五十八年前の大雪 12.27
名古屋は五十八年振りの20センチという大雪。一宮は二回降りましたが、一回目は40センチ位、二回目は30センチ位。一回目の雪が、まだ10センチ程残っていた上に積もったので過重になり、これ以上降れば、テラスなどは横桟が、しなり不安な状態になりました。
今は、道路の傍らに雪山が残っていますが通行は正常になりました。庭の雪は、まだ相当残っていますが氷結してアイスバーンになっていた通路は、今朝、やっと叩き割って取り除きました。
ところで、五十八年前の大雪、私は、当時十一才(少5)、現在とは比べ物にならない劣悪な生活状況の中でした。戦後の混乱は続いていて、衣食住すべて最悪でした。まず、食料が常時欠乏。二十四時間空腹状態。衣料は木綿の着古しでやりくり。手作りの足袋。履物は靴など無く、下駄履きが殆ど。燃料も乏しく火鉢には僅かな炭火。
栄養不足による霜焼けで手足は膨れ上がり、皮膚は、ひび割れ血が滲みました。
手足が濡れると冷たさに声も出ませんでした。それでも人々は耐えました。
その事を思えば、一両日を過ぎれば、すぐ回復出来る今の状況は有り難い事です。
停電も有ることを考えれば電気を使わないストーブなども一つは用意しておく事も必要かと思います。
今年は、能率、低価格、合理化に突っ走って来た社会が、安全、充実、信頼をないがしろにして来たツケが一気に噴出した状況でした。「安かろう悪かろう」がハッキリしました。「量より質」を見極める目が必要です。
セキュリテイやチェックの不充分なシステムの氾濫が莫大な損失を発生した事は大きな警告でした。
表舞台には見えない「縁の下の力持ち」の存在を尊重する精神を持つ事が重要だと思い知らされる此の頃です。
私のアーカイブス 12.20
NHK名古屋が放映していた「東海アーカイブス」が十八日の放映で終了しました。
十八日は「犬山城物語(新日本紀行)」続けて「日本の小京都・犬山」が紹介されました。
記録も年数が経つと貴重な文化資産になります。
私の記録は、そんなに価値が有るとは思えませんが、それでも、十五年、十年と以前のビデオを見直すと、人も風景も相当な変わりようです。
「祭り」は、十二年前から、名古屋の筒井・出来町・広井などの記録を続けて来ました。
それ以前も、一宮の「桃花祭若殿行列復活」や、菩提寺の若僧侶の「本山修行」、住職の「大寒托鉢」の記録などをしました。
甥の結婚式も二人は完全記録。同時期に、わが家では、娘の結婚式の準備から挙式までの行事が重なり大忙しの年でした。
家族関連の記録は、ある程度、配布してあるので消滅する事はありませんが「祭り」の取材は特定の縁故が有った訳でもなく、私的な目的で撮影したものです。
プライベートな影響を考え、懇意になった、ごく一部の関係者の方だけにコピーをお渡ししました。喜んで頂けたので良かったと思います。
ビデオは、あまりにもリアルです。十五年以前の映像も劣化も無く、昨日の事のように再現されます。感動と共にある怖さも感じます。それが動画の素晴らしさでもあります。
街の変化も大きく、殊に戦火を免れて残った戦前の建物などが次々姿を消していきます。
覚王山地区は、祖の墓地を訪ねる度に通りますが、昭和三十年(1955)には有った建物の多くが現在は消えています。参道の入り口に有ったシンボル的な「六角堂」「寿司店」は数年前に消滅。つい先日は「氷屋」さんが閉店。「弘法堂」という果物店は向かい側に移転、二階がレストランになりました。自由が丘への道も大きく変わりました。
名古屋城周辺、葵、鶴舞、名古屋駅などの変化も映像を見直すと「アーカイブ」としての価値を感じます。
2006年には、「祭り」などで、渡すべき方が有れば会った時にお渡しします。
価値の有無は私が判断する事ではありませんが、十年一昔、二度と無い思わぬ懐かしさが蘇るかも知れません。
私の一つの句読点です。
想像と空想 12.8
想像は実際に有ったであろうと思う出来事を想い浮かべる事だと思います。
多少の思い違いは有るかもしれませんが、色々調べた上で証明に基づき考える事が想像だと思います。
一方、空想は実際には有り得ないことを発想することです。それが思い付くだけなら良いのですが実際に形として現したときに大きな混乱が起こります。それは、あらゆる場面で発生します。
例えば、自分の生まれてからの経歴を思い付くままに空想し、それを、あたかも真実のように周囲に伝え、聞いた人が真実だと思い込んだならばどうなるでしょう。これは経歴詐称です。
メディアの世界では、CGによるバーチャルリアリティが当たり前になり、コマーシャルにも頻繁に使われていますが実在すると思い込まれたら恐ろしい話です。
私の人生は、現実と記憶と想像が入り混じっています。戦争という、現実を悉く破壊消滅させる出来事が、昭和二十年(1945)九才までに次々起こりました。それにより、出生地(桑名)や、二十年三月十九日まで暮らした名古屋の、鶴舞、葵の家は跡形も無く空襲で消滅、母の実家が有った外堀は強制疎開による立ち退き破壊で消滅。記憶の中だけの情景になりました。
殊に、葵での暮らしでは、国民学校入学、父の医院開院、母の早世、父の出征、空襲被災などが立て続けに起こり、あまりにもドラマチックで凄まじい体験をしました。
ところが、それを証明する資料や知人の消息が断絶、自分でも、あれは幻だったのかと思う程の空白の期間でした。空襲による名古屋市から一宮への転居と戦後の混乱が有った事が、それを増幅しました。十数年の空白を経てから自ら確認作業を始めましたが遅々としたものでした。本格的に過去の確認の作業を始めた時には相当年月の経過後での難作業でした。
事実の裏付けが出来ると記憶がハッキリ具象化され確かに事実だった事を納得できます。これは自分の体験による記憶の中にあり確認出来ました。
自分の記憶以前の記録調査は完全に想像の世界ですが、これも事実は資料が見付かれば証明されますから空想ではありません。
ここまで書いて来たのは表題のテーマの前文です。
今、問題になるのは「偽装」の問題です。空想の世界では許される事が現実として作られてしまった事が社会を大混乱に陥れている状況です。データの上での仮想の世界を、そこで止める事は、ごく当たり前の事で勇気は要りません。
それを実際に作り上げ、利益を上げ人命を危険に晒し生活をも破壊する事を実感出来なかった人格は私には理解できません。「広い・安い」に「弱い」をプラスしたら売れる訳が無い事を素知らぬ顔で「広い・安い」を強調して利益を得た手段はモラル以前に、もはや人間では無いと言えます。
他人に迷惑は掛けなくても「偽装」が如何に多い事か。
人、そのものにしても、整形手術・かつら・髭のような外観の偽装。
マイホームを手に入れ、見た目はリッチに見えるが巨額のローン返済。談合・水増し・手抜工事など数知れず。
何が真実なのか。正直者は馬鹿にされ疎外される事があってはならないと思います。
