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らんだむコラム
堀川文化探索隊V 6.22

円頓寺一帯は過去に、二度の大火に遭遇しています。
「元禄大火」は、元禄十三年(1700)二月七日。専修寺付近から出火、専修寺は燃えなかったが多くの人家を焼きました。四間道はその教訓から延焼防火の目的で作られました。
「享保大火」は、享保九年(1724)。円頓寺の堂宇は、その時全焼しましたが、六世住職日養の努力で再興出来たのは享保十一年のことでした。。
二度の大火を経ても、太平洋戦争の戦火からは免れ、戦後も堀川からの碁盤割一帯への物資流通や娯楽の提供で繁盛してきましたが、交通手段の変化と人の流れが変わり、それから衰微しています。
一方では、名士の別宅や、社宅以外には人家も無かった、覚王山から東の丘陵地には全く新しい地域が出現しました。
今も市内に存在する歴史的文化と、欧米調の地帯とをどう両立するかが知恵の出し所でしょう。
明治大正の建築物でも、全く欧米化するのではなく、外観は洋風でも内部は和風という知恵が凝らされています。畳の上で寛ぎたいという日本民族の感性は切り捨てられませんでした。
高層ビル街の中を、祭りの山車や神輿が人の力で進んで行くのは決して奇異ではありません。「それが現代だ!」と思えば良いのです。
「古いから絶えた」では情けない。日時も開催できる所は問題無いのですが、神社が伝統のみに、こだわったが為に消滅したのでは本末転倒です。旧暦から新暦に変わった時にも神社は大きな決断をした筈です。
神社と氏子。氏子の伝統継承の為の世代交流を強くする所へ今の時代は差し掛かっていると思います。
悲観視していても良い結果は得られません。
たゆまぬ努力を続けて居られる人達の行為を無にしない為に声を広げなければいけないと思います。 (終り)


堀川文化探索隊U 6.21

さて本題の「円頓寺界隈」。
円頓寺一帯は、堀川に架かる「五条橋」から、西に向かう「円頓寺商店街」と、江川線から西の「円頓寺本町商店街」を指します。その区分は、以前は、さほど、はっきりしたものではなかったのですが、戦後の江川線の拡張で分断がハッキリしてしまいました。
市電が走っている時代は、東の「円頓寺商店街」は、市電「景雲橋」と、瀬戸電「堀川」からの人の流れと、堀川の荷役の人達で、娯楽飲食で溢れるほどの大賑わい。
西の「円頓寺本町商店街」は、名古屋駅・押切・浄心からの人の流れで共に繁栄して来ました。
いずれも市電の廃止と、瀬戸電の栄乗り入れで人通りが寂れ、店舗の閉鎖が止まりません。人と時の流れが様相を変えました。
幼時、母の実家(瀬戸電堀川駅隣り)へ連れて行って貰った時に行った映画館や市場の揚げ物の匂いは記憶に止まっています。「堀川駅」の出札口の柵の下段に乗って到着する電車から出てくる人達や、「堀川港」への荷の出入りを飽きずに眺めていました。
今も「円頓寺商店街」は、名古屋城周辺へ行くときは、いつも通りますから変遷は知っていますから、特に再確認する事は無かったのですが、今回は頂いた資料を基に、沢井先生の一歩踏み込んだ解説で未知の知識も得られ意義ある経験でした。
「替地町」
この町名は知ってはいましたが、由来によれば、江戸時代は「替地出来町」或いは「新長屋」と呼ばれていたが明治九年に「替地町」と名称が変わったと言います。替地とは「瑞龍公(二代藩主光友公)」の隠居所を出来町に造る事になった(徳川屋敷)。その為、その土地を召し上げる事になり、代わりに与えられたのが「替地出来町」であったという事です。北は「上畠通り(現在円頓寺通り)」、南は中橋の南の「元円頓寺筋」、東は「新町筋(信行院筋)」、西は現在の江川線までの一帯を言います。現在は含めて那古野一丁目になっています。
格子造りの家並みが、道の両側に続きますが、老朽化激しく現代の人には生活が不自由な環境と思います。
私も含めて、たまに訪ねる人は風情があるとか、懐かしいなどと言っていますが、この家並みから去っていく人も多く空家も目に付きます。屋根神様も世話をする人が居なくなり消えていきます。去って行った人達は今どういう暮らしをされているのでしょう。アパート・マンション数あれど、生活格差は変わらず、コストは高く、コミニュケーションは希薄です。伝統行事からも縁遠くなります。時は変われど悩みは付き纏います。
町並みの造りをよく見ると、通りの東側は二階も部屋が有りますが、西側は屋根裏部屋(バンコ造り)で建ちも低いという差があり、生活差が有るのかなとは私の感じです。
何れにせよ、時代の変化で用途を失った過去の文化をどう伝えて行くのかは東区の「文化のみち」一帯の貴重な文化財である建物の存続にも言える問題です。
それにしても、如何に、神社・寺の多い事か。氏神様はもとより末社多くあり、寺も廃仏毀釈の荒波を経ても、びくともせず存在を示しています。
それだけ地域・家族の繁栄と生老病死の苦しみからの救いを願う人々思いの深さを感じます。 
続く。


堀川文化探索隊  6.20

六月十七日、堀川文化探索隊「円頓寺界隈」に参加させていただきました。
この催しは「堀川文化を伝える会」が、数ヶ月に一回、堀川に関わる地域を、主宰者の沢井鈴一さんの解説を聞きながら歩いて訪ねるものです。この会は、かなり以前から承知はしていたのですが、今回、初めて参加させていただきました。
地下鉄丸の内@番出口、二時集合で、円頓寺を中心に探索しました。
午前は青空で、夕方から雨というので雨具の用意は不要と思って出掛けましたが、二時には早々と雨が落ちてきてシトシト降る中を一時間ちょっとの探索でした。
予定では、四時三十分までという事で、二時間半も歩くのかと思って行きましたが、思ったより早い切り上げでした。訪ねる場所が集中していたのと、雨のせいかもしれません。
二時までに時間が有ったので、那古野神社へ行って、来月の祭礼の下見をしてきました。
偶然、東鳥居に五十人程の人の姿が見られ、「何だろう?」と近付くと婚礼の列。白無垢の花嫁と紋付袴正装の皆さんが神官の先導で参道から拝殿への花嫁行列、良い光景でした。数分早ければ、良い写真が撮れたと思いますが暫し別世界を眺めた気持ちでした。
私の両親(上長者町と南外堀町)も、ここで結婚式を挙げたのではと思っています。
以前「文化のみち」(料亭加茂免)の門前で、結婚式の記念撮影の場面に偶然通りかかり、レトロな建物を拝景にした素敵な場面に出会いました。この時の花嫁も、綿帽子白無垢で絵のような風景でした。
「那古野祭」、今年は本祭は日曜日であり、神輿も二基(大・中)登場という噂も有ります。
「二福神車保存会」からの復活行事もあるやに聞き及びます(あくまで噂です)。
昨年は「堀川文化探索隊」は午前から「御園橋周辺の探索と那古野暴れ神輿」という事、で昼頃、境内に居られましたが、相当な暑さに、神輿出立前に解散したようでした。数人若い人が珍しそうに付いてきて、私に「どういう行事なのか」と訊ねられました。今年の予定は無いようです。今回もそうでしたが、高齢の方が多いので真夏、真冬は外の行事は難しいのでしょう。
本題の「円頓寺界隈」に戻りますが次回にします。今回はこれまで。


