伝えるべき事 12.31
今年も今日で終わります。
私達世代は伝えるべき事をいくらかでも伝えられたでしょうか。
戦中戦後を生きた貴重な苦難の体験を現世代の人に伝えられる特殊な時代の体験者だと思うのですがそれがなされていないと私は思います。
東アジア諸国との意思の疎通が不充分な事がそれを表しています。
歴史認識が正しく伝えられていない事が大きな理由だと思います。
セレベス沖の大津波が悲しく伝えられますが、私には東南アジアに何かがあると、地名と太平洋戦争の報道が重なります。
セレベスと聞けば石油資源の確保の為の、スマトラ島パレンバン飛行場への落下傘降下部隊のニュースが浮かびます。
「空の神兵」と謳われ、漫画映画にもなり繰り返し脳裏に焼き付きました。
欧米諸国からの植民地解放という功績はありましたが、現地国民を軽視した横暴はあまりに酷く法解釈だけでは解決できない傷跡になったままです。
アメリカ一辺倒ではなく、東南アジアとの友好を望みますが、今の首相には期待出来ないので世界観の広い為政者の登場を待ちます。
何人だか判らなくなっている「日本人」の本来の歴史と誇りを取り戻して欲しいと思うのが私の思いです。
貧弱な民族になってはなりません。
外観やコピーで誤魔化すことなく「本当の日本人」の姿で胸を張り闊歩したいものです。
文化財の保護 12.18
文化審議会は十日近代建築物の保護を目的とする有形文化財(建造物)に199件を登録するよう文部科学省の答申しました。登録されれば4619件になります。
愛知県では、名古屋市の「旧川上貞奴邸主屋、蔵」「料亭河文主屋など五件」。
「犬山の町屋五家(真野、磯部、小島、遠藤、伊藤)の主屋、土蔵、座敷など19件」犬山の町屋登録文化財は十四ヵ所46件。
碧南の「九重味醂大蔵」.。新城の「滝川家(旗本陣屋)」。甚目寺の「実成寺(江戸前期建築)」。
「旧川上貞奴邸」は、既に、お伝えしているように来年二月八日完成披露が行われます。一階は歴史資料館、二階は城山三郎氏所蔵資料や地元作家の文学活動が紹介されます。
「料亭河文」は元禄年間、店を開かれ十二代続く格式ある老舗です。那古野神社のすぐ傍、那古野祭には「那古野百人大神輿」が、門付けされ、ご祝儀の振る舞いがあります。
気軽に立ち入れる場所ではないので詳しくは「堀川文化を伝える会」発行「花の名古屋の碁盤割(¥400)」(名古屋のまん中なかなかNET http://www.naka-net.city.nagoya.jp
)を参照して下さい。
当HPでは「文化のみち」のレポを紹介していますが、進めて行くと色々考える問題が出てきます。
単に珍しさやノスタルジーだけでは済まされない気がしています。武家政治が終焉し殆どが消え去っていった武家屋敷が、その片鱗を残しつつ、明治、大正、昭和初期に勃興した新産業(陶磁器など)の成功が特色ある近代建築の出現を齎し、多くの人材を輩出し、文教施設、電力、ハイテク、自動車、セラミック産業へと大発展の基礎となった地区です。大きく発展した産業は広大な工業地帯として形成された沿海部へ展開し、名残りとして「文化のみち」が存在しています。
豊田家長屋門、豊田佐助邸はありますが、豊田さんは住んでは居られません。ソニーの盛田さんは、この地で生まれ育ったのですが現在、縁故の方は居られないようです。
文化財としての保存には多くの問題が有ります。目的が失われた無人の建物をどう維持するのか。住んでおられる方の維持管理費用や資産運用の問題。「文化のみちラリー」などのイベント開催時に大勢の人が訪ねられるのは結構な事ですが、住んで生活をしておられる方への心遣いが必要です。
「春田文化集合住宅」は、連戸建て集合住宅の第1号といわれる和洋間、書斎などもある中流程度のサラリーマン対象の洒落た一角です。アメリカ領事館副領事、ドイツ時計技師、医科大学部長などエリートの共同生活区画です。六年前の「第一回ウォークラリー」時には区画に立ち入れましたが、現在は関係者以外は立ち入り出来ません。住んで居られる方がプライバシーを覗かれる事を不快に思われたのかもしれません。
誰も住んでおられないのかと「ボランティアガイド」に尋ねたところ住んでおられるようです。十二戸全部かどうかは判りませんが「ガイド」の方達も立ち入られる事は無いとの事です。
昭和三、七年の二期に亙り、十三戸建築され、京都市役所、名古屋市公会堂などを手懸けられた武田五一氏設計です。タイムスリップされた特異な空間での生活を営んでおられるのだろうと、チヨット羨ましい気持ちがします。
今の状態が、どう存続され形を変えて保存されて行くのかは未知数です。
「旧川上貞奴邸」のように旧部材は多く使いながらも真新しい姿に復元されるのは複雑な気がします。解体前の姿は創建時より大幅な改造がされていて、改めて創建時の姿に復元されました。円形ソファーなどの補修なども素材から忠実に補修するなど調度品なども新しくなったと「よみがえる双葉御殿展」で伝えられていました。復元と原型保存との兼ね合いが、どこまで認められるかも課題でしょう。新しい物も時間が経てば風格が滲み出て来るとは思います。現地保存も所有者の世代交代などあり、どこまで許容できるか難しい事です。
姿が見える有形物も貴重ですが、伝統芸能や行事の保存にも知恵と努力が必要な事を多くの人に判って欲しいと思います。
如月(きさらぎ)に 12.12
ハンドルネームを(きさらぎ)に変えようと思います。
その理由は三つあります。
その1 私の生まれ月が二月(如月)です。
その2 西行法師の辞世と思われる歌 「願わくは 花の下にて春死なむ この如月の望月のころ」
その3 勧進帳(長唄)の「時しも頃は 如月のきさらぎの 十日の夜 月の都を立ち出でて」
それぞれの説明をします。
1 たまたま偶然の運命です。
2 西行法師は桜をこよなく愛し「叶うならば満開の桜の頃に死ぬ事が願い」との思いが叶いました。
西行が没したのは旧暦二月十六日ですが今の暦では三月末で桜が咲いている頃です。
「西行」については改めて書きます。
3 歌舞伎十八番内で私が最も好きな「勧進帳」の歌詞です。先代尾上松緑の弁慶は絶品でした。
今もそれを超える役者は居ないと私は思います。ビデオを色々持っていますが何度見ても感動します。
夢でしたが一度は「飛び六法」をやってみたかったと思います。
「旅の衣は鈴懸の、旅の衣は鈴懸の 露けき袖やしおるらん」で始まる幕開きはゾクゾクします。
如月の十日、京の都から東北の地へ苦難の旅立ち「安宅の関」に向かいます。
松緑さんの「勧進帳」についての想いについても改めて書きます。
私は、今までハンドルネームを「一宮のさくら」としてきましたが、これは佐藤良二さんが一宮裁判所に植えられた「枝垂れ桜」をNHKの放送で知った昭和五十九年以来、関わりを持った事から、その「桜の声」として名乗ってきました。女性と思われた方も有ったようですが、私は六十七才の男です。
来年は思うところあり、桜に関わりがある、相応しいハンドルネームをと考え「きさらぎ」がどうかと思い付きました。