想像と空想の判断が正しく出来る事は、ごく当たり前だと思うのですが、現代は、それまでも狂わせてしまっているのでしょうか。
たまたま、今日は虚考が齎した太平洋戦争勃発の日。歴史の真実を振り返り考え直す機会にしたいものです。
追記
二十年三月十九日の「名古屋空襲」を葵国民学校の三〜六年生で体験したのは私だけだったかも知れないと思われる節が有ります。
三月十九日以前に、私達が居た葵町二十三番地の一角に、一月二十九日早朝、一発だけの爆弾被害がありました。
左前の家に命中。その家の人が倒れた壁で圧死。隣の人が瓦の頭への直撃で即死。その裏の人が庭石が背中に当たり重傷。我が家を含め周辺家屋がかなり破壊されました。これは「名古屋空襲誌」で確認できます。
そして三月十九日の「大空襲」焼夷弾焼尽くしでした。
実は、当時、葵国民学校は、三年生以上は、縁故、或いは集団(碧海郡矢作町)で昭和十九年八月から学童疎開しており、葵国民学校は、一・二年以外は「もぬけの殻」だったのです。
私は、その時、三年生で、兄と共に岐阜県御嵩町の親類に縁故疎開していましたが、正月に名古屋に帰ったまま御嵩に戻らずに葵町に居残って居ました。それで前述の爆弾被害と大空襲に遭遇する事になりました。
空襲時にも誰にも会わずに名古屋を去ったのはその為です。その後も、疎開先から帰る家も無く、学校も焼失し、近所の子供達も散り散りになってしまったからです。そういう事で私は三年生三学期は空白だったのです。
その年の六年生は卒業も曖昧になってしまいました。後、葵小学校で当時の情報を訊ねましたが学籍簿は焼失し皆無との返事でした。
一、二年生担任の先生の名前を憶えていたので、それを訊ね再会出来ました。それは「恩師」に書きました。
転校した一宮の昭和二十年頃の教室には転校児童が多く居ましたが、その児童は間もなく、又、それぞれの地へ転校して行きました。それほど戦後の日本は総てが大混乱していました。
新制中学第一回卒業が昭和二十三年という事ですが、その辺りの中学校卒業名簿は非常に曖昧で、まともに学校へ行ったのかどうかも判りません。
「義経(安宅関)」の勧進帳 11.28
NHK「義経」で「安宅の関」が放映されました。ご存知「勧進帳」の降りです。
能「安宅」から、歌舞伎十八番の一つとして天保十一年(1840)江戸河原崎座初演。
私は、舞台も見ていますが、多くの役者による「勧進帳」をTVで数多く見てきました。
構成は七十分ほどのもので、全く変わらないものですが、配役によって総てが、それぞれ違う奥深いものです。
市川本家の団十郎・海老蔵は当然ですが、私にとっては先代(正確には先々代二代目)松緑が圧倒的な歌舞伎振りであったと忘れられません。
終わり近くの「延年の舞」を中心とした「踊り」の部分の「身のこなし」が未だに他の役者は及びません。
重厚でありながら軽やか、そこから畳み掛ける幕切れの「飛び六法」に至る流れは息が止まるほどの迫力です。
さて、「義経(安宅の関)」。松平健が、如何に弁慶を表現するか。敢えて演技とは言いません。
この「義経」のクライマックスである難物をどう著すかを見つめました。歌舞伎風では所詮駄目です。かといって、リアルに過ぎて残酷になってもいけないし難物だと思っていました。
歌舞伎の筋立てでは無理があり、脚色されましたが巧く出来ていたと思います。「勧進帳」の読み上げですが、これは歌舞伎と全く同じ文面でした。歌舞伎では、謡うように読み「不動の見得」を切ります。
それは、マツケンさんは出来ませんが熱演で、よくこなしました。
この場面は「歌舞伎絵」や「日本人形」でお馴染みです。
「義経打ち据え」は舞台は形式ですが「大河」はそういう訳にはいきませんでしたが、よくやりました。
富樫に笛を咎められたものを、盗んだ物として折檻する筋立ては創作ですが奇異には思わせませんでした。
尚、歌舞伎では、義経は「強力(荷を運ぶ山案内人)」で荷の重さに、よろけた姿を、弁慶が責め、打ち据えるという設定ですが「大河」では山伏とし、笛を盗んだとしています。
関所を抜けた後「ついに泣かぬ弁慶も一期の涙ぞ殊勝なる」と「義経」に侘びを請い「判官(ほうがん)御手を取り給い・・」は泣かせ所です。
嫌になるほど「勧進帳」を見て来た私ですが、正直言ってハラハラする展開でした。
マツケンさんは熱演・好演だったと賛辞を送ります。期待と心配をしていた「安宅の関」でしたが無事通過出来て良かったと思います。
先回の「しずやしず」の「静御前」も大変良かったと併せて賛辞を送ります。
仙人になろう 11.24
私は、来年二月(きさらぎ)で七十才になります。
自分では、七十才くらいで終点だと思っていましたから、その後の事は考えていませんでした。
どう考えても、バラ色ではないし、清々しいブルーでもないだろうし、紫は好きな色ではないし、グレーになってしまうのかなと思うと考えてしまいます。
頭髪は薄くなる、耳は遠くなる、体力は低下するなど、マイナス要素ばかりです。
周囲の同年配の人も健康障害が顕著に見られるようになりました。
ですが、ここまで来ると「ここまで生きて来た」という実績は紛れも無く誇れるものだと言えます。
それで、かなり遠慮せずに「本音」がズケズケ言えます。
例えば「自分の葬儀をどうするか。価格は幾ら掛かるか」などいう事も笑いながら話し合えます。
「生きてる内が華なのよ」と思います。
さて、NHKで「義経」が放映中です。「平知盛」が登場しましたが、謡曲・歌舞伎で登場する際に「我れ幽霊なり」と現われます。七十才ともなれば半分「幽霊」かなと思いますが、死後も恨みを持つのは良くないので「これは駄目かな」と思うし、同年以上の人に「あんた、もう半分は幽霊だよ」言っても良い感じはしないでしょう。
さればと考えてみたら「仙人」という表現を思い付きました。これは面白そうです。
「仙人」も様々で、地上の美女の姿に見とれて雲から転落する粗忽な者も居るようですし武術の師匠も居ます。
海外では悪い魔法使いがいますが「仙人」には「悪仙人」は居ないようなので「仙人」が良いかなと思っています。
七十才になったら「仙人」にはなれなくても、気持ちは「仙人もどき」で行こうかなと思っています。
DVDへのコピー 11.15
自作のビデオは、そのままでは纏まりが無いので編集して解説も加えた上でDVDにしています。
「DVDに焼く」と言いますが何か抵抗感があります。レーザー光で記録するのですから焼くという事なのでしょうが一回限りというデイスクはともかく消去・再書き込みが出来るWとかRAMは焼くというのはおかしい気がします。
DVDにするということはMpegに圧縮するという事になりますがDVDからビデオやWindowsで使うWMVには戻せませんからソースは保存する事になります。
自作のビデオは残すとして、TV放送から録画したものは廃棄してもいいのかなと思います。