今・昔U 6.13

堀川シリーズ新刊「名古屋本町ものがたり」が、今年三月発行されました。
「碁盤割」の内、南北のメインストリートである本町を、本町御門内から、橘までの現在までの移り変わりを著しています。
「堀川シリーズ」は四冊目の刊行で、十四年「掘り川端ものがたりの散歩道」、十六年「花の名古屋の碁盤割」、今度の「名古屋本町・・・」の三冊を読みました。「碁盤割」は、戦火と戦後都市計画という大きな変革があり、現在の姿になっていますが、貴重な写真や、僅かに残る、お祭りや繁華街の記録映画でかっての様子を偲ぶ事が出来ます。
私が子供の頃の記憶にある、広小路の「喫茶ライオン」や、大須の「クラブ食堂」は、今は見当たりませんがイメージは浮かびます。広小路通りにあった「名宝会館」「ミリオン座」の姿は消えましたが、先日、御園通りを通ったとき「ミリオン座」が場所は変わりましたが復活再開しているのを見てちょっと驚きました。
大須には戦後も、映画館・芝居小屋が沢山あったのですが、今は「大須演芸場」一つだけ、映画館は一つもありません。
この本には、お祭りの記述も多く「黒船のヘケベケ」では末広町黒船の祭り運営の町内の大変な様子が描かれます。明治以降の有為転変の商家の様子。名古屋築城の際の「若宮」と「三の丸天王社」の城外への移転の経緯。この件では「若宮」の移転はともかく「三の丸天王社(那古野神社)」は三度の神籤でも「移転はならぬ」といわれたものが、軍部の鎮台設置の為に移転という成り行きが書かれています。
「碁盤割」「本町」は事実に基づいた資料と言えます。
掘り川端ふしぎばなし」「散歩みち」は、伝説や言い伝えが書いてあります。
お好みだと思いますが、なかなか面白い話が多く一読される事をお薦めします。


今・昔 6.8

この、昔と言うのは一世代前の明治・大正・昭和についてです。
これを含めた、それ以前の資料は、公的機関(博物館・図書館・歴史資料館など)で調べる事が出来ますが統計とか図表、簡単な解説に止まり体験に基づく記述はごく断片です。
今年、百才になる方は明治三十九年生まれと思いますが、しっかりした人ならば記憶は確かです。第二次大戦終了後六十一年ですが、まだ空襲で多くを失う前の様子を知っている人はかなり存命のはずです。
そういう方達から話を聞く機会は少なくなりました。是非聞いておきたいし、話したい方も居られると思います。
祭りなどに出掛けた時には、高齢の方に声を掛ける機会があるのを望んでいます。
昨年は「名古屋まつり」の「山車揃え」大津通り運行を眺めておられた、お二人のご婦人に声を掛けました。
「私は戦前の若宮祭の、立派な末広町黒船山車を見ています。お囃子に乗って山車が行く姿は楽しい」とのお話でした。こういう生きた話を聞くと嬉しくなります。
伊勢門水(安政六年生(1859)昭和七年没七十三才(1932)氏が、開府三百年の五十四才の年に刊行された「名古屋祭」には「名古屋三大祭」を始め、近郊各所の祭りを、自筆絵図・写真を含め詳細に紹介されています。
その様子を実感された方から話を伺って、次世代に伝える事が出来れば、戦中・戦後に跨って暮らして来た私には幸いな事だと思います。
平成十六年に発行された「花の名古屋の碁盤割(堀川文化を伝える会)400円」を読み返しています。発刊すぐに入手、度々目を通してはいましたが、その後、何度も碁盤割を歩き、目にした風景と照会しながらの復読です。代表の沢井鈴一氏が、多くの資料、会の皆さん、名古屋市中区などの資料収集を纏められ発行されました。
「堀川文化探索隊」は継続して活動されHPでも公開されています。
この冊子は、明治の頃からの変遷と現在に到る様子を伝えている現実感の有る報告で実感が伝わって来ます。
私達の、祖父母、両親がまさに体験した事象です。伝えるべき重要な事柄を多くの人が知って頂きたいと思います。
名士旧家、高級料亭などへの取材は一般人には不可能な事です。多くの生きた情報を教えて頂ける事に感謝申し上げます。
最近はTV局の番組「そこが知りたい坂東リサーチ」などで内部が紹介されることがあります。
「料亭河文さん」には、水鏡と名付けられた池があり、石舞台では、あやめ咲くこの季節、西川流「あやめ会」が行われると聞いたことがありますが、拝見したくても私には縁遠い話です。
「御城下碁盤割」としては若宮八幡社までという事にはなりますが、「町割り」は古渡山王まで、大須門前、芝居小屋が立ち並び花街であった「享元絵巻」に描かれた一帯が姿は変えながらも「花の名古屋」です。
それに加えて「東海道線」の開通で東西南北に拡大し変貌していきますが、歴史だけは見失なわないよう願っています。
まだまだ自分の足で歩き廻る範囲は無限のようです。


写真には戻れない 6.5


毎週、連日、祭り見物をしています。
地元の祭りには、ずっと関わってきましたが、名古屋を主体に、近郊の祭り見物と取材を始めたのは、十二年前の平成六年(1996)頃からです。
ビデオを始めたのは、それより早く、平成二年(1992)には、一時復活した、わが町内の「若殿行列奴踊り」を記録しました。
その頃は、Hi8でアナログでした。8ミリムービーは、昭和三十九年(1964)長女誕生から始めました。ムービーは、経費膨大で数年で断念しましたが、長い空白の後、ビデオカメラの登場で動画記録復活、現在に到りました。
ビデオカメラの普及で、今では珍しく無くなると同時に、アマチュアの限界も見えてきました。
プロの技術は、空撮や無人クレーンによる立体取材が普通になり、イベントなどはアマチュアには取材は無意味になりました。
ビデオ取材は、ストーリー性が必須で、事前にスケジュールを立てておかないと断片ばかりになってしまいます。
一通り、何とか連続したものを作るには、三年は掛かります。祭りの場合は天候も左右しますから五年掛かって、やっと一通り出来たかなと思えますが、これでも表面だけです。内部の取材は、関係者、或いは権威か資格のある人しか立ち入れないと思い遠慮しています。
然し、それでも続けて来たのは、ビデオの魅力の「音と動き」です。ビデオは、持続した撮影ですから体力と集中力も必要です。カメラが小型化し、デジタルになりファインダーが液晶画面になっても、画面からは目が離せません。周囲への気配りも必要です。
私の事になりますが、名古屋の祭りの取材を始めて十二年になり、アナログ時には非常に手間が掛かった編集もデジタルは作業が楽になり、DVD製作まで進化しました。
今年は、今まで取材していながら、お渡ししていなかった過去の映像を、関係の方にお渡ししています。
街も変わり、人も変わって行きますが、祭りは変わる事無く、ますます盛り上がりを見せています。永遠に引き継がれて行く事でしょう。
今年は徹底して、ファインダーからは目を離して裸眼で街並みを含めて総体を観察し直しています。今までは山車、お囃子、楫方など、華やかな所に捉われがちでしたが祭りを構成する街の様子、世代の繋がりなど広い世界が見えて来ます。
集中力の低下もあり、ビデオを辞めて、スチールとも思いましたが、それは出来ません。音も動きも無い写真には今や戻れません。
音は無くてもムービー、立体音も動きも再現するビデオ、それに色々な加工が加えられ自己表現が出来る編集などの経験をしたら、もう戻れなくなります。
一通り裸眼観察の後、また違った視点が見付かれば再スタートしようと思います。