来年二月の生まれ月から改名します。宜しくお願いします。
一宮裁判所「枝垂れ桜」は植樹三十年余の育ち盛りです。
平成六年(1994)以来、この桜の前で多くの「さくら道ランナー」が暫し、憩い、通過して行きました。
その「さくら道四十八時間ウルトラマラソン」は十年で終了しました。今は「それぞれのさくら道ランナー」が、それぞれの思いで走って行きます。私のエイドサポートも終わりました。
同じ年からの「さくら道国際ネイチャーラン」は続いています。私は第一回から横断幕を掲げるなど声援を送り続けています。これからも応援は続けます。
地域にある「さくら道」の桜は、これからも、毎日見守って行きます。
十二月八日は 12.8
太平洋戦争が始まった日です。
「大東亜戦争」が当時の正称でした。そう教え込まされました。
この辺りから私も人生の大転換が始まりました。六才の私にはその意識は有りませんでしたが180度の大転換の始まりでした。
昨今の政治の状況には呆れ果て意見も言う気も薄れ、今年はこの事は書く気は無かったのですが、それではいけないと既に書いた「文」を後にして少し書きます。
やはり「イラク」「靖国」の問題になります。
いずれも小泉首相の個人的感情が率先し国益を大きく損ねています。
冷静に判断すると行政改革も殆ど捗っておらず外交でもマイナス面ばかりが感じられる気配です。国会の議論も基本思想が確立していないので支離滅裂な応答しかできません。
ロシアのプーチン首相さえイラク選挙の実行は想像できないと言い始めました。アメリカ兵の戦死者は1000名を超え、兵士が一年の派兵任期延長は違法と提訴しました。無理矢理な、こじつけから始まったイラク戦争の破綻が始まる気配です。私は面子に、こだわらず一刻も早い終結を望みます。
十二月八日はジョンレノンの亡くなった日でもあります。私は平和を願い「ピ−スウォーク」にも参加しました。
「戦争は終わった」と歌う「ハッピー・クリスマス」。 歌い続けられる「イマジン」。
「戦争は終わる、もしあなたが望むなら」
双葉御殿跡 11.28
かって、「双葉御殿」が建っていた場所へ行ってきました。
六年前「文化のみちウォークラリー」の時、初めて見て、そして見納めでした。
その時、すでに解体の話が出ていました。外から眺めただけですが人が住んでいる感じはありませんでした。
福沢桃介さん関連の「大同特殊鋼双葉荘」の表札がありましたが使用されている様子もありませんでした。
撤去されるには惜しい、貴重な建物なので名古屋市が解体、名古屋ドームに保存、部材補修などが加えられ創建時の姿に復活、撞木町に完成、来年二月オープンです。
残念なのは「双葉御殿」の名称が消える事です。双葉町ではないので止むを得ませんがイメージが失われます。名称を公募中ですが、私には、どうも違うイメージが浮かびません。
桃介・貞奴の社交サロンとしてで建てられたロマンは復活した建物に再現されている様子が良く見えますが「文学館」のような使用目的になるようです。どういう形態になるのか楽しみではありますが・・。
解体前の姿は既に、当HP紹介してあります。
創建当時の敷地総面積は、かなり広かったのだと思います。現状は100メートル間口幅位の区画の中央から北に、3メートル幅の道路を60メートル程入ると車は行き止まり(歩行者のみ急階段で降りる)。東側に(そこまでは現在駐車場)です。今、建っているのは、鉄板屋根平屋で中央部に太い煙突が有り作業場風ですが仮のものでしょう。現在の様子はごく普通の民有地の姿で、ご紹介する事もないと思います。
真向かいの家の方で、相当高齢と思われる、お婆さんが外に居られたので10分ほど話しました。
「ここは双葉御殿でしたよね」 「そうだよ。壊してしまってよー」 「撞木町に立派に建て替えて二月に出来上がってますよ。ただ平地だから眺めは良くないけど。双葉御殿という名前は無くなるけど」 「あ、そうかな。そりゃ良かったわ。良い建物で無うしてまったら勿体ないもの。双葉町では無いで仕方ないわなぁ。身内の二人の女の人が家の守をしとらして、一宮と山口町(近く)から来とらしたけど道路が狭て車が置けんでいかんと言っとらしたわ。新しいのが出来たら、お婆ちゃん見に来てよ、と言っとらしたわ。まあ出来とるかな。そりゃ良かった」
「ここは眺めは良いけど、急に凄い坂(45度位)だね」 「そうだよ。このすぐ下は池になっとって、亀が、よう上がってきたわ」 「へえ、池が・・」 「家もあまり無かったから瀬戸電がよう見えたわ」
話していたら、遥かに瀬戸電が走っていくのが見えました。今は高架になり家並みの間から走っているのが時々見えます。あの坂では、多くの雨が降ると滝のように水が流れて落ちる所が池のようになったのでしょう。
名古屋には覚王山や東山は坂が多いですから、排水も舗装も整ってなかった頃は大変だったんだなあと気が付きました。
名東区猪子石の新住宅地では十数年前、集中豪雨の時、中学生が雨に流され側溝で亡くなる事故が有りました。思いもよらない事があるものです。
「双葉御殿」は解体前に訪ねておいて幸運でした。人も物も総て「一期一会」です。
話をした、この、お婆さんともお会いする事は多分もう無いでしょう。
ここから、近くの「金城学院」の傍に立つ二百年の「むく」の巨木を見て、前の道路を舗装中の「双葉御殿」と「文化のみち」の数箇所を再取材。
当初の目的「ウイルあいち」へと向かいました。それぞれのレポは追々、お伝えします。
果てしない興味 11.27
文化財などを見て歩く時は、ガイドコースに従って一通り歩き、それで一応目的は完結したと思うのが普通です。
掲示文や、手に入る資料を見て一層それは増幅され、それなりの満足感が得られます。
自分が現地で見学し、それなりのレポートを纏めようと資料を見直すと、それ以外に自分の感性に反応する事があります。
今、主税町カトリック教会のレポを書こうと思っていますが、この建物は当初は明治二十年(1887)カトリック宣教師チュルパン神父が士族屋敷を購入し教会に改造したものです。
敷地内に小学校(明治二十一年設立・三十五年廃校)、救老院(明治二十三年設立・三十九年廃院)を明治三十七年(1904)その一部を移転改造。大正十一年(1922)現在の聖堂に近い形になったといわれます。
それ以来、道路拡張などもあり変化しています。
和風・洋風がミックスした特殊な構造になっています。現在の建物は反り屋根も鐘楼も日本瓦で葺かれています。明治三十七年当時は鬼瓦の上に十字架が立っていて、その写真が残っています。
資料をよく読み直すと、見学時、気がつかなっかった事が多くあります。28日に近くの「ウイルあいち」に行くので再度行って見てきます。
このように、一つの事でも次々興味が深まります。他の建物も同じです。楽しみと張り合いが出来て有り難い事です。取材中は一人になります。仲間と行った事もありますが、ドンドン先に行ってしまうのでペースが合いません。私が一箇所に手間取りすぎて、ウンザリするだろうと思います。一か所最低三回は行かないと心残りです。ですから、遠い所や不便な所は駄目です。