ドキュメントや、一時代前の歌舞伎の名優の記録などは再放送は当てにならないし、限られた市販されている物は高価です。残しても見る人が無ければテープでも構いませんから、そんなにDVDにする事に拘らなくてもいいかと思いますが何か引っ掛かります。見る人が見れば貴重な物だと私は思うのですが。
いずれにせよ、かなりの量ですから必要なものから抽出してRWに書き、満杯に近くなったらRにコピーをするという事になります。
当地も十二月から電力系の光通信が始まります。IP電話も共有すればNTTの基本料が不要になるのでADSL50Mにかなり接近しますから光への移行も時間の問題です。フル画面の動画がリアルタイムで送れればメデイアは不要になります。大容量のDVDレコーダーが既に個人サーバーに近い状態です。
百科事典がCD・DVD一枚にそっくり入ってしまう時代です。わが家には、まだ百科事典が十三巻物置に並べてありますが、インターネットの検索の方がより詳しい情報が得られます。
この所、ビデオテープは不要になっています。DVDダビングは高速ですからテープダビングは、もうやりたくありません。
’05 文化のみち 11.5
十一月三日、例年行事になった「歩こう!文化のみち」が市政資料館〜徳川園のコース間14ポイントスタンプラリーで開催されました。
終日薄曇りで、時折、ポロポロと傘は要らない程度の雨はありましたが、汗はかかないウオーク日和でした。
去年は13ポイントを訪ね、各所内部を拝見しているので、今回は外部周辺を拝見。「貞祖院」は再度内部を拝見させて頂きました。昨年、見ていなかった、「故春田鉄次郎邸」内部を拝見させて頂きました。立ち入り出来ない春田文化住宅が二階から側面を垣間見れました。
今年は1ポイントプラスです。新築中であった「堀美術館」が仮オープン(3日〜6日)。
正式オープンは'06年という事です。有名東西の洋画(梅原竜三郎など)・日本画(加山又造など)が展示されます。
第一回文化のみちラリーには存在した桜明荘・加藤邸は現存しません。
細かいレポートは改めてご紹介します。
古い家 10.25
ここで言う「古い家」と言うのは戦災を免れた昭和二十年以前の家です。
名古屋には、まだそういう家がかなり有ります。私は昭和十一年に生まれ、そういう家に住みました。私の場合は、かなり広い家で二階建てでした。南北に小庭もある広さでしたから暗いとか陰気という感じは有りませんでしたから、両親家族の楽しい思い出の多い家でした。
数年前、千種区の昭和五年頃建てられた知り合いの家が解体処理されました。以前訪ねた時、私が少年期に住んで空襲で焼失した葵町の家の造作に非常に良く似ていて懐かしさを感じていたので、壊される前に記録させて貰おうとビデオ持参で、お訪ねし内外を撮影しました。一回り小さい建物でしたが南北の小庭、二階への階段回りなど私の記憶にあった造作にそっくりな姿でした。一部改造がなされてはいましたが高台にある建物は大きな損傷も感じられず、充分住める状態でしたが、残念ながら持ち主の方の意向で跡形も無く処理されました。
東区には景観保存地区として白壁主税周辺が、大正、昭和初期の姿で保存されています。
然し、私有物ですから維持には限界があります。じわじわと状況が変化して行きます。居住保存されている方も居られますが問題は数多ある事とお察しします。
通りすがりに眺め、懐かしさだけに感動するだけの者には切実感は有りません。一戸建てなど、ある程度の環境にある建物に住める方はまだ幸いです。
長屋とか、下町商店や商家は日照や風通しも悪く生活環境は非常に悪い状況です。現代の人では暮らせない環境です。さすがに住むに耐えられなくなった家が壊され借地の場合は空き地になります。もう、これはどうしようもない現実です。
一方では、名古屋駅前、栄、大津通りが再開発により近代化されたビルが建ち、先端を行くファッションや高級グルメが溢れます。
一旦は郊外に住居を構えた中高年が文化環境により近い都心マンションに逆流しています。
明治の終わりから大正に始まった文明開化の波が違った姿で今押し寄せているのかもしれません。
その中で、江戸時代の祭礼や古典芸能の伝承、大正昭和の和洋折衷のロマン文化をどう伝えて行くかが重要な課題になっています。人も物も永遠ではありません。有形無形の記録保存をすることが是非必要です。
建築時には、永久に残る事を考えて造られたものが目的を失ったり環境の変化、機能不備で破壊処理される事が続出する時代です。
東区役所は桜通り拡張で消滅。東洋一と言われた「名古屋駅」は六十五年で消滅。戦後建てられた豊田・毎日ビルも高層ビルに建て替え建築中と人の寿命より短命です。
それだけに、長生きした者は思い出を失う事になります。然し、残念がってばかりはいられません。
新しい時代を受け入れると共に、個人、社会の過去の歴史資産を責任を持って次世代に伝えるという重大な役目があります。
その為に与えられた余命が「天命」というものかと思います。
大須の賑わい 10.17
「大須大道町人祭り」を見に行きました。
かなり以前からやっていますが「名古屋まつり」と同じ日なので「山車揃え」と栄近辺に行くだけで大須には行った事がありませんでした。
今年は「名古屋まつり」が万博の関係で五月に行われて十月は無いので街歩きに出掛けました。
毎度の事で名古屋駅からは3K位の所は歩くので広小路・伏見経由で大須観音へ。
いつもは、さほど混んでいない大須ですが境内の入り口から人が一杯。
町角毎に大道芸人が「あやつり人形」やら「紙切り」「寸劇」「パフォーマンス」などやっていて、様子は人だかりで見えません。
「花魁道中」が目玉なので大したものでは無いだろうとは思っていましたが、一応見ようとその場所へ行きましたが人一人がやっと通れるだけの大混雑。観音様から仁王門通り・裏門前町・万松寺まで大混雑でした。
飲食店、縁台、テーブルなど、やはり飲み食いが祭りの原点です。
沢山有った映画館、劇場(大須演芸場のみ)は無くなりましたが、これほどの人出を見たのは戦後初めてです。
幼児期、親によく連れて行って貰いました。大須には「ハトポッポのおばさん」という母の親しいの親類の髪結いさんが居て一緒に案内してくれました。
歌舞伎座があって見た記憶があります。今思うと、花道からドロドロと人が現われた事から「伽羅先代萩」の仁木弾正だったのだろうと思います。行けば飲食で「クラブ食堂」という洋食屋さんや、畳敷きのうどん・丼物屋さんへ行きました。親子の交流は十年足らずの短いものでしたが思い出は凝縮されています。
大須は大きく変わりました。大津通りの商業活動が活発になり大須への人の流れが多くなりました。
元々は若宮八幡から大須寺町は「亨元絵巻」に見られる大娯楽地帯でしたが若宮大通りの100メートル幅の横断に分断され空襲を免れた古い家並みも時代に遅れ一時衰退しました。
