の限界となりました。
戦争遺族の心身の苦しみだけが戦争被害ではありません。
空襲などによる、有形無形の文化財の喪失は、今も尚、復元復活は出来ていません。
気懸かりなのは、欧米文化の浸透で、日本古来の素晴らしい文化が忘れられていく事です。これは憂うべき事態です。
昔のままの姿は望めませんが、現代社会にも自然に馴染める素晴らしい日本文化を多くの人に伝え、参加する事で欧米に従属しない、日本には誇りある文化が有るというプライドを持って欲しいと望みます。
七月は「那古野祭」で終始 7、31
七月は「那古野祭」で始まり「那古野祭」で終りました。
廣井神明社の「二福神車(下花車)」の皆さんの、ご努力で、歴史的な見舞車復活がなされ多くの人達に感動と、かっての歴史の存在を伝えた事は誠に大きな意義ある事でした。
私も、記録映画で想像するのみで、再現は中々実現しないのではと思っていた行事が、一端とは言え、目の当たりに出来た事に満足しています。
加えて「那古野暴れ神輿」が、大・中の二連、女神輿、子供神輿と、大きなスケールに拡大した事も大成功でした。
私も、七年に亙り、経過を拝見して来ましたが、ひとまずビデオでの記録も含めて目的を達したと満足感に浸っています。
祭礼直後の画像アップと、その後のビデオ編集DVD化も月内に終了しました。関係の方に見て頂ければ、この上の希望は有りません。
個人的な思い入れの深い「那古野祭」への感情を、自分と共に、今は亡き先人にも与えて頂いた関係の方々に感謝し、今年の「那古野祭」の総括とします。
那古野例大祭レポ V
宵祭から帰宅したのは、午後十時少し前。
私は、いつも名古屋駅まで4K 位までは歩く事にしていますから、五条橋から円頓寺か、中橋から国際センターの道から、JR名古屋駅経由で帰宅します。
十六日、本祭も、円頓寺から。途中、先日の「堀川文化探索隊」で知った、間もなくマンション建設が始まり消えると言われる、戦時遺構「那古野市バスセンター」の、長ーい、レンガの防火壁を写真に撮ってから「円頓寺商店街」を通り那古野神社へ。
ここ数年の猛暑とは違い、朝方は涼し過ぎる気候。勝手なもので「これでは那古野祭らしくないな」と思うほど。それでも、日差しは強く、天気の心配は無いと思いました。能舞台では、前日に続いて「熱田神楽」の奉納。
例年、一時三十分から、神輿渡御式典ですが、一時頃から空模様が見る間に一転、雷も聞こえ、かなり多くの雨が降ってきました。以後、還御まで雨は時折、強くなりながら、シトシトと降り続きました。楽師の方は演奏の合間には楽器をビニール袋に収めておられました。
ビデオカメラはハンカチでガード、何とか、お終いまで撮影しました。二日間90分でした。撮りこぼしも有りますが、これは一人では無理です。
神輿担ぎの方達は、今年は暑さの辛さはあまり無かったそうです。大中二連の神輿は初めて拝見しましたが相当「大爆発」でした。交差点通過とか、大回り回数一回とか、子供神輿の参加減少とかは有りましたが、前日の「二福神車」奉曳と共に多くの人に戦前の豪華なお祭りの姿を彷彿とさせる大きな感動を呼び起こしたと思います。
この感動を引き金にして、関連行事の益々の復活が実現する事を願って止みません。
昨年は省略された「河文」さんの玄関付け、二連の神輿が前女将さんの遺影に披露されました。生前にお見せ出来なかった事は残念ですが、さぞかし喜んでおいででしょう。
天候による段取りの変更は有りましたが、五時三十分総ての行事は目出度く終了致しました。
私も数年来拝見させて頂きましたが、これほどの盛り上がりになるとは当初は考えられませんでした。
関係の皆様の並々ならぬ努力に感服しています。
個人としての思い入れの有る、この、「那古野祭」を堪能させて頂いた事を感謝します。
那古野祭例大祭レポ U 7.21
那古野神社へ帰ったものの、雨は降り止まず思案顔。能舞台では昼間から熱田神楽の笛、太鼓奉納。
小雨の中、奉納演芸の見物の為のテントの設営が始まりました。手間が足りないようで地域活動での経験があったので手助けしました。
演芸は、海東流曲打ち神楽太鼓、マジックショー、日本舞踊など、去年より多くの出演がありました。
流派はともかく、男性、女性による、新舞踊、民謡、筝曲など、長い曲もあり、かなり、お稽古を重ねておられると拝見しました。