名古屋市内だけでも、まだまだ未発見な所は膨大なので、生涯ライフワークにしても、まだ無限です。
幸い来年度から完全フリーになるので心置きなく歩き回れます。
一宮合唱祭 11.22
11.21 一宮市勤労福祉会館で、第28回「一宮合唱祭」が開催されました。PM0.30〜4.30 16団体の出演でした。
混成7・女性9です。開演に10分遅れましたが、終演後の全員合唱(この星に生まれて」まで美しいハーモニーと力強い歌声を聴かせて頂きました。
前回は、私一人で聴きましたが今回は奥さん(合唱団OB、現在は某団体で練習中)同伴で拝聴しました。
前回は出演関係者(家族・友人)と思われる入場者が多い様子で空席が多かったのですが、今回は殆ど満席状態で入場整理(演奏中入場制止)もされていました。エチケットとして当然ですが良い事だと思います。
前回のプログラムを探して見ますが出演団体の数も増え、レベルアップされたと感じました。
全体が「いい加減」ではありません。指導者が妥協されない厳しさがあるのでしょう。前回出演で今回は参加の無い団体が有りましたが出演団体以外にも多くのグループがあると思われます。
それぞれの感想を述べるような能力は私にはありませんので感じた事だけを述べます。
ハーモニーと綺麗な声色・歌う事を楽しむ・正確な音程と声量・芸術性など表現は多彩で感動と楽しさ、美しさ、練習の努力が伝わってくる三時間三十分でした。
一宮合唱団 くさぶえ の 「O QUAM GLORIOSUM (おお、なんという栄光にみちた)」 聖歌は涙が溢れました。クリスチャンでもない私に感動を与えたものが何かは私にもわかりません。
これほど美しい光を与える宗教であるキリスト教信者が、なぜ残虐な戦争を行うのか理解できません。
一地域のアマチュアグループが長い合唱曲を、かなりのレベルで歌われた事も相当な努力があるのだろうと感じました。既にハイレベルに達している団体の完成度にも「さすがだなあ」と感服しました。
私は「日本芸能」の領域の事はある所までは経験しましたから、気持ちの、いくらかは理解出来るつもりです。
客席の反対側にも立ったこともあります。全く違う世界は、怖くもあり、恥ずかしくもあり、能力の試練の場でもあります。軽率に立つ位置ではありません。それだけに日常の水面下の努力や心掛けが怠れません。
改めて思い直す機会を与えられた良い演奏会でした。
多彩・文化の道 11.10
「文化のみち」 PART 2を執筆しようと思いますが、それぞれの内容を説明するだけでも資料が一杯。
一応の纏めを付けるには暫く掛かります。更新・更新で行きます。
歩こう!文化のみち 11.6
11月3日 名古屋市東区「文化のみち」一帯で、ウォークラリー・音楽・おはなし・体験講座などのイベントが開催されました。
傍題として「着物で歩こう!文化のみち」「大正ロマンのお屋敷ウオッチング」「徳川家ゆかりの地を歩く」「プレゼントもいっぱい!」という盛り沢山のイベントでした。
私は第一回に参加しました。その後も毎年開催されていますが今年は改めて二度目の参加でした。
コースも大幅に拡がり、スタンプポイントは13地点です。全部スタンプしました。
市政資料館・主税町教会・旧豊田佐助邸・撞木倶楽部・旧川上貞奴邸・主税町長屋門・金城学院高校・熊野屋・花藤ギャラリー・貞祖院・陶磁器会館・建中寺・徳川園です。
それぞれで前述のイベントなどが行われ、午前9.00、市政資料館での明和高校吹奏部のオープニングコンサートで始まり、午後4.00終了までピッタリ七時間のウォークでした。
今回初めての訪問は、貞祖院・熊野屋・花藤ギャラリー・主税町長屋門。
普段は公開していない所も有り貴重な経験でした。
頂いた資料にも未知の物があり収穫大でした。
市政資料館「映像で見る昔の名古屋」では、昭和八年の名古屋城周辺の住宅地図の展示があり、祖父一家の住んだ家を発見しました。私が住んだ東区葵町の住宅地図(昭和八年)は頂いた物が手元に有ります。
鶴舞中央図書館に他の地区の物も有るようなので行ってみようと思います。
その後、昭和二十年辺りまでのものは無いようです。空襲罹災図は有ります。
戦時中の地図は、工場など、軍事機密の理由からか公開されなかったのかも知れません。
「文化のみち」、前回のレポートは既にアップしてありますからPART2を考えましょう。
災難 10.27
今年は台風、水害、地震と災害が続出です。
被災された皆様には同情と激励を申し上げます。
災害地の姿を見ると私はすぐに自分の空襲体験と重なります。
空襲体験は当HP(名古屋大空襲)に知る限りの状況を書きました。
深夜の空襲が明けて、荒涼とした焼け野原の中で、中に味噌玉の入った「おにぎり」を貰い食べました。大規模な空襲の中、どういいう組織の人達が炊き出しをされたのかは判りませんが、パラパラしたご飯の中に味噌球が有りました。一度だけだったと思います。避難所などは無く,
居場所も無く,近所の人達に会った記憶も無く散らばっていきました。今迄、誰にも会っていません。
私達家族四人は、幸い被災していない隣町(車道)の知人宅で、一両日お世話になり、広小路を真っ直ぐ、3K位歩いて名古屋駅から現在地の一宮に来ました。
母は既に亡く、父はフイリッピンに。留守番の叔母と三兄弟(11.9.6才)は、後の事も考えられず去りました。医院を開業していた、かなり大きな家でしたが借家だったと思われ、そのままになってしまいました。父の戦死で復帰も叶わず、私も成人期迄、訪ねる機会もありませんでした。
戦後の成長期には長い間、食糧難で飢えました。
今の被災地の状況は厳しい状況ではありますが、取り敢えず食糧は「お握り」「パン」などが配られ、直ちに飢える状況ではないのが救われます。
「有り難い事です」と言われる方は戦時の厳しい体験をされたのではないかと察します。
戦後も六十年近くなり、行政も住民も、厳しい体験者が少なく、精神力も鍛えられていません。
忽ち参ってしまいます。
辛い事ではありますが救いは迅速に行われると思います。暫くは堪えて下さい。復興は出来ます。
神戸の震災は、まさに空襲の姿に近いものでした。火災は燃えつきるまで続きました。空襲がそうでした。何一つ残さず燃え尽きました。空襲では救援もありませんでした。
「東京大空襲」は、一夜で十万人の人が亡くなりました。同じような状況が日本全土でありました。
戦争とは、そういうものです。災害の姿を見る度「空襲」と重なります。体験者ならではの実感です。
「自然災害」を教訓として、「人的災害」である「戦争」を起こさないよう真剣に考えて下さい。
神戸震災から十年経ちました。他人事と思わず、各人が生活態度や環境の再点検をしなければ、不時の災難に対応出来ないでしょう。
中途半端 10.22
周辺機器を入手しようと考えていますが、何れも用途が中途半端。
まず「ビデオキャプチャーボード」。
手元には数種類の「ソフトエンコード」がありますが時間が掛かり過ぎるのと長時間(30分以上)のエンコードは作業が渋滞し不調になります。「ハードエンコード」にすれば解決します(メーカーのコメント)が未経験です。