パソコンや家電のブームで若者が来るようになり古着店なども活況を呈しました。
パソコンブームは去りショップも激減しました。私も、随分行きましたが近頃は近くでも値段も差が無くなり行かなくなりました。
昨日は久し振りに商店街を見回しましたが業種も変わり、古い建物はリフォームされ空き店舗は見られなくなりました。新築、改造中の建物もあり業種転換は激しいながらも発展して行くのではないかと思いました。
名古屋の駅前も大変身中。柳橋の古い建物は取り壊され再開発事業が進んでいますが、商業化ではなくマンションオフィス化の様子です。
広小路商店街は今一つ苦戦の模様ですがジワジワと変わって行く事でしょう。
祭りの余得 10.10
九日は午前、柳橋花車神明社の「二福神車」が四間道から円頓寺商店街へ巡行しました。
私は十時前から浅間神社で待っていました。予定では紅葉車も来るはずでしたが前夜の宵祭りでの降雨で不備が発生し中止。二福神車のみの巡行でした。戦後初めての昨年は二輌の巡行でした。
二時間かけてゆっくりのんびりの巡行でした。随分、間が空いたので、かって母の実家があった200メートルほど離れた景雲橋へ行ったり、町並み景観保存の四間道の家並みの造作を観察出来ました。
普段、ウロウロしたら不審者と間違われますが大勢見物衆もいるので心置きなく眺められます。
商店街もそうで、ウインドウ観察も買い物でもしない限りは隅から隅までは見られません。老舗の履物店(明治二十六年創業)や、新古陶漆器店の品物も良く品定め(いつか買うかも)出来ました。
残念ながら店舗は減少するばかりです。古くからの餅屋さんは探しましたが看板は無くシャッターが降りていました。
過ぎ去った過去は再び帰って来ません。
商売屋さんではないのですが商店街の角の家が、二階はモダンなテラスがあり、アルミかステンレスの窓などがあるですが、一階の外壁が、和風漆喰白ナマコ壁というアンバランスなようでありながら、バランスが取れた白亜の外観というのが目に付きました。アーケード街の角に、こういう家を作る人のセンスには不思議な感心をしました。
現代に総て迎合することはありませんが、環境に合うように調整をしなければならないのは祭りなどの伝統芸能も同じ所に来ています。かたくなに伝統にこだわり消滅する事になる事は何としても避けて欲しいものと念じています。
柳橋の地元曳行は招かれていた「邦楽乃会(中電ホール)」鑑賞の為、行きませんでした。
長唄、常磐津、小唄、端唄、舞踊の会でしたが伝統芸能については同じような気持ちを感じました。
御園座の「勘三郎襲名興行」は大盛況です。古典芸能でもアピールの方法が良ければ現代にも充分受け入れられるのですから関わる人達の考え方や努力が必要なのだろうと、関係者の一層のご苦労を感じました。
事後処理 10.4
今、色々な事の事後処理をしています。
まあ、世の中、普通はやりっ放しで終わらせる事が殆どなのでしょうが、なまじっか寿命が延びると、後始末をして置こうか」という気がしてきます。
「自分史」も原稿のまま(プリントはしてある)、ビデオも元画像のままでは、量ばかり多くて処理に困ります。
自費出版は、せいぜい十部位では製本しても、却って困ります。そういう事情で知人から無料贈呈で頂いた本が数冊有ります。
ビデオは、DVDという大容量のメディアが登場したので高画質で60分録画出来ますから、スペースも取らず保管できます。
これも、丸ごとでは支離滅裂前後も無い物では混乱するのである程度編集する事になります。
DVDレコーダーには最低限の編集機能は有りますが不十分なので、パソコン編集でという事になります。
これも楽ではありませんが事後処理の為には必要な事です。
という事で、大量のビデオストックを眺めては思考錯誤をしています。
新しい取材は、始めても3〜5年は続けないと纏まらないので、やたらと、あちこち出掛ける事は出来ません。少数重点主義は高齢者の宿命です。
ですから、気持ちが有る人は早く始められる事を薦めます。ただの」見捨て聞き捨て」は惜しいので記録をされる事を薦めます。
人の運命は想定外の事が多く、その度に考え直し、思い直しをしなければなりません。
私も、ある年齢(?)までの事は考えていましたが、それ以後は考えていませんでした。
そこら辺りが潮時だと思っていましたが、どうも、そのデッドラインを通過するのではないかと思えて来ました。
これは予定外だったので目下試案(思案)作成中です。
これを考えて置かないと、向かう方向が定まらず人生の放浪者になってしまうので、これはいけません。
さてどうするか。来年の「きさらぎ」が、そのタイムリミットです。
DVD対応 9.14
先文でDVDレコーダーへの書き込みにDVD+RWを使う事を書きましたが機種に限定があります。
殆どの機種は-RW対応が多いのです。+RWは再生のみは可能というものはありますが、S社以外は録画不対応が殆どなので購入時には要注意です。
DVDレコーダーは書き込みが早いので、-RW(1〜2倍速)でも不足は感じませんから-RWでも構いません。
エンコード(Mpeg2変換)はDVDレコーダーが便利です。ディスク-ディスクのコピーは直接は不可ですから、パソコンのドライブが二つあるなら、ドライブ-ドライブでの一発コピーが楽です。
ビデオは撮影と編集というソフト面が主目的ですから、ハード処理に手間取るのは余計な事!と割り切った方が良いと思います。ある程度ハードの理解は必要ですが、主目的から外れても意味が無いかと思います。
後処理の負担が少ないと思えば撮影時に気が楽になります。
DVDレコーダーも¥50.000が中心になっていますから、パソコンに無理な負担を強いる事無く、作業を図る知恵も必要だと思います。
ビデオも素晴らしいものが多く見られるようになったので「アマチュアの出番は少なくなったかな」と感じます。
気張る事無く、プロが気が付かない細かい記録や、日常生活に役立つ事を楽しく記録するのが良いかなと思っています。
DVD製作 9.10
昨年秋からビデオのDVD化を始めました。
結構、作業が面倒ですが慣れるしかないです。パソコン編集したビデオは切れ目無しになりますから、チャプター(目次)を設定しないと飛ばし見が出来ません。
ビデオ撮影したものをそのままDVD化するならば自動切れ目チャプターという事は出来ます。
再生ソフトやDVDプレーヤーで早送りは出来ます。
ビデオ編集では、元画像がAVIなのでDVD化するにはMpeg2に圧縮しなければなりません。
これがエンコーダですがAVI元時間の三倍くらいの時間が掛かります。
その前の、ビデオ編集完成時にはレンダリングの変換もあります。
60分に編集したものを、DVD化するまでには6時間位必要です。
そこで、「DVDレコーダー」で、編集済みのDVテープ(AVI)をDV入力端子に接続DVD化してみました。