ねぐらの街 5.26

中日新聞の小欄に「ねぐらの街」という文がありました。
文中では、「ねぐらの街」というのは尾張旭市を指しています。つまり、住まいは尾張旭市に有りながら仕事や勤務は名古屋であり、生活資材も文化体験も名古屋で、自らも「名古屋人」だという人が、いわゆる「ねぐら(寝るだけの場所)」として尾張旭市に居るだけという事への指摘です。これは、そうさせる行政の責任もあります。
かく言う私も、住所は違え同じ感覚を持ち続けて来ました。十才まで育ち暮らした名古屋の暮らしが、空襲による焼失と、父の戦死という二重の悪条件で、止む無く母の実家一宮に転居、現在に到りました。空襲で一時40%の人が止む無く名古屋から去りました。
私も、父が生還していれば経歴から見ても、当然、名古屋に生活の場が確保されたのは確実ですが、それは戦死により潰えました。
実は、祖母(母方)は、一宮に生まれ育ち結婚し子供も生まれましたが、明治末から大正にかけての名古屋の文化発展に関心強く、自らの先進的な性格もあり、子供の高等教育への利便もあり、遂に尾張郡部に居た堪らず、一家を伴い、名古屋市西区(現中区)南外堀町に転居を実行しました。それは一応成し遂げましたが、その後、家族の病気、戦争などにより完遂までには到りませんでした。祖母は昭和十一年十一月、五十才で亡くなりました。
南外堀町の借り家は、名古屋城内に駐屯する師団司令部と共に標的になる危険があり、空襲対策上強制撤去取り壊しとなり、昭和十九年外堀一帯の家屋は消滅しました。いずれは名古屋城と共に一帯は消える運命では有ったのですが・・。
それで、祖父達は管理委託してあった一宮へ戻って居た所へ、昭和二十年三月、被災した私達も共に住む事となり今に到りました。
戦後からの混乱と、条件の大きな変化で思うように行動は出来ませんでしたが、私は「名古屋に帰る」という意識は持ち続けて来ました。いろいろ手段を考え実現可能と思えた事も有りましたが、何しろ中心部への回帰が希望ですから望みは、ますます遠のくばかりでした。
とやかく考えている内に、利便性や費用などで名古屋駅までは三十分で確実に行き、費用もJR往復580円、不便な名古屋市内より却って便利になりました。
こうなると「ねぐらの街」と割り切れば、心は「名古屋人でも良いではないか」という事になります。
と言っても、六十年以上暮らして来た生活の場ですから、恩義も有り、交流も密接です。
子供会などの諸役から町会長まで、精一杯勤め、総て終了しました。義務は果たしたと思います。
「何が不満だ」と言われても苦笑するしかありませんが「少しでも広い世界に生きたい」という気持ちは今も無くなりません。
大正ロマンのモダンな上昇気流に飛んでいた祖母が、私を養子に指名し半年後に亡くなったのですが、そのDNAの為せる業もあるのかと思います。
この年齢になると、要らざる気配り遠慮も無く「本音」を発言出来ます。
「尊厳死宣言」と同じように正常な判断が出来る間に「為すべき事を為す」のが使命と思い行動しています。


祭の楽しみ再認識  5.18

十六日は「若宮祭り」に行ってきました。
午前中、しとしとと雨が降り山車の運行は出来ないかなと思い、殆ど諦めていましたが、昼過ぎて、はたと雨が止み明るくなったので、若宮さんにTELした所、時間を遅らせて那古野神社までは行かず、広小路までの氏子町内運行を行うとの事で、急いで出掛けました。広小路Uターン直前の岡谷鋼機ビル前で、からくり演技中。そこから道行にお供して来ました。
先日の「知立祭り」も、その日の朝の新聞記事に触発されて急に出掛けるという変な事をしています。
祭り見物は、名古屋周辺地域は限られていますが、十年以上続いて訪ねて来ましたが、一応、締めくくりの時が来たとの思いがあります。人波をかき分けてビデオを撮る気迫も体力的に薄れて来て、祭り見物に行く目的が希薄になったとの思いもありました。
今年になって、ビデオを撮るだけではなく、祭り全体を見る事に視点を変えました。ファインダーの中の切り取った世界にこだわっていては、360度の視界が見られない事にも気が付きました。
祭りは、見る人全世代に対応している事がわかります。山車や神輿の祭りは、それを動かす若い世代がヒーローですから、それだけに目が向けられ勝ちですが、未来のヒーローを目指す子供達の目の輝きや、表からは見え難い、お囃子の演奏者、祭り全体を運営指導する長老などの目立たない蔭の努力があります。
元気を失っている人にはパワーを呼び起こし、疲れている人には癒しを与え、普段の生活では出来得ない変身の魅力により、心の活性化を齎します。
やるだけやった結果、言えるのかも知れませんが、記録にこだわって実はもっと大きな姿を見逃していたのではなかったかと思います。
ある俳優が言っていました。
「多くの人達と出会う事があるのですが、自分の顔を見てくれない。見ているのはビデオやデジカメや携帯のファインダーの画面。これではコミニュケーションにならない」。その通りだと思います。
せっかく、多くの人達が長い準備期間と色々な努力を重ねて積み上げられる行事ですから丁寧な楽しみ方で心を癒したいと思います。


知立祭り 5.5

今まで、祭りは専ら名古屋主体で尾張では犬山、岩倉は行きましたが三河、知多へは行っていませんでした。
名古屋は十年以上、毎年出掛けていますが、まだまだ奥は深く終りはありません。元々、名古屋育ちなので、名古屋にリターンし仲間に入って醍醐味を味わいたかったのですが果たせませんでした。
ところで、三日の朝までは全く考えていなかったのですが、「知立祭り」の新聞記事を見て、一年おきの「本祭」が行われているのを知って出掛けました。
「からくり山車」は、随分見てきましたが、義太夫浄瑠璃に乗せて「からくり」「文楽」が操られるというので「歌舞伎」など古典芸能好きな私は好奇心をそそられました。
予備知識不足のまま出掛けましたが、時間的にも案外近く40分程で行けました。行って見て「山車」も五輌と立派な姿です。老若男女総出の活況で「知立神社」も国重文の「多宝塔」が有り、町並みも東海道筋の宿場の面影をとどめる大きな商家が見られます。本陣跡は石柱を残すのみですが建っています。
細かい説明は「とわであれ 文化・芸術・伝統芸能・知立のからくり」というHPが詳しく伝えています。
「山車」「からくり」「文楽」「義太夫」「三味線」の解説が丁寧に紹介されています。
境内では少女の「巫女舞」と神楽囃子による「お祓い」も行われ幼児らが鈴払いを受けていました。神楽囃子も快いものです。
境内「山車総揃え」の後、順次「からくり」「文楽」の奉納が行われました。
詳細は前述のHPの通りですが、山車で文楽を上演するのは全国で唯一で、昭和五十四年には「国指定選択無形民俗文化財」を受けています。国立劇場での「民俗芸能祭」にも出演し、県芸術文化センターの「ふるさとの芸能」にも出演しています。
今年の演目は「一の谷合戦(からくり)」「傾城阿波の鳴門、巡礼の段」「日高川入相花王」「壺坂観音霊験記」「伊達娘恋緋鹿子」ですが「一の谷・・」「傾城・・」の二つを見て、後は次回としました。
いずれも、太夫生語りです。「一の・・」は男性、「傾城」は女性でしたが、なかなかの熱演で感心しました。
人形も頭のみが残っていたのを復活。振り付け「浄瑠璃」の譜起こしなど、殊に三味線は一時外部の人の指導を受け自前で出来るようにしたなど並々ならぬ努力があったようです。
「日高川」はテープのようでしたが見ずに帰りました。「伊達・・」は、お馴染み「八百屋お七」の櫓登りがセットされていました。これは一宮には「島文楽」があり上演されます。
見るべきものは沢山あります。「山車」と「古典芸能」という贅沢な内容を祭りで表現するという圧味のある内容の「知立祭り」に感服した次第です。
詳しくは何れ又。