次は「DVDマルチドライブ」。「DVD・CD書き込みドライブ」はありますが容量は700M止まり。Mpeg2では約15分弱が限界です。データの保存には充分です。DVDは動画保存のような巨大容量以外の用途は思い付きません。
「ビデオキャプチャーボード」も、最近はTVチューナーが標準装備でBSデジタル対応のものもあり、TV番組のキャプチャーが当然のようになり「ビデパソ特集」などがパソコン誌で紹介されています。
私の用途は「ビデオカメラ」の編集で、TV番組録画は特に目的が無ければ「DVレコーダー」の方がはるかに簡単で便利です。殆どの人がそうでしょう。
「ビデオキャプチャーボード」ですが取り溜めた膨大なテープ(VHS・Hi8・DV・βなど)アナログ・デジタルの読み込みと編集が目的です。
撮影の方はアマチュアとしては一応区切り。編集も一通りはこなせるので、ムキになる事も無く気楽にやる心境です。それもあり、時間さえ厭わなければ「ソフトエンコード」でも行けないことはありません。
読み込みと編集で一日。エンコードで一日あれば、60分作品は作れます。そういう作業も年に数本でしょう。
「DVレコーダー」。TV番組録画をやりまくる事は全くありません。
テープからMpeg2へのエンコードは60分のものが10〜15分と高速ですが編集はカットのみ。Mpeg変換したものの編集は不可なので、書き換え可能な「DVDRAM」以外、貴重なものでなければ何れゴミ廃棄になります。
最近の「ビデオカメラ」の中には「アナデジ変換」が直接パソコンに取り込めるものがあります。
アナデジ変換手段が「キャプチャーボード」を使わなくても、これでやれます。私の「ビデオカメラ」は耐用年数を遥かに超え一部不調になっていますからこの術も一つです。
それぞれ中途半端な状況なので立ち止まっています。
多機能な機器が溢れていますが実際に使われる用途はほんの一部です。
その代表が「携帯電話」であり「パソコン」でしょう。
「携帯電話」必要以上に無駄な利用がされていますが、パソコンは今ではコストも低く気にする事もありませんが物凄いパワーが潜んでいます。人が使いこなせないだけです。
・NETは「2005日本語β1」がテスト版として出ています。試用版ですから実用には未対応ですから実務パソコンに入れるのははトラブル発生の危険が有ります。マニュアルもありませんから物好きな人以外は使わない方が良いです。
私は物好きなので・・・・。
環状線 10、13
名古屋地下鉄名城線が環状になりました。
便利になったのは確かですが、気を付けなければならない事も有ります。
行き先表示が「右回り」「左回り」になりました。ウッカリすると、とんでもない大回りになってしまいます。
例えば「栄」から次の駅「久屋大通り」に行くのを「右回り」(と思ったが)に乗ってしまうと次は「「矢場町」。気がついて飛び降り反対ホームから戻ればいいのですが、そのまま乗り続けると30駅(中間の15区間目は名古屋大学、全区間48分)45分乗って、やっと「久屋大通り」到着です。料金は「久屋大通り」までの一区間ですが暗闇の中の45分は嫌になるでしょう。
私は、かって、市電(路面電車)の環状線で、そういう経験をしました。鶴舞公園の公会堂での、夜の音楽会に行って終演後「名古屋駅前」に乗ったところ、これが「左回り」。16駅を延々と名古屋城から菊井町経由の遠回り、ハラハラした事があります。「右回り」なら10駅です。
名古屋市交通資料センターで、かっての「路面電車」の路線と電停図を頂いてきました。
先日、路線開通時図を貰ってきましたが、総ての電停表示が無かったので再度訪ねて頂いて来ました。
空襲まで住んだ葵町を訪ねて、かって市電が走っていた道路を見ると、ここを市電が複線で走っていたのが疑問に思えたのでそれも尋ねてみました。答えは一部(下之一色辺り)以外は総て複線という事でした。
現在は歩行者の為の段差部分がありますが、それを含めても市電二両がすれ違うときは歩行者の通るスペースは僅かだったと思います。
私は「電車道(と言っていました)」を通って葵国民学校へ通い、「代官町(桜通り横断)」辺りまでが遊びの活動範囲でした。
危険を感じた記憶はありません。電車と人が道路を共有するのが自然だったのでしょう。
電車の側面はカバーされていますから巻き込まれる事は無かったのでしょう。前面には人を掬い上げる為の網が付いていました。残念ながら私はその網に乗っかった事はありませんでした。
私の年代で名古屋を知っている人は、ご存知でしょうが、一例としては、現在の栄から名古屋駅までの電停は「栄町」「広小路本町」「伏見通」「納屋橋東」「柳橋」「笹島町」「名古屋駅前」の8箇所でした。
それぞれの電停のある所には、有名映画館、飲食店などがあり、大賑わいでした。
張り巡らされた路線沿いの商店街の活気は今では昔日の思いとなりました。
地上は自動車が溢れ、公共交通は地下鉄となり、目的地へのスピードは2倍早まりましたが、総ては暗闇の中で、ノンビリ町並みを眺めながらチンチンゴトゴトと眺めながらの楽しみは失われました。
スローライフが語られる、この頃、今更の感はありますが、どうなんでしょうか。
北徳さん 10.4
北徳さん((鎌田綾子さん)が亡くなられました。九十三才でした。
舞台衣装の製作と貸衣装(日本舞踊など)を名古屋市瑞穂区で営まれ、西川流「名古屋をどり」の創作衣装などの製作にも携われました。
地域の芸能文化にも大きく貢献され、CBCクラブ文化賞、労働大臣卓抜技能賞などを受賞されました。
綾子さんは豊田市出身ですが三十代始めに、ご主人と死別(戦死か)されましたが、特殊な技術を必要とする舞台貸衣装業に奮闘され、当地の芸能界に無くてはならない大きな存在の方でした。
十年ほど前、NHK名古屋「日本真ん中紀行(堀田のおばあちゃん)」で紹介されました。録画しました。
私達の町内が真清田神社から預かっている裃には「北徳」の印が有ります。
これは真清田神社が空襲で焼失した氏子総代の祭礼衣装を、戦後調達した時、「北徳さん」から舞台衣装の古い物を入手した物と思われます。
現在は真清田神社紋入りの正装を整えられ、私の町内が五十年ぶりの「若殿行列」の復活時に露払い衣装として、それを預かり着用しています。紋は常磐津派の角胡瓜ですから明らかに舞台演奏用の物です。
相当に傷んでシミも多い物です。相当以前、名古屋の常磐津全盛時には「北徳」さんから貸し出されていた物でしょう。
私は祭礼参加は今年で勇退しますが、着付けが出来ない人が殆どですから今後どうなりますか。
伝統は途切れると復活は難しくなります。関係者の意思の統一が無ければ伝統は守れません。
如何とも、し難い難題です。
暑かった運動会 9.28
25日は小学校の孫二人の運動会。いつものようにビデオ撮影。
名古屋市北区の学校までは一時間掛かるので朝早くから出掛けました。