チャプターは切れ目は無いので10分間隔に設定しました。どれ位時間が掛かるのかと見ていましたらコピーと同タイムでした。つまり60分のものは60分で書き込めるという事です。後、ファイナライズをしますが、これは数分で終了します。
エンコーダと書き込みを同時に行っているという事です。巧く行けば作業は楽ですが相当な作業を内部では高速でやっているのだと思われます。ファイル形式は同じです。
まだ、一度しかやっていませんが完全に成功ではありませんでした。再生時に一時停滞しました。
このDVDをコピーした所、停滞場所でエラーストップしました。複雑に編集したのものというのも一因かもしれません。
同じAVIテープを、今までのようにパソコンでエンコーダし書き込んだ所、エラーは発生せず成功しました。
念の為、DVD+RWに書き込み、コピーをしました。これも問題無しでした。
DVDレコーダでの書き込みは、再度やってみますが、再書き込み不可のDVD-Rは使わないで、消去・再書き込み可能なDVD+RWを使う事にします。
DVD-RWは1〜2倍速が殆どですが、それでは遅いので、多少高価でもDVD+Rの4倍速を使うのが効率が良いでしょう。今回はDVD-Rを数枚無駄にしました。¥60〜80と廉価とはいっても捨て金になります。
最初の書き込み、コピーなどの作業はRWを使って成功を確認してからDVD-Rに書き込むというのが良いでしょう。
RWの使い道についても学習できたと思います。
ビデオDVD製作は手間が掛かりますが、作ってしまえばVHSなどのテープダビングより書き込みは高速で画質も遥かに良好なので、月に一本くらいのペースでビデオの整理をすることにします。
自分史DVD 9.3
「自分史」DVD第一部が大体完成しました。
十年以上前から取材してきた、映像や写真、図表、スケッチなどを連結編集しました。
十三年前「さくら道ウルトラマラソン」が始まった時、Hi8で取材したビデオに、企画書、新聞記事、TVニュースなどを連結、それにBGM(田園・鏡の中のアンナ)を流し、ナレーションも自演しました。
いま思うと「よくやったものだ」とわれながら感心したり呆れたり。二度とやれません。
アナログでの、ダビング・ダビングの連続で画質はかなり劣化しましたが気迫だけは伝わってきます。
今回は、デジタルでの編集。画質の劣化は感じられません。ただ、初めての作業が多く、マニュアルの説明と実体験での確認が続きました。DVDの60分に納める画像の編集は既に経験しているので、さほど苦労はありません。
タイトルやスーパーも手間は掛かりますが経験済みです。
今回は、BGMは内容がリアルなので「やらせ」っぽくなってはいけないので使いません。
そうなると、かなり間延びして冗長になってしまうのでナレーションを入れました。
十三年前の時は、音声ミキサー(数千円のもの)をを使いました。マイク、BGM、画像ソースの、三つの音ををスライドレバーで調整しながらナレーションを入れました。二本の手で三つのレバーを操作するのは至難の業です。
然も、アナウンスをしながら。中断無しで簡単な台本メモと画面を眺めながらアドリブナレーション。
静かな時間を見計らって一気にやりました。二度とやれません。
今度は、そういう事は無いのですが、ミキシングは問題がありました。
高価なハードと付属するソフトがあれば、画面のミキサーのレバーでやれるようですが、廉価なソフトでは別々に調整する事になります。つまり、静かな画面ならば、さほど問題は無いのですが、騒音(自動車・人声など)の大きい画面ではソースの音声を下げないと、ナレーションが混在して聞こえません。
街中の画面は殆どが騒音ですから、始めから音声トラックのボリュームを下げておきました。
ナレーションですが、連続して入れると編集が難しくなるので細かく録音・停止で分断します。そうすれば、そこだけカット再入力が出来ます。面倒ですが修正可能というのは助かります。
今回も、画面を眺めながらのアドリブナレーションですが、台本を作って他の人に語って貰うのも、また一苦労なので自分でやりました。ぎこち無さや、声かすれなどありますが自分史本人ですからリアル感はあります。
出生から空襲による名古屋を去る所までで第一部は終えました。
実は、この九年間が自己形成の原点であり、人生の中の濃密に圧縮された期間でした。
出来上がって見ると昭和二十年までに亡くなった父母への追悼の形になりました。
それに戦争という歴史が加わり人生の180度の転換となり、それから六十年を生きてきました。
第二部はまだ考えていません。戦争と両親の死によって、その後は長期の凍結を止む無くされました。
時間は長さではありません。その内容です。やれなかった事が多くあります。まだやれる事もあります。
一度、断ち切られたものを繋ぎ直すには長い時間が掛かりますが諦めはしません。
好きな歌があります。身内の結婚式などで歌って来ました。
「君の行く道は果てしなく遠い なのに何故 何を探して 君は行くのか 当ても無いのに
君の行く道jは 果てしなく続く 空にまた 日が昇るとき 若者はまた 歩き始める」
「どまつり」 7 8.30
「日本どまんなか祭り」も七年目になりました。
メインの久屋大通りパレードは、今年は4コースになりました。今までは若宮通りから栄までが一本であったものが、松坂屋北の中央部で分割。栄から南に向かうコースも、そこで終了。4チームが東西南北のパレードとなりました。参加チームの増加と時間の短縮の為です。
従って演舞も二回で終わりです。その代わりというか市内の各会場でのパレードが増えました。
各チームの皆さんは移動が大変だったでしょう。私も、第三回に、あるチームの移動取材を久屋・鶴舞・金山とやりましたが前夜祭と二日間はご苦労様です。
参加チームの様子は相当変わりました。第一回からの連続チームは10チームに満たないでしょう。
やはり、地域や周囲のバックアップが無いと継続は難しいと思います。
やる気と元気だけでは無理です。
名古屋には、戦前には尾張藩挙げての「三大祭り」がありました。それは「東照宮祭」「那古野祭」「若宮祭」です。
数多くの山車や神輿が豪華絢爛を誇り、それに列する各町内の見舞車や壇尻車が昼夜にかけて城下に展開されました。老若男女それぞれが役割を引き継ぎ永年継続されてきましたが、戦火により一部を残して消滅したのは残念の極みです。
「ど真ん中祭り」は、やはり若者の祭りです。和洋混在のパフォーマンスがどう展開していくのかは不明です。
祭りなど、イベントには相当な資金とパワーと知恵が不可欠です。参加するチームも先を考えての積み重ねをしないと泡沫になる心配があります。
伝統ある「歌・舞・伎」のパフォーマンスに育っていく事を期待しています。
六十年 8.15
戦争が終わって六十年と言われます。
戦争が無くても六十年は重いです。