最近は男性の若手舞踊の層が広がっている傾向で、「祭り」などの男ならではの躍動美を表現するものを見かけます。踊りは女のものという事は無いのでエアロビクスとストレッチとしても効果大と思います。
車楽の提灯飾りが始まり、二福神車の献灯が四隅に飾られました。灯点しの行事が有ったのですがその場に居合わせず機会を失しました。これは知人に画像を融通して貰います。
境内笹提灯の設置が雨模様で遅くなり、灯入れも遅くなったので昨年に続いてお手伝い。
山車が出発して気懸かりでしたが、汗だくで完了。山車は既に、片端筋から東照宮を過ぎ長者町の彼方を曳行中。
笹提灯を手に宵闇の町を行きますが、よく行く道ですが夜は何処を通っているのかよくわかりません。
九時過ぎに那古野神社帰還。昨年はズーッと出しっ放しだった境内笹提灯が雨の為か片付けられて本祭にも無かったのが残念でした。(本祭に続く)
別件 なごや物作家 大野一英さんの訃報が伝えられました。文化財叢書や単行本でも名古屋情報を伝えて頂いた方です。私も祖母の事でアドバイスを頂きました。ご冥福をお祈りします。
那古野神社例大祭レポ T
十六日の本祭は、夕方、五時三十分には総ての行事が終了し、平成十八年の「那古野祭」は終りました。
今年は特筆すべき行事が復活再現された事。三連休の一・二日目という好条件に恵まれましたが、気紛れな梅雨末期の天候変化に戸惑いもありました。
十五日の「試楽祭宵祭り」は、朝から青空の広がる夏空、日差しは厳しく、一時三十分出発の「廣井神明社」からの「二福神車」は汗だくで伝馬橋を渡り、桜通りの上り坂を約500メートル、桑名通りまで押し上がりました。
桑名通りのアーチをくぐり、ここからは、お囃子とともに長者町経由、那古野神社へ向かいます。
セントラルホテル前には大勢の人と共に、永田組の面々が居並び、百三十年振りという「見舞車」を出迎えました。
からくり披露の後、心尽くしの接待が有り、お囃子に乗って町内奉曳が始まり、那古野神社には予定通り二時三十分に到着しました。早速、笹提灯の奉納が有り復活行事が着々と進行しました。
四時から町内奉曳が始まりました。本町通りから、魚ノ棚通りへ右折、元禄創業の老舗料亭「河文」さんで、からくり披露が行われました。
「河文」さんは、昨年五月、女将さんの夭折という、ご不幸があり、例年行われてきた「神輿玄関付け」が省略という事がありました。私は数年来、丁寧な接待を拝見して来ましたが残念な思いでいっぱいです。
まだ、引継ぎに惑われている様子で老舗の継承の大変さが察せられます。
ここで、二人の人に「これは何ですか?」と訊ねられました。
一人は女性で、「たまたま、セントラルホテルで見せて貰いましたが、ここに来ているのはどうしてですか。山車は何をしているのですか?」という質問。
傍に居た男の人も興味深々という質問。「百三十年振りに那古野神社に来たのです云々(その他省略)」。
「それは素晴らしい。こんな機会に恵まれた私は本当に運が良いんですね」。
「そうですよ。明日は午後、赤褌の暴れ神輿が二基出て、夕方五時頃、ここで玄関付けがありますから是非来て下さい。
「いつも日曜日には実家へ行くのですが、明日は又来ます」。十六日の神輿付けには「見に来ました!」と、興奮しておられました。近くの古美術店さんも聞かれたので説明をしている間に、山車は行ってしまい、後を追い掛けたら、長者町通りを南進し七間町通りに向かっていましたが、すぐに空模様が一転、大粒の雨が降って来ました。
止む気配も無く昼の曳行は断念。雨覆いに包まれた「二福神車」は那古野神社へ引き返しました。
(続く)
那古野祭例大祭 7.15
平成十八年「那古野祭」は例年通り、七月十五日「試楽祭宵祭り・十六日大祭」が、不安定な天候の中、多少の変更は有ったものの大体予定通り執行されました。
花車神明社の「二福神車」の、百三十年振りの見舞車としての参列という復活行事があり、立派に奉曳を奉仕されました。「若宮祭」には「福禄寿車」が本町通りを奉曳されますが、平日が多く、那古野神社氏子町内には、それほど浸透していないようです。
今回の「二福神社」奉曳は、町内の方に、大きな感動(カルチャーショック)を与えました。
私に「この山車はどこから来たのですか。どういう事ですか」と訊ねる人が所々においででした。説明をしていてビデオを撮り損ねるほどでした。「那古野祭」「東照宮祭」への関心を呼び起こす大きな、迎い水になればと思います。