9時開始の予定が前日の雷雨の為、一時間遅れの10時開始。親子参加の種目が二つカットされてしまいました。10時開始時点でピーカンの物凄い暑さ。夕方まで暑さはそのままでした。
二人の出場種目はシッカリと撮影、その他も、ダイジェストながら総て撮影。
開会式から閉会式まで昼食も含めて大体5時間。カメラマンは殆ど立っているか歩いているかで日陰には居られません。庇の長い帽子は被っていますが、それでも腕や首筋、顔も照り返しなどで真っ赤ヒリヒリしています。
撮影時間は70分でしたが編集は半分ずつやってからリンクします。編集も、かなり色々やってきましたが、一度に手を付けると度々行き詰るので小分けしてやる事にします。今のハードの能力ではこの方が良いと思われます。画像編集は30分位を一つのブロックとして後でリンクし、それから特殊効果やタイトル作業。必要ならばBGM、ナレーションという事になります。
運動会や、お祭りは、BGMやナレーションは必要でない事が多いので、その点は助かります。
運動会は3時頃終わりましたが、そこから30分位歩いて「オアシス21」の「愛・地球博半年前イベント」へ。
CA高校ブラスバンドと名古屋消防音楽隊コンサートを30分聴いて久屋広場の「メイテレ秋まつり」へ。
ここは、あまり面白くもなかったので、そこから「御園座」の前を経由して名古屋駅まで歩き。
結局、7.30から出掛け帰宅は5.00。昼休みを除いて殆ど歩き続け20K位は歩いてますか。
「海老蔵襲名興行」千秋楽前日の夜の部は「ご用意しましたお席はすべて完売致しました」と看板が立っていました。
翌、26日は「学区町民運動会」で8.30から地域小学校へ。薄曇りながら凄い蒸し暑さ。
「玉入れ」や昼休み後の「交通安全パレード」に参加。
2日続きの野外でさすがに身体が火照っています。冬の冷えよりは、この方が私は良いですが・・。
いつまで続けられるかはボツボツ疑問なので誰かにビデオ操作を伝えなければ。
評判 9.25
いよいよ、二十六日で御園座海老蔵襲名興行は千秋楽です。
平日でも満員御礼の盛況です。優待、或いは招待の機会を窺っていましたが今回は無理でした。
評判は上々で、矢張り「助六」の話題が関連掲示板では沸騰しています。
年配観客には、若さゆえ、今一と思われるでしょうがそれは大目に見てあげましょう。
それでも海老蔵のスケールの大きさは認められています。
玄人筋には「熊谷陣屋」の雁治郎が大変好評です。
「源氏」は海老蔵は姿については文句無しなのですが筋立ての展開は良くないとの意見が多いです。
新作は暫く練られないと完成しないでしょうから、これはお客様の選択でしょう。
十月はフランス公演シャイヨー宮劇場とかで「鳥辺山心中」と「鏡獅子」
当初は団十郎との「連獅子」の予定でしたが団十郎休養で変更になりました。
医師の診断では完治という事で団十郎さんはフランス公演には参加されます。
十二月は南座師走顔見世興行です。
来年は七月、博多座で「源氏」「助六」と続きます。
御園座「襲名口上」の並びです。
下手から
富十郎、時蔵、信二郎、菊之助、男女蔵、松緑、友右衛門、田之助、海老蔵、雀右衛門、我當、権十郎、亀治郎、市蔵、扇雀、段四郎、鴈治郎の十七人です。
かなり若手が多く目立ちます。
舞台幅一杯でしょう。
やはり「睨み」は見事だとの評判です。
助六 9.16
正しくは「助六由縁江戸桜」(すけろくゆかりのえどざくら)(歌舞伎十八の内)です。
市川家の伝統演目で他家が行う時は「許し」が要ると聞いています。
平成十年歌舞伎座初芝居で、当代団十郎の「助六」中継があったので録画しました。
その時の様子は、花川戸助六(団十郎)、三浦屋揚巻(雀右衛門)、白酒売り新兵衛(勘九郎)、髭の意休(左団次)、曽我満江(宗十郎)、くわんぺら門兵衛(幸四郎)、染五郎、新之助、などの豪華メンバーでした。
一幕二時間の長い芝居です。筋書きは皆さんご承知でしょうが複雑ではありません。
色々な見せ場を展開し、次々登場する人物が華やかに、ギャグや洒落などを連発したり、花魁道中、啖呵、見得など、一時も目を離せない舞台です。
始めに「口上」があります。
この時は、先代河原崎権十郎が勤めました。河原崎家は市川家系で、柿色三升紋、まさかり髷、裃での口上です。
演目の由来紹介の後、舞台奥、三浦屋朱御簾に向かって「幕の内御連中様、どうぞ、お始め下さいませ」と声を掛けます。御簾内には「河東節十寸見会御連中」の方々が居並んで居られます。
この「十寸見会(ますみ会)」というのは「助六」上演時のみ、ご祝儀として地元名士、後援関係者が、三味線、語りを習得し披露するものです。かなりの稽古が必要で、幕開きから一時間くらいの間、演奏され、公演中に限る名取を許されます。
但し、出演については出演料どころか、ン十万円ご祝儀を出しての参加との事です。
御園座公演には、地元百人、東京からの応援百五十人の出演と聞きます。
今回の御園座興行は、やはり、「口上」「助六」の盛り上がりが大変で「助六」の花道への出端から「大向こう」の声掛かりで一層の盛り上がりを見せているとか・・。
「助六」は助六(海老蔵(初演は平成十二年一月、二十二才))、揚巻(菊之助)、新兵衛(松緑)、白玉(亀冶郎)何れも、二・三十代、意休(段四郎)、満江(田之助)、くわんぺら門兵衛(富十郎)という、若手、人間国宝が舞台を飾ります。
「(助六)口上」を、四代目権十郎(前坂東正之助)が勤めていますが、十五年五月に襲名したばかりで、三之助(現在一之助)と同世代の若手です。先代の風格に負けないように勤めておられることでしょう。
雀右衛門は「襲名口上」の後見人挨拶のみの出演です。
「熊谷陣屋」は雁治郎の初役ですが素晴らしい演技と評判です。
私は数年前、団十郎の「陣屋」を見ましたが世の無情に武士の身分を捨て出家した直実が「ああ十六年はひと昔」と花道を去る幕切れが見せ所です。
東京歌舞伎座(1866席)には三階幕見席というのがあります。椅子席60、立ち見90、最上階奥、当日のみ。一幕のみなら1000円位、全部見ても3000位です。但しマニア向き。
御園座(1659席)は、三等6500円ですが舞台への距離が近く充分良く見えます。学生や年配者で満員です。
例年は十月興行ですがパリ興行の為、今年の名古屋は今月です。十一月には団十郎も病気回復で復帰とか。
十二月京都南座師走顔見世は「助六」「暫」です。
海老蔵人気はますます盛り上がる事でしょう。
芝居あれこれ 9.13
九月、御園座では「十一代目市川海老蔵襲名披露」が興行中です。
五月、六月の歌舞伎座興行を皮切りに連日の大入りだそうで関連グッズを始め興行収入が爆発的だとか。
五日に他の用も有り、道すがら御園座へ行って見ました。入場はまだ考慮中です。
一等20000円、三等でも6500円です。
昼の部は「源氏物語」瀬戸内寂聴、訳脚本。これは祖父「十一代目団十郎」が海老蔵時代の昭和二十六年(1951)歌舞伎座で初演。姿の良さで大評判空前の大入りだったという演目。その時の作者は北条秀司だったか・・?。先日の襲名記念展に、その舞台図が展示されていました。