冬ばて 5.2

この冬は、十二月から寒くなり四月も寒かった。相当、ウォーキングはやっていたのですが、すぐ冷えてしまいます。
五月になって、いきなり30℃という真夏日になりましたが、やっと身体が緩んできました。やはり自然には逆らえません。普通の気候が如何に有り難い事か。雪除けは二度やりましたが豪雪地帯のご苦労をお察しします。
いつも冬は駄目なのですが、今年は十二月、四月と二ヶ月プラスの五ヵ月の間の冷えで相当な体力低下で参りました。寒いからTVも見るほどのものも無いし、起きていればヒーターも要るので風呂から上がってサッサと寝床に入るとすぐ寝てしまう。それを繰り返していたら、夜中に目が覚めて眠り中断、再び眠るという二度寝。朝は決まった時間、6.30起きで冷水摩擦(四年目)後、近くの神社へ「佐藤桜」の観察も兼ねて散歩。これは三十五年続いています。
ここまでは良いのですが、昼頃になると猛烈な眠気で動けなくなります。
先日、NHKの「ためしてガッテン」で不眠をやっていましたが「体内時計」が狂っているのが大きな原因とか。「無呼吸症候群」のような病気は別ですが、私も「時間の割には寝ていないのか」と、もう少し起きている事にしました。
老人は早起きかと思いきや、かなりの人が深夜までTVを見ているようで「朝起きられない」そうです。朝遅いから寝つきが悪く眠れないという私と逆の人がかなりいます。

ところで、市川団十郎さんが白血病治療を終えて舞台復活をされました。インタビューによれば抗癌剤による相当な苦しみを経られたようです。「成田屋ホームページ」で自ら「入院日記」を書いておられました。
身近でも癌患者の方々の苦しみを聞きますが想像を超えた苦痛の日々は辛い事とお察しします。
その事を思えば「冬ばて」などと言っていてはいけないなと思います。
年齢相応の体力はわきまえながら暖かさを享受したいと思います。


石刀祭 4.23

ここ数年行っていなかったのですが、久し振りに見て来ました。
以前は、二日前の「中屋敷」山車の組上げから、当日、祭礼終了、分解サヤ納めまで数年に亙りビデオ取材しました。
今回は何も持たず、ノンビリ見物しました。何もしないで自由な場所から眺めるのは、こんなに楽なものかと思いながら「こういうのも必要だなぁ」とビデオカメラ取材に集中していた時は気が付かなかった事を感じました。それは地域の情景を含む全体を見渡せた事です。カメラ取材に集中している時は位置の確保や細かい仕様、動きなどを見逃さないようにと、こだわりました。それはそれで大いに結果は得られましたから一つのゴールだったのでしょう。
今回は三輌の山車の大きさ、造作の違いなどを改めて見直しました。
祭りの行われている地域(合併前の一宮市でも最北端の特殊な地域)の特殊な背景と、携わる人々の意識を感じました。空襲で二輌を失う前は五輌という山車祭りを行っていたのですから、財力・地力も相当なものです。山車の他にも飾り馬の奉納が七頭あり、からくり奉納後に境内・参道一周で祭礼は終ります。
山車は犬山・枇杷島などからの譲渡でオリジナルではありませんが、祭りを始めた人達の心意気を思い直しました。
万博に登場した豪華絢爛、パワーに溢れた地区には及びませんが、地方の片隅で、老・壮・少(若が居ない)が地元だけで、後継者は気になりながらも自分の役目は果たすた態度には静かな感銘を受けます。
見た目は派手でも継続性の無いイベントに虚しさを感じたら、延々と引き継がれている伝統芸能を基本から身に付けて奥の深さを体験して欲しいと思います。
「それが遣り甲斐のある楽しみ」だと後進に伝えたいと何時も感じます。


ネイチャーラン 4.19

佐藤良二さんの「太平洋と日本海を桜でつなぐ夢」を辿る、「さくら道250K36時間国際ネイチャーラン」は、今年で13回になりました。
第一回は二十人程でしたが、一宮通過時間の見当がつかず応援に行った時には既にランナーが走っていて、十人ほどを見送りました。第二回は土砂降りでしたが、一人で全員を見送りました。断片を紹介しています。
十三年目になり連続出場だけでも大変な事ですが、時間内完走の方が居られます。超人の域を超えて感嘆するばかりです。北海道の吉越さん夫妻です。初めの頃は「夫唱婦随」でご主人が完全主導ペースでしたが、ここ数年は「婦唱夫随」に逆転。タイムリミットすれすれが続いています。今年も出場されますがご夫婦共に連続完走される事を念じます。十三年の経過は大ベテランの方も相当きつくなって来るのは当然で年々苦戦が続きの様子です。
私は走る人ではありませんが、連続応援を続けています。
連続出場のベテランは他にも居られますが馴染みの顔は十人程になりました。
今年も、いつものように近くの裁判所佐藤桜(スタートから20K地点)の傍で横断幕を掲げ声援を送ります。


今年のさくらは 4.8

今年の桜は、何かおかしい。
「さくら道」の傍に住んでいるので、春夏秋冬、毎日眺めていますが、今年は枝の育ちも花の付き方も貧弱です。
数本の木は今年は花が咲かないのではないかと思える様子でした。
やっと、ここ数日で満開に近くなりましたが花の数が少なく透けスケでバーーッと咲いていません。これは他の木を見てきてもそうです。寒さが長いのが、その原因と思います。
四月第一日曜は、各地は祭り一色ですが、雨と寒さと強風で出掛けられません。
それでも、祭り好きは「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ冬ノ寒ニモ負ケズ」出掛けているようですが、私は行けません。
数年前は、岩倉まで自転車で30分走り「岩倉祭り」続いて、電車で「犬山祭り」とビデオ撮影しましたが、桜満開ポカポカでした。今年とは雲泥の差です。私の気力低下だけでは無いと弁解しておきましょう。
裁判所の「枝垂れ桜(佐藤桜)」の太い幹の一本が、昨年から不調で枯れが進んでいます。早く切って消毒、切り口塗布をして欲しいのですが裁判所公有地で口を出せません。
稲沢赤池の「八重桜(佐藤桜)」は、台風で傷んだ枯れ枝を切ってペンキ塗布、新枝が順調に延び回復顕著です。
木曽川クラボウ「ソメイヨシノ(佐藤桜)」は、ショッピングセンター開業移植で、去年は、やっとチラホラでしたが数日中に見てきます。
人ごみ掻き分け、ビデオ取材も難しくなったので、ムキにならずに、のんびり楽しませて頂きます。
スタミナたっぷりパワー全開の「祭り好き」の皆さんにエールを送ります。


ビンテージ 3.29

PSE表示の無いものは売買禁止という事で一騒ぎありました。
取り敢えず、見送りと言う事になりましたが今後の成り行きはどうなるのでしょうか。
わが家にもビンテージ品が有ります。SONYのβビデオレコーダーです。ガタガタです。録画テープが、かなり有りますので時々再生しています。
テープの出し入れを自分でしてくれないので上のカバーは外したままで手で強制してやります。
βはVHSに敗れましたが画質は素晴らしく鮮明で私は好きです。製造は相当以前に中止されているので中古品はビンテージで安くても50.000円以上します。機器が無くなればテープはゴミになります。過去には8ミリムービーが消滅しカメラ店で高い料金を払いビデオに変換しました。変換を繰り返し今はDVDになっています。
古い写真もセピアならぬ黄変していたものをカメラ店でネガにするのに高い料金を払ったので近所のカメラマニアの人に接写カメラを借りて安く作りました。今は、デジカメ、パソコンで加工も自由自在、プラス面も多大ですから隔世の感があり考え方も色々です。
ビンテージになるか、ならなくても、何れは製造終了、販売禁止の可能性が次に考えられるのが一連のテープ関連の撮影・録画・再生機器とMDではないかと思います。Hi8は事実上終了です。DVもテープ関連が先行き不明です。
MiniHDDの登場で、既にミュージックプレーヤーが市場を席捲しています。テープは脆弱で古いプレーヤーで巻き付などを起こすと復活出来ません。貴重なテープはDVDなどにバックアップする事が必須です。
アーカイブスを失う残念な思いをしない為に貴重な記録は面倒でもメディア変換をしましょう。