私の、東区・中区(旧西区)の、お祭に対する感情は私情に依るところが多く有ります。
度々書いていますが、「長者町」は、父が生まれ育ち、祖母が常磐津岸沢派家元で活動した地です。
母は、八才頃から「南外堀町」で育ち、昭和七年、父と結婚しました。
当時の、「東照宮・那古野祭」の豪華さは、記録映画で偲ぶ事が出来ます。父は、昭和十年頃長者町を去り、母の実家は、昭和十九年、戦時強制撤去により消滅しました。
私には瀬戸電堀川駅から円頓寺一帯の当時の記憶が有ります。
母は、昭和十七年八月病没(三十才)、父は、昭和二十年九月、フィリッピンで戦死し、お祭りの楽しさを私に伝える事が出来ませんでした。自らも苦楽を楽しむ事も出来ずに早世した無念さを思い、私は、自らも現在のお祭りを楽しみながら、早世した両親、祖父母に知らせています。
東区の、お祭りは、昭和十五年から二十年の空襲まで住んだ、葵町に近い代官町・筒井町、葵国民学校から早朝参拝した高牟神社などの想い出の回想を辿っているからです。
ビデオは90分撮影しました。雨の為、カメラの保護と予定変更、偶発の連続で撮影ミス(スイッチの入、切)など有りますが、悪天なればのドラマチックな場面も有ります。幸い知人(筒井の方)が撮影されたシーンを、後程、お借り出来るようお願いしたので完成版では巧くいくだろうと思います。
取り敢えずは、私版で纏めます。私としては年齢的にも、一応完結だと思います。
今までにお渡ししていない「花車」の方にも、一つの記録としてお届けします。御受納頂ければ幸いです。
「河文さん」に飾られていた故女将さんの遺影、数年来、お姿を拝見していたので淋しい気持ちです。ご冥福をお祈りします。
関係の皆様にはご苦労様で御座いました。私も少しお手伝いさせて頂きました。少しはお役に立ったかと思います。
いずれビデオ持参でご挨拶に伺います。
那古野祭考V 7.8
さて、今年は、昨年、戦後初めて「お囃子奉納」をされた「二福神車」が見舞車として百三十年振りの登場という快挙が実現します。神輿も、大・中の二基の登場とか・・。女神輿と子供神輿二基、学校も休みなので、子供獅子も大小五つ、総て登場する場面が見られますか。
後は、天候次第ですが「暴れ神輿」は雨が降っても出るでしょうか。戦前は雨でもやったようですが・・。
私が様子を聞きに那古野神社を訪ねてから七年になりました。七年前には「日曜日は氏子町内の会社が休みなのでやれません」ということでしたが、今年は様子が変わり驚いています。
大変嬉しい事ですが、そこで総てバンザイでは無いので、後来年以降の事が、もう気がに掛かっています。
自分が関わった祭で継続の難しさを過去に経験しているので、断続でも続ける事への準備を怠り無く整えられる事を願って止みません。
神輿担ぎに三十回参加された九十才の方がおられます。昨年、お話した時に「九十才、三十回参加したから、今年で一区切りする」と言っておいででしたが、今年は参加されるのでしょうか。
「戦時中断を挟んでいる」との事ですが、戦後神輿の復活が何時からかは承知していませんが、永田組の皆さんが昭和五十九年から引き受けられたと聞いています。
それから二十二年経過しています。それ以前の、戦中戦後の様子はわかりませんが、九十年の人生の三分の一を担がれたのですから、素晴らしい事です。軍隊では、内地勤務で終戦と伺いましたから幸運でもあったのでしょう。戦前の祭りの様子もよくご存知でした。今年、お目に掛かれるかどうかも楽しみです。
祭りは時代の大きな変遷を乗り越えて続いて来ました。周囲の環境は目まぐるしく変わりましたが、人の心は変わりません。修練を積んだ伝統行事は永遠です。
今年の出来町天王祭で「西之切」の最長老の方が「世代の継承がしっかり出来ているから大丈夫」と言われた言葉に大いに頼もしさを感じました。
初めて見る場面を期待出来る、今年のパワーアップされた「那古野祭例大祭」の様子を色々想像して待っています。
那古野祭考U 7.3
平成十七年は、十四・十五年と、祭列往復路が、一通りビデオ記録が出来たので、仕上げのつもりで「試楽宵祭」と「本祭」の総合取材をしました。
「宵祭」は、夕方六時から「海東神楽太鼓」の奉納。見物の人が蚊に刺されないように氏子の方の蚊取り線香を置いて下さる心遣い。