今回は瀬戸内さんの新作です。今回の「源氏物語」の製作スタッフは演出、美術、装置、音楽いずれも当代随一のメンバーです。
私は二十才頃、過日、亡くなった市村羽左衛門襲名興行時、祖父海老蔵(十一代目団十郎)の「若き日の信長」を御園座で見ています。先代「松緑」の「供奴」芝翫(当時福助(雪姫))の「金閣寺」などでした。
戦後、一時期、歌舞伎が衰退し役者の映画出演「東宝歌舞伎」「武智歌舞伎」の出現などで混乱していました。
雀右衛門も大谷友右衛門時代、東宝「宮本武蔵」に佐々木小次郎で出演しています。
先代幸四郎、松緑「花の生涯(井伊大老)」も、映画出演。坂東鶴之助(現中村富十郎)は「若様侍捕物帖」と言うように、現在、人間国宝役者の歌舞伎公演が危うい時期でした。
中村錦之助、大川橋蔵、市川雷蔵などは名門でありながら、遂に歌舞伎には復帰せずに終わりました。
私は新作より古典を好みますが、このメンバーを見ると凄いなと思います。
まだ評判は聞きませんが、五日、通り掛った時が昼の部終了時間、2時45分頃で大勢の見物客が出て来ましたが、気のせいか「ボーッ」としているようには見えました。
夜の部は「熊谷陣屋」「口上」「助六由縁江戸桜」。
完結 9.9
「木村さんちの四方八方ばなし」の完結を考慮しています。
当初の目的は達成されました。「さくら道ウルトラマラソン270K」も十年で完結しました。
「祭り」の取材も十年を過ぎました。
40Mを超えた容量の削除整理は不可能です。再構築した方が早いです。
開設当時とはネット社会も大きく変化しました。
情報は充実し「検索」によって多くの情報を得る事が可能になりました。
それだけに専門知識も必要になりましたが個人では限界があります。
著作権、プライバシーなども注意が必要です。
「コラム」も書いては、いますが既に衆知の事も多く改めて発信する事も無いかと思います。
ネット社会がどういう方向に向かうのか或いは一応の限界に留まるのかわかりません。
どういうホームページが必要なのかも考え直す所に来ています。
プロバーイダーや光への変更などの問題も有ります。
考慮中です。
御園座周辺 9.7
どんな様子か、栄へ行く、途中に寄ってみました。
「絵看板」と「招き看板」を取材してきました。見物は未定です。
芝居や役者については内容が多岐に亙るので別項に書く事にします。
十一代目市川海老蔵 9.1
新之助が十一代目海老蔵を襲名しました。
今春から歌舞伎座を皮切りに二年間襲名興行が海外を含め行われています。
歌舞伎座までは出掛けられませんが、先日、NHK「舞台への招待」で「口上」「二十六才の飛翔(ドキュメンタリ−)」「暫」が放映されたので録画しました。
歌舞伎座の広い舞台ならではの「口上」は他では見られない圧巻。
海老蔵を中心に、向かって右へ、雀右衛門、菊五郎、彦三郎、三津五郎、松緑、芝雀、段四郎、田之助、芝翫、左から富十郎、左団次、時蔵、権十郎、菊之助、友右衛門、魁春、梅玉、團十郎。という幹部俳優豪華な顔ぶれ。
後見人として、雀右衛門が海老蔵の紹介を行い、続いて、居並ぶ方々の祝儀の言葉がありますが、アドリブなどもあり、楽しさと見事な光景が見ものです。
締めに、父である團十郎が、挨拶の後、市川家に伝わる伝統の由来を披露、普通は、これで「ズズィーと、おん願い奉ります」で幕が引かれますが、市川家には「睨み」という行事があります。
これは初代團十郎が跡取りの男子を授かる事を念じて「成田山」に詣で、その願いが叶った事から「不動明王」を奉じる形を現わし「見得」を切る一つの形です。
「睨み」といっても、ただ「睨みつける」のではなく「厄事祓い」の形で「目」に特徴が有ります。
即ち、右の黒目は中央に、左の黒目は正面という形です。これは「人」ではなく「神仏」を表すものだと言われます。
歌舞伎十八番の中には色々な「見得」があります。「不動」「元禄」「柱巻き」など。
襲名で行われる「睨み」は元来は正月興行の初めに「邪気」を祓う為に行われたものですが市川家の襲名では「口上」の後、これが行われます。
後見が、緋毛氈(一畳くらい)を前に敷きます。子役(男寅(現男女蔵))が三宝に載せた「襲名目録」を捧げ海老蔵の前に置きます。挿していた脇差を海老蔵の脇に置き後ろに下がります。
ここからが「睨み」の所作です。
「吉例に倣い一つ睨んでご覧にいれます」との言葉の後、脇差を差し、肩衣と紋付着物を片肌脱ぎ、朱襦袢になります。左手に襲名目録が載った三宝を持ち、座ったまま右足をパンと一歩前に出し立ち膝になります。右手を握り顔の正面から鳩尾に構えます。
そこからが前述の「睨み」です。
一同、平伏のうち、柝が打たれ披露幕が引かれます。
これが市川家の「口上」です。
尚、市川家には、柿色と、三升の紋、まさかり髷、という独特の姿が伝わります。
ビデオの整理 8.27
撮影したDV(LP90分)が70本を超えたので編集してDVDにしようと思いますが大変な作業です。
簡単な編集の手順は、わかっていますが相当な時間が掛かります。
キャプチャーカードを使えば時間は短縮されますが、それでも手間は掛かります。
10年がかりで取材して来たテーマは一応終了しました。クレームは一度も受けた事はありませんでした。
一個人としては取材の限界も有ります。ここまで画像が氾濫し盗撮も問題になっているので取材対象にも配慮が必要です。
アマチュアビデオは撮影から編集を経て完成するまで自分で一貫してやらないと満足な結果は得られません。
プロは数人のチームでの総合製作ですが、アマチュアでは個人のレベル差が大きく感性も違うので難しい事になります。
学校などのように、同じレベルの部員とリーダーという組織、そして共通の時間を持つ事は一般人には出来ません。
「ビデオ愛好クラブ」は有りますが同じ目的を大勢が取材しても意味が有りません。そこが写真と違うところですが思い違いをしているよです。
ビデオの取材は単発ではなく何度も取材を重ね、資料もよく調べ、予備知識と事後整理が必要です。
個人では関係者以外は立ち入れない領域の取材は出来ません。
撮影した資料の公表は判断が難しい問題です。自分が「祭り」などに参加して自分では記録できない時、誰か撮影していた人が判れば欲しいと思いますがこれは誰が取材しているのかは不明です。
変な場面を公表されるのは困りますが、これはモラルの問題です。
本当に素晴らしい感動的な記録は貴重で二度と得られない貴重なものです。
その為にあるメディアです。人に喜ばれるのも恨みを受けるのもその人の人格の問題です。
自分としては、その都度、多くの感動できるシーンを記録してきました。きちんと整理して保存したいと思います。
作為的でないのがアマチュアの良い所です。妙に飾り立てたり奇抜な編集は嫌味です。
シンプルで見ていて快い作品に整理します。終わりが無いと思われる作業ですが、その時、全力で撮影したものですから無にはしたくないと思います。
そういう事もあり、当HPの更新は随時になります。
今迄のテーマは大体終了ですが閉鎖はしません。次なる目標を目指します。