葵町1940〜 3.28

2008年(平成二十年)区誕生100年という事で記念事業が計画されています。
その一環で、ホームページが立ち上げられました。それとのリンクという事で私が暮らした1940(昭和十五年)から昭和二十年三月十九日の空襲被災で、その地を去るまでの想い出せる限りの記憶を辿りたいと思います。
六十年前の事ですから差し支えの無い程度に、屋号、実姓は述べようと思います。
幼時(5〜9才)の記憶ですから思い違いが有ることを考慮して下さい。
あくまでも私の主観である事をお断りしておきます。
知る限りの資料の裏付けはします。
まず、固有名を列挙します。
「葵町」
葵国民学校・アメリカ領事館・旧名古屋高等女学校校舎・尾張時計・安藤内科小児科医院・加藤産婦人科医院・石原助産院・榊原・佐藤・竹内・小沢・渡辺・長谷川・佐々・駄菓子屋・木立ちのある稲荷山・葵国民学校K先生など。
「新栄町」
市電電停・交差点北東角から東へ、銀行・書店・喫茶店・銭湯。交差点北西角、栄楽亭食堂。南西角の南にレコード店など。
「小川町」
葵町の西は、寺とその墓地。墓地に沿って北へ行くと布池の銭湯。近くにアイスクリームの店。
「布池」
市電電停・南東角に、東区役所、桜通りを隔てた北に大洋商工ビル。
「代官町」
布池から北へ、東側に弓道場・代官町商店街入り口角に音羽館(映画)など。

個別の資料は順次記述します。
私は「安藤内科小児科医院」の次男です。当時の生活状況はプライベイトな事になりますが、差し支えの無い範囲で、その時代の暮らしぶりを具体的に記述します。


なごや東区百年 3.13

名古屋市東区は、明治四十一年四月(1908)、名古屋市に初めて区制が施かれた際、広小路通の北側のうち御幸本町から東側を区域とし、藩政時代の武家屋敷の町に、その空き地を利用した軽工業地帯、街道筋の商業・住宅地区を中心に誕生しました。
その後、合併や分割などを経て、昭和19年2月に、ほぼ現在の東区に近い形ができあがりました。平成二十年(2008)に誕生百年を迎えます。
この度、その記念事業を迎える為の準備作業を始めるに当たり「東区百年ホームページ」を立ち上げ、その歴史と現在未来への指針とされる方針とのお知らせを頂きました。
私は、昭和十五年(1940)から、二十年三月十九日の名古屋空襲により、止む無くその地を去るまで、葵町(現在・葵1)の、「名古屋女子文化短大」の西北角に居住していました。
そこでは、両親兄弟妹六人で暮らし、父は「内科小児科医院」を開院しました。母は昭和十年に移転するまで、東北角の電車道沿いに有った「名古屋高等女学校(現名古屋女子大)」を昭和三年卒業しており、その地縁で鶴舞公園傍の板橋町から転居してきました。
私は、昭和十七年(1942)四月、「葵国民学校」に入学、空襲被災まで多感な少年期に多くの生活体験をしました。昭和十六年十二月八日、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発。戦時一色になりましたが、十九年までは街は近代化の活気に溢れ両親と共に文化の先端の中での暮らしでした。
その後の三年の、短い間に、母の急死、父の出征、そして戦死、空襲被災と、百八十度の急展開で、殆ど総てを失いました。それからは、戦後の混乱も有り、十年近く葵町へは行っていませんでした。
それから、当時の記憶を頼りに近辺で訪ね歩きましたが、都市計画による大きな変化や戦災消失で四散した人達には一人も再会出来ませんでした。それ以来、断続的に調査は継続し1998年8月9日、東生涯学習センター(葵1)で開催の「東区の空襲の事実をほりおこす」に参加、体験発言をさせて頂きました。
その時、資料報告をされた高木傭太郎さんに頂いた、昭和八年「居住者図」コピーにより記憶の具体的な裏付けを進めてきました。時々生涯学習センターへも立ち寄り「風は東から」などで断片情報を得て来ました。それも限界に近づき一応「葵町探訪」は「完」とした所です。
今回、センター所長さんから「東区百年ホームページ」開設に、私のホームページの東区関連情報へのリンクのお話を頂きましたので不充分ながら、お伝えさせていただく事に致しました。
そうなると、再点検の上、散らばっているものは纏め、当時の家並みや生活環境、体験も思い起こし追記しようと思います。
年齢的には、私が戦時記憶の最終年代と思います。同じ思いを持っておいでの方の情報を知る機会が出来れば幸いだと思います。


・NET Express 3.8

「Express」は、「VisualStudio・NET2005」の最小バージョンです。最高は「Team Site With MSDN Premium」で定価1.500.000円。桁間違いではありません。150万円です。開発ツールがフルセットになっているのだそうですがバリバリのプロの為の物ですから普通の人には程遠い物です。
一般に使われているのは「Professiona Edition with MSDN」 という事で、16万5000円です。既に前のバージョンを持っている人はアップグレード、12万4000円です。
私は何も持っていませんが、プロでも無いのに高価な物は買えないので雑誌からの情報でβ版を利用してきました。利用制限は有ります。市販本を参考に一通りは動き、勉強にはなりますがヘルプは英語なので行き詰ります。
「Vs」は「・NET」の前の「Vs6.0(Vr6.0)」が、かなり普及しているようで、「・NET2003(Vr7.0)」は仕様の大幅な変更で普及が進んでいないようです。
この二月に発売された、「VS2005(Vr8.0)」は「(Vr6.0)」の使いやすさを復活させ、その他の面でも大幅な機能アップが図られました。これで普及が進むだろうとの情報です。
ところで「Express」はパッケージ(マニュアル付き)4.800円という事ですが各言語(VB・C#など)は単体です。
Webからは、一年間限定で無料ダウンロードできます。私はVB・C#をダウンロードしました。
かなりの機能アップです。購入してきた前のバージョンのプログラム本から作った物を変換して見ましたが、簡単な物は良いのですが複雑な物になるとコンパイルエラー続出です。
まだ発売されたばかりなので市販本は小・中学程度の教科書本(VB・C#のDVD付き)が一種類出ただけで、アプリケーションのプログラム本は四月にならなければ出てこないようです。
雑誌記事を見ながら試していますが画面入力にも新しい機能が増え相当負担は減ります。名称変更や機能変更もあるので入門解説書の発行を待っています。ヘルプは日本語なので読むことは出来ますが雑誌批評にも有るように分かり易い説明が望まれます。
さて「きさらぎ」から「弥生」へと季節は変わりました。私も二月三日で大台に乗りました。健保の医療費が高齢者対象になり一割となりました。自分は楽になりますが、皆さんにはそれだけ負担を掛ける立場になりました。現役の皆さんの手助けを出来る範囲で出来ればと思います。今月末で地域の端役からも総て退きます。
大台になって「さて、どうしたらいいものか」と、ずっと考えて来ましたが思い付く事も無く目的も一応達成したと思えるので「何を・・」と思案して来ました。
「・NET Express」という、新しいカルチャーの入手で暫く、脳のトレーニングが出来ます。
「Nintendo DS」が馬鹿売れのようですが私も負けないように「脳トレ」に励みましょう。