以前は「人生五十年」と言われました。五十年はある意味では良い区切りです。そして六十年「還暦」と言われ生まれた時のゼロに帰りました。これも良い区切りです。年齢に応じ人間関係も生活環境も変わります。それが普通だと納得しました。割り切っていました。「隠居」という言葉は今や死語になったのでしょうか。
自分は変わらないつもりでも、世の中は変わり続けます。進歩か後退かは簡単に割り切れません。
必要な物まで切り捨てていく事は進歩ではなく破壊です。これは文化面では特に大切です。
何かイベントがあって出掛けて行くと「ここは何処の国」と思うことが度々です。ラップあり、ハワイアンあり、ロックあり、サンバあり・・。色々あっても構いませんが、自分は何人かを忘れてはいけません。
食であれ、芸術・芸能であれ文化の植民地化には注意を払う必要があります。
戦後六十年という事で、色々な行事が終わりを迎えています。
時々、行っていた「あいち平和の為の戦争展」が今年で終了という事なので、名古屋中小企業センターへ行ってきました。暫く振りに行ったのですが規模はかなり縮小され矢張り終焉なのだと思いました。
同時に違う階で「もう一つの戦争展」というのをやっていました。
日露戦争百年記念展示という事で、こちらの方が派手な展示でした。
両方見て感じたのは、加害と被害の感覚の違いです。戦争で多くの内外の人に迷惑を掛け自らも苦しんだ人達と、かっての日本の栄光に満ちた輝かしい一時期を誇りに思う人達との、二つの感覚の世界があるという事がわかります。靖国の歴史の説明もありました。
もう「靖国」を問題にする事は無いと私は思います。軍に協力した人達だけの施設は「いびつ」です。
慰霊施設を作るならば総ての戦争犠牲者の追悼施設を作るのが世界の常識です。
先日のTV番組で、アメリカの原爆科学者に「戦闘能力の無い女子子供にまで何故無差別攻撃をしたのか」との問いに「女・子供もこぞって戦争協力をしたのだから無関係とは言えない」と言い返されました。
戦争を早く終わらせる為に、犠牲を厭わぬ攻撃は今も行われています。
人は、長く生きれば、それだけやるべき事が多くなり、完結の準備も自らする必要が起き、又可能になりました。
やりっぱなしで「後は頼む」という勝手な気持ちはいけません。
還暦・定年など気持ちの切り替えの良いチャンスです。ズルズルダラダラとボロを引き摺りながら老醜を晒す事は避けたいと思います。
自分史DVD 8.12
私が「自分史」を書き始めたのは五十才過ぎからです。
当時は、まだパソコンは出始めたばかりでワープロソフトも各社バラバラで互換性も有りませんでした。
私は、SHARP6800のソフトで、かなりの量を書きました。その後、互換性が無いので再編集に困り、プリントアウトした原稿をスキャンし直しWordに変換しました。プリント原稿で保存、コピーで身内の一部には配布しました。
ここに来て、追加、校正も必要になったので、元原稿を組み直し、ブラウザ対応の原稿に作り変えました。
今から写真などを組み込もうと思いましたが、ここで思い直したのは過去からの多くの取材ビデオです。
今や、メディアは多様化し、文字と静止画だけの物より動画は、はるかに説得力があります。
イメージを文字化するのは相当な作文力が必要です。それでもイメージを具象化するのは、なかなか困難で意図は伝わりません。
その点、画像は圧倒的な説明力があります。それに説明を加えれば直ちに理解出来ます。
画像処理とデータ化が可能になった今、それを使うのが良いと考え直しました。
DVDでの60分は、かなり内容が盛り込めます。チャプターという目次検索も可能です。
編集、変換作業は必要ですが原稿を作るよりは遥かに効率的です。
データ変換には、かなりの時間が必要なので、その効率化を図る手段を考えます。
時間を掛けてボチボチやれば良いという年齢ではないので、ハイテク機器利用が可能なのを幸いに「自分史DVD」の作業を始めます。
ヒロシマ 8.6
六十年前の午前八時十五分、ヒロシマに原爆が投下されました。
メディア各局では関連番組が伝えられています。昨夜は某民放で三時間の特別番組が放送されました。
終章近く、ヒロシマ原爆を、製造、投下、撮影したアメリカの科学者が出演。戦後六十年を経て初めての広島訪問で平和記念館見学、そして被爆体験者との会話がありました。
原爆投下機「エノラゲイ」から撮影した「「きのこ雲」の下では、どのような惨劇が展開されたか考えた事がありますか」という被爆者の問い掛けに「ひどい事だ・酷い事だ」とは答え乍らも「誤る気は全く無い」と断言しました。
何故ならば「日本は真珠湾攻撃という卑劣極まりない行為をしたから」という、多くのアメリカ人の考えを肯定しました。
誰もが被害に付いては大きな声を上げます。然し、加害に付いては声を潜めるか、或いは黙ります。
これは国に限らず一個人でも同じです。家族でさえそうです。戦争と言う大きな争いでは、考えられない人権無視が権力と国益の名の下に正当化、或いは命令されました。
日本は「ヒロシマ」「ナガサキ」そして、全土が空襲を受け、多くの死傷者が溢れました。
納得出来ないのが「靖国」です。「先の大戦で国の為に命を落とされた・・」という言葉の中に民間人は含まれません。
「国の為に・・」と言うのならば、総ての犠牲者を祀る為の施設を作るべきです。
「靖国」と「千鳥ヶ淵」という二つの施設があるのもおかしい事です。
A級戦犯を簡単に合祀するならば、何故、特定出来ない無縁というだけで合祀しないのでしょうか。
「千鳥ヶ淵」には、特定出来ない遺骨が山積み状態ですが「靖国」には遺骨というものは無いと私は思っています。
特定できる遺品・遺骨は遺族に渡っている筈ですから、「靖国」は「戦死者名簿」が有るだけだと思います。「靖国」には父の戦友会集合で行きましたが「遊就館」という兵器などの展示施設が有りましたが「戦争記念館」のような元兵士の為のようなものと思いました。戦意高揚や強制参拝などの映像は遺族には不愉快なものです。二度と行ってはいません。各県にある「護国神社」も同じです。組織化された遺族会などが政治に巧く利用されていると思います。
その遺族も間もなく居なくなります。
中曽根氏が「このままでは靖国は消える」と言いましたが自然消滅で良いと思います。
「軍人」には生還者には恩給、戦没者には遺族年金というものがあります。私は幼時に母の実家の養子になったので非対象で、お金には無縁ですが戦死した父の状況調査は必死になって行いました。名古屋で空襲体験もしました。戦後の食料不足、学業の断念など無念の思いは消えません。
然し、少年期の被害体験も成長すれば「その訳は何故か」という疑問に変わります。
それが無ければ「恨み」ばかりの人生になってしまいます。それでは不幸で惨めな一生に終わるでしょう。
それには国の歴史を知る事が必要です。
そこで、何故、日本が日中戦争に始まり昭和二十年惨憺たる敗戦に至り乍ら、今尚、東南アジア諸国から非難され続けられているかを知る必要があります。それは、今尚、責められる原因を正しく伝える事を怠った事が問題です。