敗戦の日 8.15
八月十五日は日本が連合軍に無条件降伏した日です。
「終戦・・」などと言い換えるところが潔くありません。
アジア諸国への対応は、ないがしろにしたままで日本の教育では正しく伝えませんでした。
今度の「アジアサッカー」での中国での騒動がそこに表れました。
私は終戦時、九才でしたが「重慶」という地名は知っていました。内容は知りませんが「重慶から来た男」という映画の題名を憶えています。刑事役などで活躍した藤岡重慶という俳優が居ましたが「重慶」という言葉は子供の心にも感じていました。
重慶爆撃、南京入城など、中国に関する戦争知識は子供の頃から持っています。
アカシアの大連とか、ハルピンの春とか、満州建国などに現わされる中国などアジア諸国への態度は日本の属国扱いでした。私は国民学校で、そういう教育を受けました。そのような扱いを受けた恨みは相当に深いものだと思います。
「スポーツ」と「政治」は別といっても、それは日本の勝手な言い分だと言われるでしょう。
マスコミも、あまり大袈裟に取り上げるのは火に油を注ぐようなものです。
クールに扱わないと余計反感を買います。
わが国の首相は、アメリカには言われもしないのに、ご機嫌を取る態度に反して、アジア諸国には全く配慮を見せません。
私は戦争遺族ですが戦争責任の有るA級戦犯が合祀されている「靖国」の必要は感じません。
そうでなくても、建設の歴史にも疑問が有り、戦時中、戦意高揚に大きな役目を果たした役目は非難されても仕方ありません。戦争犠牲者を祀るには偏った施設です。
小泉首相は靖国参拝をすると言います。よほど親から偏った教育を受けたのでしょう。
「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」を含め、原爆被爆者も含む空襲犠牲者総てを祀る「礎」となる施設の建設を望みます。
「靖国」を、遺族会、戦友会の票田としているならば、それは間もなく関係者の高齢の末、泡と消えるでしょう。
意義のある「慰霊」の形を考えて欲しいと思います。
過去の歴史を知らされずに社会を動かしていく、これからの世代が間違った判断をしないように願います。
クラシック音楽会 8.10
Tガス会社の主催による、名フィル「親子ふれあい演奏会」に行ってきました。
「名フィル」は、この春、名古屋で「子供のための巡回コンサート」にも行ってきましたが、いずれもチャリティに近い料金でした。
「子供の・・」は楽器の紹介や「シンコペーテットクロック(時計)」など馴染みの曲などで子供にもわかるように構成されていました。
今回の「コンサート」はワーグナー「ジークフリート牧歌」、シューベルト{未完成」、ベートーベン「英雄」。
クラシック音楽会は、よくは行けませんが「ニューイヤーコンサート」などは司会が上手に解説や進行を構成するので楽しい雰囲気があります。
今回のコンサートは入場時、解説パンフレットは頂けましたが、開演5分前に場内案内があって後、定時、何の紹介も無く演奏者が現われて、すぐに演奏開始「ジークフリート牧歌」は私には馴染みが無いので・・・。
「未完成」と「英雄」は、よく知っている対照的な曲です。
「名フィル」は、今年五月「プラハの春」国際音楽祭に招待され三度目の海外公演を成功させたレベルの高い交響楽団です。
当地の市民会館は、全体の大きさに比して舞台の奥行きが狭く、六十人位の楽団員での演奏に限られます。フルメンバーは招べません。
打楽器のように、スペースを取るものは限られ、演奏曲にも制限があり、それだけ迫力に欠けます。
滅多に満杯にならないのに、1500人収容という客席数優先という基本的な設計判断ミスだと、いつも思います。
私も数度、機会が有り舞台出演しましたから実感です。
「クラシック音楽」は、演奏会で知る以前に、その「メロデイ」を知るのは学校行事などでレコードやCDなどによる機会が多いと思います。映画や、ドキュメンタリーなどで知る機会も多く有ります。
そこから「イメージ」をそれぞれで増幅されると思います。その「イメージ」で「演奏会」に出かけられると思いますが「イメージ」とどう重ねられるのでしょうか。「メロデイ」を知って、後から曲名を知ることも多いです。
100人近い演奏者の技術を指揮者が纏める様子は素晴らしい事ですが、観客に感動をどう与えるかが難しい事です。「演奏会」は音楽を聴くのか、演奏技術を観るのかを考えます。
これは所謂「高級趣味」に共通します。「邦楽(舞踊、謡曲、三弦など)」も同じ様子で「分かっている事」を前提にする世界ですから「内輪」だけの狭い社会になり一般には普及しません。
「お金持ち」の「見栄、教養」で培われてきた世界は一般社会に馴染みません。
お金を掛け、身に付ける「稽古事」ですが、それでの生活の維持は難しいようです。
コンサートで、終始、目を瞑って音楽だけを聴くということは無いでしょうが「イメージ」を描くという所までは行きません。どうしても、初めに感じた「イメージ」に捉われます。
「トルコ行進曲」と来れば「運動会」です。「ワルキューレの騎行」=コッポラの「地獄の黙示録」のヘリコプター戦隊。
私の年代では、戦後の「日本ニュース(東京裁判)」=「トッカータとフーガ」、「尋ね人の時間」は「ハイケンスのセレナーデ」と連結します。幼時からの「擦りこみ」は強固なものです。
そのイメージとコンサートで聴く(敢えて言えば観る)情景とは、なかなか一致しません。
私は「さくら道マラソン」のビデオ編集でBGMに「田園」を使いましたが巧くマッチしたと満足しています。
コンサートでは「マラソン」はイメージ出来ないと思います。
目で見る情景と脳裏に浮かぶ「イメージ」が合致した時巧く行くのだと思います。
「祭り囃子」は立派なBGMです。動作、行動に応じて曲が使い分けられます。
「音楽」はそれ単独で評価されるのではなく応用によって無限に世界が広がるのでしょう。
細かい事だけに、こだわらず、大らかに人の心に響くのが芸術の本質なのだろうと思います。
「歌舞伎」が若い人に理解され盛り上がっているのは役者の人気だけでなく「イヤホンガイド」などによる積極的な努力が実ったからだと思います。
「日本舞踊」「クラシック」などに感じる「勉強してから来て下さい」という態度では見通し暗いです。
西川流が中心で開いた「伝統芸能ワークショップ」が効果を上げた事など分かり易く伝える事の必要が伝えられるようになった事は結構な事です。
伝統行事の存続 8.4
当日、祭りなどを見物に行くだけの者にとっては「よくやるなあ」とか「凄いなあ」とかで終わりますが、当事者の御苦労を聞くと、その為の普段からの段取りが相当大変な事だと知らされます。
戦前から、祭りに要する人手は地元だけでは賄えず、由来のある地域の氏子さんなどが役として関わられます。
祭りが衰退しても、形だけでも参加しなければならない義務が有る地域です。(私の町もその一つです)
あくまでも地元だけで運営される町内もありますが、伝統を変えざるを得ない事情の地域もあります。