トゥーランドット 3.1

トリノオリンピックは終わりました。日本成績の事はともかく、荒川静香の金メダルには賞賛の拍手を送ります。
プッチーニのオペラ、トゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」が多くの人に知られました。開会式のパバロッテイが歌うという前触れのような事も有って一層話題が大きくなりました。
私が「誰も寝てはならぬ」に触発されたのは、1984年公開の映画「キリングフィールド」の中の一シーンでした。
「キリングフィールド」は1973年、カンボジア内戦取材特派員のニューヨークタイムズのシドニーシャンバーグ記者の実体験を映画化したものです。シャンバーグは、ピューリッツア賞受賞と言う栄誉に輝きましたが、取材の功績は現地での通訳兼ガイドであったディス・プランの手助けなくしては達成しなかったと受賞の席で発言します。
1975年、クメールルージュのプノンペン接近で、シャンバーグはプランの家族をアメリカに脱出させます。プランはシャンバーグと共に止まり、捕らえられたシャンバーグと同僚の危機を救います。最後の避難場所フランス大使館から脱出する事になりますが、プランのパスポートの偽造に失敗、プランは取り残されます。
ピューリッツァー賞の場で、同僚がプランの捜索の努力不足を責めます。プランの家族を訪ね絶望の姿に打ちひしがれる姿を見ます。自宅に帰りシャンバーグが聞くLPが、トゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」です。
何となくTVのスイッチ押すと、ニュースでニクソン大統領がカンボジア侵攻の正当性を強調し、B52の空爆、逃げ惑う住民の姿が画面に映ります。朗々たるテナーが部屋に響きシャンバーグ表情は空ろです。
私は、その時にはどういう曲なのか知りませんでしたが感情を揺さぶられました。曲名を知ったのは後日です。
カンボジアに残されたプランは、ポルポト政権の極端な共産主義の虐殺の場(キリングフィールド)中で身分を隠し耐え忍びます。
1979年僅かなチャンスを掴んだプランは、累々と屍や白骨が連なる「キリングフィールド」を彷徨い、山野を越えタイ国境に辿り着きます。
連絡を受け取ったシャンバーグは、タイ国境の難民収容所へ駆け付け四年ぶりに再会。抱き合います。
その時、流れるのがジョンレノンの「イマジン」です。それまで、私は「イマジン」もよく知りませんでした。
「イマジン」も、トリノ開会式で、オノヨーコが平和のメッセージを訴えアーテイストによって歌われました。
「キリングフィールド」で私に感動を与えた二曲が偶然にも新しい感動を再び呼び覚ましてくれました。
映画についての批評は様々ですが私には無関係です。戦争の影響を大きく受けた実感でストレートに感動しました。ドキュメンタリ−かと思う程のリアルな作品でライブラリーにしてあります。
「イマジン」は娘の結婚式の花束送呈のBGMにオルゴール演奏のテープを探してきて流して貰いました。家庭生活の平和を願う気持ちからです。円満な毎日を送っています。


葵町遥かなり 2.22


二十一日、覚王山の墓参の帰途、暫く歩いていなかった覚王山通りから池下、今池、千種、を通り車道へ。
右折、桜通りで左折。布池交差点左折。葵の東生涯学習センターへ行きました。
一月八日、訪ねた時「風は東から(文化・情報・広報誌)」29号を頂いてきましたが、かって葵国民学校に隣接して存在した「アメリカ領事館」の写真が掲載されていました。
それは「葵小学校80年誌」からの転載という事でしたから、今度お訪ねした時に「風は東からバックナンバー」と「葵小学校80年誌」を拝見したいとのFAXを送ってありました。
「風は東から」は、1・4・8月発行ですが、その中に(東区いまむかし)というコーナーが有り、昭和二十年前後の様子が語られています。今、公的機関を訪ねても、戦後世代の人達が多くて話が通じませんが、そのコーナーで私が住んでいた昭和十五年から二十年三月十九日の空襲被災の頃までの様子を高齢の方が語られています。
空襲によって総ての資料や知人との接点が失われ、幻の記憶を証明出来る物を探し続けてきました。空襲というのは火事とは違い何一つ残りません。総てが燃え尽き、残るのは一面の灰のみです。「何か残っている物が無いか」とかなり焼け跡を探しましたが金属(ミシン・食器など)もグニャグニャに曲がって何も手にする物は有りませんでした。
本当に「着のみ着のまま」でその場を去りました。人の遺体さえも行方不明になるいうのが空襲の実態です。
「葵小学校80年誌」は生涯学習センターには無かったので葵小学校を訪ね見せて頂きました。
裏表紙の古地図と、僅かに記載の学童疎開、空襲の記録のページをコピーして頂いて来ました。
そこで初めて知った事。空襲で一帯が被災したのは昭和二十年(1945)三月十九日午前二時頃からですが、翌二十日は六年生の卒業式だったのです。その為に六年生は疎開先から一時帰宅していたのでした。卒業証書には児童名が書かれ用意されていました。葵国民学校では日直であった女の先生がその卒業証書を学校から運び出し火の中を避難されたという事です。卒業式は遂に行われませんでした。
三年生以上は集団、或いは縁故で疎開し、学校には100人ほどの生徒が残っていました。通学は先生は鉄兜、児童は防空頭巾でした。防空壕への避難訓練や分団での帰宅練習も有りました。
葵町周辺で空襲前の様子を留めるものは殆ど無くなりました。布池の「大洋商工ビル」が僅かに当時の面影を伝えています。桜通りの拡張で「東区役所」は姿を消しました。
「風は東から22号(まちかどレポート)」のレポートでは「大洋商工ビル」は地下室諸共北へ20メートル引かれました。
隣接する「陶磁器センター」も同じように引かれ南半分が増新築されました。裏道に回ると旧館の姿が見られます。
車道商店街も錦通りによる分断もあり旧商店は殆ど姿を消しました。各地の下町商店街は消滅の一途です。
覚王山から広小路への町並みは今はビル街になりました。
私の想い出の「葵町」は今は存在しません。町名変更により「葵」となり旧町名は公式には無く旧地図での参照が必要になりました。
市中心部では道路標示に旧町名を表示アピールしています。非文化的な行政の無神経さには呆れますが歴史認識を失う事の無いように個人の自意識を失わないようにしたいものです。
私の記憶の「葵町」は遥か遠くに去りました。
「尾張御下屋敷」の歴足探訪は続きますが、私の「葵町探訪」は「完」とします。


三響
會「船弁慶」 2.18

前述の「三響會」での「船弁慶」。
今回は前半(前シテ)の静御前との別れや、弁慶・義経・四天王の出は無く、知盛の霊のみの出でしたが如何にも「面」が怖い。怨霊の「面」にも色々有るようですが僅かな顔の向きで凄みが変化します。
歌舞伎の「船弁慶」の隈取りも怖いのですが、怖い感じ方が違います。
歌舞伎は動きが激しく多くの趣向が有ります。
当代では富十郎の「船弁慶」が代表されますが、丈は「幕が引かれてから花道幕外での、激しい太鼓・笛による所作の後の引っ込みが堪らない」との芸談です。尚、歌舞伎の知盛は「義経千本桜」「船弁慶」共に白装束ですが、全く能は違います。
「能」は「歌舞伎」のような激しい動きは少ないのですが、それだけに僅かな動きや息詰るような「間」が緊張感を高めます。囃子のみの舞は気迫溢れる掛け声と共に凄まじい雰囲気を醸します。
掛け声の基本は「ヤ・ハ・ヨーイ・イヤ」の四種類という事ですが、場により様々に変化します。「石橋」では「ハーッ」という獅子の息使いが表現されます。
当代の囃子方には、望月朴清・堅田喜三久という兄弟の人間国宝が居られます。望月さんは歌舞伎囃子方です。
堅田さんはフリーという事で多方面で活躍されています。堅田さんは歌舞伎は勿論、舞踊、民謡、俗曲など鳴物界ではマルチな方でレコード・CDのジャケットで以前から頻繁に名前を拝見していました。
昨年、朴清さんが御兄弟と知って驚きました。堅田さんは若い時、左効きで思うように音が出なかったのを朴清さんに厳しく直されたそうです。
私は、囃子は地方(長唄や三味線演奏)に合わせているものだと思っていましたが、そうでは無く、九割は囃子方の感性、一割が地方と語られます。囃子方は地方の前に位置されますが、後ろから聞こえる音との勘を鍛える為、眼をつぶって五十歩歩きとか、荷物を両手に持って階段二段降りなど反射神経を絶えず働かせる「勘と意気」の気合が肝心というお話です。
等々、全曲ではありませんでしたが、長唄と能の違い、それに囃子の表現法がよく判った舞台でした。
「悪霊しだいに遠ざかり」「引く汐にゆられ流れて跡白波とぞなりにける」が、地謡と長唄で語られ、三味線の一音で締められ「船弁慶」は幕となりました。