詳しく書く余裕はありませんが、かって、東南アジアは、フランス、イギリス、アメリカ、オランダなどの諸国が植民地支配の下にありました。その支配から開放するのだと、日露戦争に勝った日本が、その勢いに乗って進出(後侵略に変わる)し大東亜共栄圏という構想を展開しました。
これは国民学校低学年の私の耳目にも沁み込みました。次々、日本軍が侵攻し欧米軍を追い出したまでは良かったのですが、それぞれの国の独立解放ではなく支配に変わってしまった所から(侵略)に変わったのです。
神社を建て日本語教育まで要求しました。これは明らかに植民地化です。
資源の無い日本にとっては豊富な資源に奢った軍部が理性を失ったのでしょう。
日露戦争に勝って樺太千島を獲得、満州建国と東南アジアで膨張する日本を欧米諸国が黙っている訳がありません。更に日独伊などいう広い範囲まで暴走しては妄想の世界です。
真相はともかく、欧米の挑発に反発し「真珠湾攻撃を忘れるな」という策略に嵌められながら奢った指導者が亡国へ突っ走りました。
朝鮮人強制連行、中国人虐殺、従軍慰安婦、今も残る、毒ガス処理など、己の負の遺産を帳消しにして「ヒロシマ」だけを責める事は出来ません。「アメリカも酷いが日本も酷い事をした」と共の語るべきです。
被害は大声を上げるが、加害は出来れば黙っていようなどとしては永遠に責め続けられるでしょう。
それが何も身に憶えの無い子孫に引き継がれれては大きな迷惑です。
伝えるべきは伝え、知るべき事は知るべきです。
私は戦争を伝える年代の終わりの位置に居ます。半年計画で資料の再整理に入ります。画像を加えたDVD化を考えますがやれるだけやります。
「目には目を、歯には歯を」では前進はありません。今こそ大局を見極める指導者の出現を望んで止みません。
企画力の差 8.1
一宮では、二十八日から三十一日まで「「七夕まつり」が開催されました。
四月の真清田神社の「桃花祭」が一〜三日ですが平日開催の事も有り、全くの低調です。
商店街も三割近くが閉店状態。全く活気がありません。
「七夕まつり」は昭和三十一年から始まった商業祭りで伝統も無く宗教色も曖昧です。
市の商業観光対策から始まったものですが、同じような行政主導の「まつり」は全国に発生しました。
商店街の衰退と共に予算も減少し、外部の招待団体(音楽隊・民俗芸能など)も大幅に減少しました。
そこで、「札幌よさこいソーラン踊り」の名古屋バージョン「ど真ん中祭り」の開催で各地に発生した「踊りチーム」を当地で披露出来ないかと、昨年から「舞my いちのみや」というイベントを始めました。
これは数年前、本町アーケードリニューアル記念に開催したフェステイバルの盛況の再現を図ったものです。
今年は、十五チームと「チアドラゴンズ」の特別参加で三十一日夕、四時から宵にかけて開催されました。
私は「ど真ん中祭り」を第一回から見て来ました。今年も八月末に開催されます。万博の雰囲気も加え参加チームも拡大し相当な盛り上がりになると思われます。ここに来て、踊りチームのコンセプトの違いがはっきりしてきました。人数を集めて楽しくやれば良いというだけではいけないという感じになってきました。
伝統芸能のように永年の積み重ねがあるものは、その修練でアピールする魅力が有りますが、物事を新しく創造するには、しっかりした企画力が必要です。基本になる「コンセプト」と、しっかりした「プロデュース」が無いと底の浅いいい加減な事しか出来ません。
「古典芸能」にも決まった基本の手順はありますが、それを超えるには、かなり強力なオリジナリティをプラスしテクニックを加えることになります。単に人真似だけではすぐ駄目になります。衣装や音楽を取り替えるだけでも駄目です。
基本がしっかりしていればアレンジによってますます練り上げられるのですから如何に最初の発想とプロデュースが大事かわかります。
伝統芸能を「古い」と否定せず、完成されたものは取り入れるべきです。内容は古くても伝えられ続けているという事にはそれだけの理由が有ります。
時代に全く合わない内容の歌詞でも何の抵抗も無く受け入れられる「盆踊り唄」などがそれを証明します。
手順が分かれば、それで判ったというものではありません。如何にそれを魅力的に表現出来るかが大事なのですがこの頃はそこまで考えません。若い人はそれなりに色々な表現の場がありますから色々やってみる事も必要でしょう。
高齢化社会が進む時代です。全世代に亙って伝え続く息の長い芸能と伝統文化が育つ土壌が必要だと思います。
伝統文化 7.26
この所、伝統行事と出会う機会に恵まれています。
「徳川園山車総揃え」が百年振りの行事。伊勢遷宮「御神木奉迎送」が二十年振り。「那古野神社大祭」の見舞車二福神車のお囃子奉納が戦後初めて。など。
伝統行事が見直されて復活、或いは継続されている事を目の当たりにしています。
「御神木奉迎送」の真清田神社滞泊は過去にも行われていましたが、神社内行事だけに止まり、一般参加は有りませんでした。行事が有った事さえ知らなかったのです。
戦争という、未曾有の歴史の中で、多くの祭礼の用具や人材も失われました。全く消滅したものも有ります。
私も断片的な情報は聞いていましたが、幼時の微かな思い出のみに埋もれてしまっていました。
行われている事を確かめに出掛けたのは、まだ十年ほど前の事です。
戦後、発生した「まつり」という冠を被せた行政指導の「まつり」は、伝統とは程遠く、「何でも有り」の寄せ集めの同じようなイベントで各地に発生しました。
「政教分離」に偏って「伝統文化」まで排斥してしまいました。
参加する人達も、その時の世相に合った流行を華やかに披露する事が良いのだと思って運営されてきました。
見た目は賑やかなのですが、二、三年で入れ替わってしまいます。
「伝統行事」はそんなに簡単に伝えられるものではありません。世代が変わっても、厳しく伝えられる技術と道具の運営が必要です。「伝統行事」と「官営イベント」は全く原点から違うと言う事を承知するべきです。
「官営イベント」もネタ切れと予算の削減で色褪せてきました。予算を貰って「まつり」をやろうという考えはやめるべきです。
「お祭り」は民意が主体であるべきです。その為には「寄付」などもお願いする事になりますが、これは富裕、一般の差は有りますが地域の連帯と生活の張りを齎す潤滑の為だと理解出来ないでしょうか。
「神社」はその立場から伝統をしっかり守りたいと思います。それは全くその通りです。その為の方達なのですから。
「神事」と「祭り」が一体と言うのは戦前は当たり前でした。一時の国家神道に傾いた行政も問題にしませんでした。
戦後は、極端な反動もあり、時代も土日以外は休めない体制となり「伝統行事」がそのまま受け入れられない体制になっています。地方の神社では土日開催に切り替えなければ開催出来ない所が多くなり変更されました。