七時から永田組二番の皆さんの車楽の提灯飾り付け。能舞台では「日本舞踊」「マジックショー」などの演芸。
境内では、復活された「笹提灯」の灯入れも手伝わせて頂いたので「日本舞踊」を少し拝見しただけでしたが、ご近所の「西川流」のお師匠さん(鯉志津さん)の指導か、中々のものと拝見しました。較べてはいけませんが「若宮祭」より上かなと思いました。名にしおう「上の芸者衆」の地ですから当然とも思います。
私の父は、明治三十九年(1906)上長者町三の十二で生まれ育ち、昭和十年(1935)二十九才の頃、医業勤務の為、この地を去りました。二年間の勤務地の桑名で、私が生まれる前年の事です。その後、帰名しましたが上長者町に戻る事はありませんでした。その先代の地を、七十年後の今、私が訪ねているのです。
昭和初期の「名古屋三大祭」の記録映画を見ると、氏子町内の人達の姿や、芸妓連(盛栄連)の姐さんの姿が見えます。
祖母は昭和三年亡くなるまで「盛栄連」や「浪越連」に岸沢派常磐津(唄・三味線)と西川流日本舞踊の教授をしていました。父は道を変えたので私には伝わっていませんが、今も門人の流れの方達が伝えておられる事を知りました。日本の伝統芸能が絶える事はありません。
画面に出てくる「鯱神輿」や「子供獅子」を見ると、春(東照宮祭)・夏(天王祭)で衣装が違います。当時の町内の財力や心意気が感じられます。子供達の走り回る姿。子供達は、その頃の方が今より幸せだったのではないかと思います。
那古野祭考 7.1
私が「那古野祭」に出掛けるようになったのは平成十三年(2001)からです。それ以前も行われていたのでしょうが知りませんでした。
「名古屋の三大祭」と言われながら、戦火により、神社、並びに祭礼の為の殆どの資産とノウハウが失われ、辛うじて焼失から免れた「若宮祭」の山車二輌さえ、祭礼復活は不可能との判断で他町内に譲渡されました。
その後の冷静な判断で一輌は復帰するという程、戦後の混乱は激しいものでした。
戦争は、日本人から多くの有形無形の物を奪いました。このような事は二度と有ってはなりません。
「那古野祭暴れ神輿」は名古屋市内は判りませんが尾張地区では話にも出ません。
名古屋の祭りは「筒井天王祭」が、時々新聞で伝えられるだけです。祭は、一旦途絶えると忘れられてしまう心配が大いにあります。
初めて訪ねた、平成十二年は、土曜日でしたが諸般の事情という事で神輿の登場はありませんでした。
平成十三年は日曜日でしたが、神輿渡御沿道の、会社商店が休日の為、人手不足や給水などの接待が受けられないなどの理由で見送り。
平成十四年になって、ようやく幻の「暴れ大神輿」を見る事が出来ました。それでも、担ぎ手は七十六人がやっとでアルバイトの諸君も居たそうです。その人数では「大神輿」は無理という事で、中神輿の登場でした。
それ以降の様子は既にお伝えしたとおりです。梅雨明けの七月十六日は、かなり暑いです。担ぐ人達の気持ちは想像も出来ませんが、付いて行くだけでも大変です。「若宮八幡社」までは九十分の道中です。初めて付いていった十四年は私は往路だけのビデオ撮影で帰りました。
平成十五年も、出掛けるのを躊躇う暑さ。那古野へは行かず、復路の取材に、若宮へ三時頃行きました。
前年の様子では、当分は駄目だろうと思った「大神輿」が、デーンと境内にありました。前年に続いて参加していた知人の担ぎ手に「オーッ、大きい方だが・・」と驚いて「何人揃った」と聞いた所、八十六人という事です。スペアは無しで、往復共交代無し。担ぎ手も年配者多く、かなり厳しい様子でした。
残念だったのは、帰路の「河文さん」玄関着け。接待後の出発の組頭さんの「木遣り」を、チョッと場を外した間に見逃した事です。
平成十六年も、ギラギラの猛暑に出掛けるのを断念しました。この年で、先代の永田組頭さんが勇退という事で納めの「木遣り」が有りましたがチャンスを逸しました。その事をHPに書いたところ、現組頭さんからビデオを頂けるとのお知らせでDVDを頂戴出来ました。数十年の年期が積まれた寂びのある名調子です。その為、私のレポは十六年は飛んでいます。
十七年(昨年)はスタミナの配分を考えながら、宵祭り、本祭往復完全取材をしました。
唯一、残念だったのは「河文さん」に止む無きご都合が発生。玄関着けが省略された事です。これがあれば完璧だったのですが残念な事でした。
次回に続きます。 |