三響會 2.14

「三響會」というのは、亀井広忠、田中傳左衛門、田中傳次郎の兄弟の会です。
三人は、父が能楽師・亀井忠雄(人間国宝・葛野流大鼓方)。母は田中佐太郎(歌舞伎長唄囃子方田中流)という邦楽界での名家に生まれ育った三十才を頭にした若者です。「三響會」は五年前から活動を開始しています。
一家の中に「能」と「歌舞伎」という二つの流れを酌む環境を活かし活発な活動を展開しています。
二月十一日、NHK教育TV「芸能花舞台」で、今回の「三饗會」の公演の内「船弁慶」「石橋」が放送されました。
この二つは、何れも三人の囃子(小鼓・大鼓・太鼓)を中心に、笛と蔭囃子を加え、長唄(唄・三味線各五人)と、能(地謡五人)の掛け合いです。
「船弁慶」は、知盛の霊を観世喜正が舞います。「石橋」は、親獅子が「能」の梅若普矢、子獅子は「歌舞伎」の中村勘太郎が踊りました。
放送の前に三人のインタビューがありました。まず「こういう事が出来るかどうか?」から始まったそうです。まず本のコピーをし文字通り能と長唄の切り貼り、そして「能」の舞と「歌舞伎」の踊りの融合、囃子の間取りなどの作業を経過しての完成という事でした。これは「決して新しい事ではなく伝統の上に立つものです」という言葉がありました。
「素晴らしいものを見た」という感動があります。「能」だけでは判り難い事が非常に多いのですが「歌舞伎」長唄・踊りという華やかな表現が同じ演目の「能」を分かり易くするという大きな効果を実感しました。
弘忠さんは「三饗會は続けなければいけない」と改めて思うと言っていました。
私は今まで「能」はあまり見ていませんでしたが凝縮された物凄さを感じました。
舞台(今回は新橋演舞場・一部橋懸)の上での歌舞伎の「隈取」と能の「面」の効果の違いもよく判りました。
演奏・舞・踊りの素晴らしさは次の機会に書く事にします。


「古希」だそうです 2.4

「古希」とは「古きこと稀なり」という中国の故事に基づく謂れだそうです。
二月三日、私は七十才(古希)となりました。稀な人なのでしょうか。七十才に達する人は何パ−セントなのでしょうか。心身共に正常な人は何パーセントなのでしょうか。
同年では昨年、元監督仰木さんが亡くなりました。長嶋さんはご承知の通り。指揮者の小沢征爾さんが体調不良で一年休養との報道。楽天監督の野村さんも同年ですが身体は重そう。
私は特定の病気はありませんが、体力低下と年間を通しての体調保障は無いので、随意参加以外の仕事は引き受けません。引き際を誤って情け無い結果になった例を多く見てきたので引くチャンスは自分で決めます。
スケジュール表が埋まっていないと張り合いが無いという人もいますが、それに対応は充分な能力が有ることが必要です。
今までに能力が有った人でさえ、立ち居振る舞いに障害が発生する年齢、応用できる知恵が試されるこれからです。半ばで中断は嫌ですが、殆どの事が一応、終点に達したと自分では思うので未練は有りません。
今からと言われても出来ませんが、為すべきは為したと思うので気楽に退けます。これからは、のめり込まずに気楽に出掛けます。
これからの人達、頑張って下さい。脇からの応援は惜しみません。


一冊の本 1.27

数日前、一冊の本が送られて来ました。
これは、平成二年から十五年の永きに亙って、フイリッピンセブ島で戦病死されたお父さんの足跡を尋ねて、慰霊行も三度され、「タブラン」という終焉の地を、平成十六年、やっと確認された保健婦(現在保健士)の方が自費出版された「父への旅」という二百三十ページの本です。
きっかけは、或る日、保健センターに来られたフイリッピン慰霊帰りの方との健康診断の会話から「実は私の父がフイリッピンで・・」が始まりでした。
司令部法務軍曹という特殊な立場であった為、戦友会の組織も無く手懸りが乏しく、細い糸を手繰るような作業の連続だったようです。この方は、お父さんの前任地、中国で出生され七ヵ月後、お父さんがフイリッピン転属となり、お母さんと日本へ帰国、それが、お父さんとの永遠の別れとなりました。
私の父については、既に書いたように、戦後四十三年後の昭和六十二年夏にドラマチックな展開で詳細な情報を知る事になりました。大きな感動も得られましたがショッキングな内容もあり、かなり動揺しました。
その時、蒐集した多くの書籍・資料の中に「ああセブ島」が有りました。これは中日新聞「くらしの作文」に投稿された戦死未亡人が衛生兵だった「夫を偲ぶ紙の碑」としてセブ戦友会が発行されたものを入手された事を知り、戦場での医療活動の様子を知りたかった私は、入手法を尋ねたものです。限定三百部という事でした。
私の父の終焉の地はミンダナオ島です。
「ああセブ島」は読んで手元に置いてありました。平成二年十一月一日発行のフイリッピン帰還者・遺族関係者の交流誌「曙光新聞」に、セブ島で亡くなったお父さんの情報を求めている前述の方の掲示が掲載されました。
私は「ああセブ島」の存在をお知らせし読んで頂く事にしました。
そこから十五年に亙る永い「父への旅」を始められ、ここに一冊の本に纏められました。捜し当てた人は亡くなっていたり高齢による認知症で対応不能であったりで、苦労されながらの目的達成だったようです。
何しろ終戦時三十才であれば九十才になっているので、最早無理と周囲からも言われながらの悲願達成でした。
私は、昭和六十三年に四十人程の父の戦友と、初めて靖国神社での戦友会で面会し、多くの情報を得ました。
入会していた「曙光新聞」の皆さんにも父が居たバレンシア飛行場を通って奥地へ向かった多くの部隊の、その後の悲惨な状況や終戦時の投降状況を教えて頂きました。私は四十三年全く不明であった事が一・二年の間に悉く判り気持ちに区切りが付きました。
その後は、この状況を後進の方に伝える事と、お世話になった多くの皆さんへの恩返しを直接は出来ないが、地域や縁を活かしてお返ししようと心掛けて、その後の暮らしを送って来ました。
六十代を終わるに当たって「それなりの事は出来たかなあ」と思っています。
これからは周囲の人達に支えられて行く事が多くなります。人は年齢に応じてその時にしか出来ない事があります。
躊躇わずにその時出来る事を積極的に行動する事が後の安らぎになると思います。
そのまま保存していた、十八年前に頂いた手紙や資料、そして、お礼に書いた手紙の下書きを前にして整理の方法を考えている所です。


整理は順調 1.19

身辺に有る数々の資料や関わりを身軽にしておこうと作業を続けていますが作業は順調です。
成り行き任せと言うのは嫌なので、自分でスケジュールを立ててやりますがハードの発達で思った以上に能率良く整理が進んでいます。
何より量の圧縮が出来るようになったが大きい事です。
一般的な情報はインターネットで検索出来るので、手元に保存する必要の無いものは、その都度閲覧で済みます。
個人で得た情報は、そういう訳には行かないので、これは自分で処理しなければなりません。
画像(ビデオ・写真)は撮影したままでは増えるばかりなので、編集や検索しやすいアルバムに整理する事が必要です。
ビデオは撮影も重要ですが後の整理が肝心なので、やたらと撮りまくると、後で収拾が大変です。
初期の事を思えば能率は驚異的に進歩しましたから、後は能力次第ですが、携帯などのカメラ機能の進歩もあり、画像の氾濫によるトラブルも要注意です。
いくら環境の進歩があっても、人はそれほど進歩はしません。却って人間性の喪失が心配になります。限りない欲望に煽られて埋没しないようにしなければと思います。
永い時の間に、身体にぶらさがっている諸々の荷物を降ろして身軽に歩きたいと思います。