それが地域の盛り上がりに貢献しています。
どうしても変えられないのが「本宮」と言われる大きな神社です。神社もジレンマですが氏子も同じ悩みです。
つまらない「官営イベント」はそこそこにして、本来の重厚な洗練された「伝統行事」を地域全体で再構築する意欲は地域に大いに有ると思います。
その証がこの所、感じられました。「徳川園山車総揃え」も「御神木奉迎送」も八千人の人が集いました。
「那古野神輿」も断続していましたが、四年続きの開催で大分知られてきたと思います。
今年は担ぎ手も百十人となり、もう三十人加われば戦前のように、大(八十人)中(四十人)の神輿が出る可能性が出て来ました。
女神輿、子供神輿(二)、お獅子(五)の総揃えも夢ではありません。
開催日が変えられないと言っても、かっては旧暦から新暦に変え、それも季節が合わないとの理由で一か月後にしたというような事もありました。そこは何とか知恵を働かせ氏子も声を上げて協力出来ないものかと考えます。
マンネリ化し、底の浅い色褪せた「官営イベント」は縮小し、民活の本当の「お祭り」を真剣に考える日が来ていると思います。
御神木その後 6.11
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六月七日、一宮市真清田神社に御滞泊され、八日朝出立された御神木の到着から出立までをビデオ取材、当HPでご紹介しました。
御神木は、その後、津島市を経て三重県へ入り、無事伊勢神宮へ到着されました。
数日後、長野県上松町の御神木の搬送の大役を勤められた「上松陸送株式会社」の方から、当HPのサイトをご覧になって会社の記録として写真のダウンロードの了解を得たいとのメールを頂きました。
私は、今までに、一切著作権を主張した事は有りません。
お使い頂いて結構ですと申し上げ、HP掲載の写真ではビデオの静止画で画素が粗いので、加工自由ということでDV=DVのテープのダビング(五十分)を送る事にしました。
費用到着払いで、ということでしたが「名誉な事でもあり僅かな費用ですから不要です」と郵送しました。
二、三日して、その御礼ということで「御神木切り出しの木片」が「上松陸送さん」の御神木搬送の内容を含む会社の紹介、上松町の「御神木御木曳き」が紹介された業界誌と共に送られて来ました。
「御神木木片」は、NHKの放送でも紹介されましたが、非常に貴重なもので「神宮庁」が殆ど纏めて回収されたそうです。なかなか普通の人の手には渡らないものです。
「上松陸送さん」が、ごく僅かに頂かれたものの一部を私が頂くという思いがけない事になりました。
白紙に載せ、ケースに入れ我が家の「お守り」にします。
上松町や伊勢では御神木は「お木曳き車」で奉送され、五十鈴川では「川曳き」が行われました。
写真は有りますが私の物ではないので紹介出来ません。
「神宮庁」が、ビデオ取材をしていましたし地元の奉仕団体の資料が入手できれば見せて頂く事になりましたが難しいかも知れません。
「御遷宮行事」が総て終わるのは、かなり先の事ですが、ご縁ですので注目していたいと思います。
ビデオカメラ分解 7.6
七年使ったHi8のビデオカメラと、九年使ったHi8のビデオデッキを分解しました。
どちらもテープが巻きつき、カメラはファインダーも写らなくなった(液晶は無し)ので捨てる前に分解して見ました。不燃物ゴミに出しても持って行かない事もあるので、どう組み立ててあるのか興味もあり解体しました。
デッキは、VHSを分解した事がありましたがさほど手間は掛かりません。
カメラは複雑です。レンズが有ります。小型モーターが沢山使われています。
デッキは回転ドラム付近だけですが、カメラはレンズ回りにズーム駆動などに使われる1.5センチ径位のモーターが数個付いています。
基盤は2層あり、その他、ファインダーやレンズ周りにも小さな物が付いています。
レンズも多層です。かってミノルタのレンズ研磨工場を見学した事がありますが時間の掛かる精密な作業です。基盤も緻密です。一時代前の機種ですが精密な機構に感心します。内外部のプラスチックや金属の金型造りの精密さにも苦労が感じられます。
私は十年近く寒暖の中、使い切りました。
いつも思いますが、物は使う為に有ります。使う事により作られ購入した事が活かされます。
やたらと新機種に換えたり、使いこなせなくて眠らせて置く事がありますが勿体無い事です。
Hi8の録画テープが手元にかなり有るので、身内が持っていたSH社のビューカムがどうなっているのか聞いた所、使わずに有るというので持って来て貰いましたがバッテリーは駄目です。一時、撮影が容易という事でビューカムがかなり出回りましたが、重くて大きいのと、バッテリー消費が早く(液晶が大きく20分位でアウト)使わなくなってしまいました。
それでDC電源使用で再生、DVへのダビングだけの用途で使っています。
S社はHi8の販売は新機種も出して続けています。デジタルのような多様性は有りませんが私には、画質、使い勝手の良いビデオカメラでした。
ビデオは撮影してからの処理が大変ですが整理が巧く行くと効果も増して見直す気にもなります。
何といっても、かなり以前の情景が音と動きで、ありありと再現できるのは動画の魅力です。
早半年 7.1
今年も前半が終わってこれから後半。
私はどちらかといえば夏人間なので、後半の方が身体は楽です。第一、活動時間が長く取れます。長過ぎれば途中休憩も出来ます。明るい時間が長く、気温が高めというのが何よりです。
前半は四月終わり頃までは何となく体調不良です。寒さと活動不足が心身を萎えさせます。
最近、身近な人が体調を損ねています。私と同年ですが身体不随や生活習慣病の悪化で入院しています。
回復の望みが薄いのですが、どうする事も出来ません。
他人事ではないので「出来る事は整理しておかなければ」と考えを巡らしています。
少し前までは、あれもこれもやってしまうと、それで終わりになってしまうからボチボチとか思っていましたが案外、次々やることは現われるもので「片っ端からやれば良いのだ」と思います。
地域の仕事を永年やってきましたが、前年度末で退きました。やる事が無くなってヒマになるかなと思いましたが違う事をやればそのように課題も出来るので、やたら引き摺らずに、リフレッシュするのも気分が一新して良いものです。
ビデオや写真の整理も、始めれば考えていたほど、ハードの値下がりのお陰で、入手しやすくなり、手間も掛からないので「考えたらやるは易し」と思います。ハード、ソフト共、進歩は早いです。
先進派のリーダーだったソニーが遅れを取って業績悪化と言われる時代です。どんどん進めば良いと思います。
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