七十年 1.10

正月、一日は、氏神「真清田神社」への初詣で。午後に行きましたが神社境内は相当混雑はしていましたが、翌日の新聞では、お札、お守りなどを買う人は少なかったとか。
地元商店街は郊外ショッピングセンターへの客の流れに、最早、なす術も無いでしょう。
二日は来客で終日家の中。
三日以降も、雪が散らついたり寒風が身に刺さり、街歩きも出来ず。
昨年、DVDレコーダーの入手により、パソコンとの併用で画像処理作業の能率が相当大幅にアップされ、膨大なビデオの処理も何とかなる見通しが付きました。
八日、やっと街歩きが出来そうな状態になったので覚王山への墓参を目的に名古屋駅から歩きました。
この所、徳川家御下屋敷周辺の話題を取り上げていたので、その再確認も有り、葵町を経て地下鉄「車道」駅迄を歩く事にしました。毎年見て来た、年末からのイルミネーション見物を大雪の始末などで、まだ行っていなかったので、日没に名古屋駅に戻る、タイムスケジュールと足のスタミナとの相談しながら・・。
午後1.30、家を出て、6.30帰宅まで、5時間でスケジュールを完了。
2.00に、名古屋駅から歩いて錦通りと桜通りの間の道を「オアシス21」を目途に直線距離を行く。伏見通りで横断歩道が無いので歩道橋を渡り袋町筋を行く。今回は父母のかっての生活の地、長者町を外れて錦通り筋とR153交差点へ。R153は戦後都市計画で出来たもので、私の世代が戦中の記憶を持つ境界でしょう。
戦災までの生活の地、葵町23は「名古屋文化女子大」になっていますが、構内に戦災後も焼け爛れ残っていた土蔵は、数年前、石積土台、屋根、内部はそのままで、外壁を補修し「葵ギャラリー」画廊として再生されました。
女子大の西は、かって稲荷山が有りましたが今は駐車場になっています。一軒、大きな木の傍に通路のみ確保された「訳あり気味」の家があります。こういう問題は古い地域など何処にも有ります。
布池の「大洋商工ビル」昭和六年(1931)の建物ですが休日は玄関に蛇腹のシャッターが閉まりイメージは良くないです。裏へ回ると、当時の建築様式アーチ窓や煙突がレトロです。
もう一本北の道の東角に戦前からのビルが有ります。これが、「旧同心会館」(大正末1920年代)。今は某会社が入っています。壁面に馬をデザインしたようなレリーフが見えます。
現在「陶磁器センター」は「大洋商工ビル」の東に有りますが、新しいので、昭和九年(1934)の物はその東の建物と思います。
又、改めて取り上げますが、覚王山の松坂屋伊藤次郎左衛門家の「揚輝荘」の一帯が大変貌の様相です。永い間、神秘のベールの中にあった場所が、一般公開された時には既にかっての姿では無かった。ごく限られた人だけが幸運で私も運良く見る事が出来ました。完成時の三十棟の多くは空襲で破壊され現存七棟と言いながらも凄いものですから総てが有った昭和十四年当時は窺い知れないこの世の別世界だったでしょう。限られた階層の人達の場で川上貞奴も一時、住んだと言います。近所の人も寄り付けない雰囲気だったのでしょう。
現在、完成間近なマンションに続いて神秘の杜に工事通路が入り重機が始動しています。
名古屋と言えば、松坂屋・伊藤次郎左衛門と言うのが連語でしたが、もう今の人達には通じなくなったでしょうか。
「揚輝荘」は某不動産によってマンション分譲、分断された南北の地域は管理権のみ市に寄付され「揚輝荘の会」などのNPO団体によって保持管理という事です。
伊藤御本家がどうされているのか聞かれませんが寂しい事です。門には伊藤次郎左衛門の表札が今も架かり立派な門松が置かれていました。紛失中の「揚輝荘」の表札はまだ見付からないようで残念な事です。
「揚輝荘」については情報追加します。覚王山参道も移転・撤去など行く度に様変わり。
JRタワーズイルミネーションは、始めの多色の派手さから、青・白基調の高尚な風情に星座が変わり安らぎを感じます。光源も、ネオンからLEDになったのでしょう。失うものあれば新しく得るものもあり、これも「諸行無常」なり。
私の七十年も、生年月の二・二十六事件から始まり今日の日迄、実に多くの見聞をして来ました。
人も社会も「諸行無常」絶えず動き続けます。
ビデオに記録した諸所の風景の消えた部分をピックアップして見ようと思います。


テレビで歌舞伎 1.5

昨年末以来の寒さで外出も儘ならず、じっと我慢の毎日で、年末以来録画していた歌舞伎をテレビ桟敷で見物。
名古屋の劇場は正月は、いつもの事ながら歌舞伎皆無。文句を言っても仕方が無いのでテレビで満足しましょう。
師走の京都南座「師走顔見世坂田藤十郎襲名興行」をスタートに今年は藤十郎襲名興行がが続きます。
私は、上方より江戸の方が好みです。
藤十郎中継は、かなりの量ですが丸本(義太夫)が多く当然ながら和事が多く有ります。
江戸歌舞伎は荒事が多く、単純明快、パンパンとツケが響く豪快さが痛快ですが、和事は情緒纏綿、心理描写が細かいので、じっくりその世界に入り込む気持ちで見る用意が必要です。
新藤十郎は七十二才と伺っていますが、相当な体力気力が必要です。
「本朝二十四考(奥庭)」では、八重垣姫を人形振りで演じますが想像を超える集中力の維持が必要で感嘆します。
出演の演目も多く、藤十郎襲名への並々ならぬ意欲が伝わって来ます。相当な思いが有った事が感じられます。
正月江戸興行の為の、十二月二十八日の船乗込み、祇園芸者衆と共に繰り込み、江戸火消し木遣り衆の出迎えと共に、豪華な、お練りによる歌舞伎座入り。
この所続く、歌舞伎襲名で歌舞伎界は世界文化資産登録も有り益々の日本文化隆盛の発展を願います。
歌舞伎座の広い間口に居並ぶ役者衆は
雁治郎改め藤十郎を真ん中に、後見は雀右衛門・右へ、梅玉・魁春・歌六・歌昇・時蔵・東蔵・我當・幸四郎
左から、吉右衛門・秀太郎・段四郎・福助・壱太郎・扇雀・翫雀・虎之助(初舞台)の面々。


旅は終わらない 1.1


又一つの一里塚を通りました。旅はまだ終わりません。
私の人生暦は二桁単位で区切られているようです。
’05年は、十八年前、エキストラで参加した三国連太郎監督の「親鸞・白い道」について九州唐津の真宗の僧職の方から、もう一度見たいのでビデオの存在についてお訊ねが有りました。
レンタルショップに有るかどうか分かりませんが、私が持っている情報をお伝えしました。
もう一つは、祖母「三代目岸沢式治(芸名)」が、大正・昭和の初期にかけて名古屋で継承教授した常磐津の流れが途絶えたと聞いていましたが、流れを変えて、まだ伝えられているとの知らせが有りました。
その方は、関西から来られた方ですが「名古屋むすめ歌舞伎」の方との縁で、名古屋と関西で常磐津の教授と舞台出演で活躍されています。年末には、「京都南座顔見世興行坂田藤十郎襲名披露」に出演されました。
名古屋だけに伝わる常磐津岸沢派の伝承に努めたいとのお話を伺いました。十月九日、第四十七回中部邦楽教室「邦楽の会(中電ホール)」にお招き頂き、数々の演目を拝見しました。
私が生まれる以前に亡くなっていた祖母の姿を想像させる舞台の様子でした。
今、過去の数々の写真・ビデオなどをDVDに整理中です。既に40枚ほどになりました。まだまだ作業は続きます。
取材した画像を、今年は関連の皆さんにお会いする機会にお渡しします。
次の二桁目の一里塚に辿り着くまでに旅は終わるかもしれませんが、走る事が出来ない私は、ただ黙々と歩きます。
山道や、人気の無い所で立ちすくんでは、他人に迷惑を掛けるので、何時でも立ち止まれる点から点へ歩きます。それが、まだ続く私の旅です。
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