ある祭りの神事の中で古式泳法による立ち泳ぎが出来ないと役が勤まらず不完全に終わる事があるようですが、こういう場合は随行する「お助け舟」で進行するのも止む無しという状況が起こっています。
お囃子などで、女性や、他町内の有志の参加で存続される事もあります。それで技術が活性化される効果も見られます。
山車や神輿の担ぎ手不足は顕著で、一般公募や、祭りの日にちが重ならない、他町内の祭りの担ぎ手が参加される事があります。この場合、伝統的な約束が決まっている事もありますが、それでも不足な場合は公募されます。
ただ、その行事の伝統や約束事が、公募に応じた人達に理解されていないと規律を乱す事があります。
公募に参加する人の中には伝統ある行事に参加する「名誉」は、そっちのけで「面白半分に騒ぐ事」だけに加わるようだと、トラブルが起きます。
あくまで、主役は地元町であり、お手伝いをするという認識を第一にすべきです。
当日「飛び入り乱入」などという軽率な輩も居ないわけではないようですが、思い違いも甚だしい事です。
ホームスティで来ておられると思う外国の人が山車綱を引かれる事もありますが、これは悪いとは思いません。
昨年の「那古野神輿渡御」の祭列に、黒人の方が参加していましたが、これは奇異な感じがしました。
今年の京都祇園祭の「籤改め」は外人の方がされたと聞きましたが「そういう事もあるのかなあ」と考えさせられます。
国技と言われた(既に過去形)「大相撲」も、活躍するのは外国人ばかり。私は今や見る気がしません。
名古屋場所の客席は平日は半分位の入りでガラガラの状態でした。
プロ野球のゴタゴタも同じで、今の体制は一度ゼロからやり直した方が早いんじゃないかと思います。
国会もスポーツの運営も定年制にしたらどうかと思うほど名ばかりの無能な老人支配。
ヨボヨボのコミッショナーや記者会見でも座っているだけの老人など要りません。
脱線しましたが、物事を正しく教えられる指導者が居なくなりました。
「いい加減」で済ましてしまう事が多いからです。
「人気」や「ブーム」が先行して、落ち着いて一つの事を正確に身に付ける事が出来ません。
「簡単」「手軽」に甘んじていると何れ来るのは「虚しさ」だと思います。
伝統行事が中途半端になり、簡略化される事のないよう、資料に基づく計画(マニュアル)と稽古などの方法、そして何より「やる気」を起こす手立てを考える時期が来ています。
世代間の継承が必要ですが三世代の真ん中が欠落している地域の衰退がハッキリ見えています。
両刃の剣 7.29
最近、盗撮による事件が頻発しています。
ビデオ、デジカメ、いずれも小型化し画質も高画質になったので、より、リアルな表現が可能になり、あくどい画像が出回っているようです。
私のビデオ歴は、8ミリムービーを含めると数十年になります。
動画は音と動きが有り、その為の技術とストーリー性のあるセンスが必要で、誰もが気軽に扱う事はありませんでした。
最近は扱いも楽になり、日常の記録くらいは誰でも出来ます。
あまりに普及が進み悪用されるのは困った事です。
海水浴場や雑踏の中などの盗撮で有名人までが逮捕されています。
盗撮画像の販売も伝えられますが、一時の収入の為に人生を駄目にする事は残念な事です。
こういう問題が広がると、本当に必要と思われる記録と、盗撮との境界が付けられない事です。
自然な出来事の記録さえも「(やらせ)があるのではないか」とか、祭礼やスポーツ、催事などで人物を撮影しても個人で見る分には構わないが「公表」してはいけないとか、今までは、それほど意識しないでいたことが、何時も気に掛かるようになりました。
ビデオカメラやデジカメを持って、人込みに居ただけで、あらぬ疑いや因縁を付けられないとも限りません。
プロが取材しない地域の行事はアマチュアによる記録が貴重な場合があります。
ビデオカメラが普及しても、なかなか撮影技術が伴わず撮影しても公表する人はあまり居ません。
皮肉な事に自分が行事に参加していると撮影は出来ないので、自分の活動記録のビデオは殆ど有りません。
監督、出演は出来ますが撮影は出来ません。
信頼の出来るカメラマンが欲しいと思いますが、案外、身近には居ないものです。
カメラマンは、体力、技術、知識、の三拍子が望まれます。
悪い事に使わないで建設的で健全な記録で貢献をして欲しいものです。
いろいろ暑い 7.24
連日、猛暑で雨も降らず、パサパサです。
パソコンもCPU周りに手をかざすと熱気が強いので両サイドの蓋を開けてます。
それでも心配なので扇風機で風を吹き付けています。
これが効果抜群でCPUの裏側を触っても熱気はありません。
この所、必要があってビデオ編集を2〜3時間続けました。赤ランプが付きっ放しになり相当な負荷が掛かっています。
30分位の作品作りがリミットのようで、それを超えると数十秒画面が停滞します。
編集作業は経験を重ねる毎にスムースになります。
ハードが進歩し、マニュアルが充実しても、実技に勝るものはありません。楽に物事は身に付きません。
使い続けてきたビデオカメラの液晶が接触不良になり180度回した所からしか表示しなくなりました。
反対、或いは、裏返し横からのみの表示です。ファインダーは正常です。
壊れてしまったのではないのですが撮影の自由度は減少です。
しばらく様子見です。
目的とする撮影ロケーションも一通り終了気味なので、どういう方向へ行こうかと思案中です。
ビデオ・写真 7.14
今迄に撮影したビデオを編集しようと見直しています。
所が、なかなか巧く行きません。その時の撮影技術など、現在のカメラの高機能とは違い、前のカメラの機能の弱さと相まって思うように行きません。
カメラぶれ、風音入り、などのハードの問題に加え、ズームの多用、パーンの多さ、静止カットの少なさなど、編集するには修正が多過ぎてブツブツの見辛い結果になります。
30分のものを思い切って10分位に短くしようとか、撮影年次の違う物を一つに纏めようとか、いろいろ考え出すと混乱します。
編集を考えずに撮影したものは、ストーリーを考えながら撮影しています。
集中力があり、それなりの気迫が感じられます。今は、それほどのスタミナは有りません。
出来る限り丁寧に撮影してあるので、無駄な所は少ないので、極端な編集はしないで、不要な所だけをカットし、撮影時の思いはそのままにしておいた方が良いのではないかと思います。
ビデオの撮影は、断続的ながら長時間の継続した心身の気迫が必要です。
年齢による体力の低下でそれが難しくなっています。カメラの高機能化だけではカバー出来ません。
写真は、チャンスが瞬間という厳しさは有りますが体力的には遥かに楽でしょう。(反論必至)
デジタルカメラは有りますが、ビデオの代行は出来ません。
ビデオの能力(音、動き)はスチールとは遥かに桁違いです。
十年前のビデオを見直しても、何の違和感も有りません。感動が蘇ります。
我ながら「よく撮ってある」と思います。再現不能な記録だけに尚更です。
現在は編集が可能になったので撮影時から、それに対応した要領で気張らずに行こうと思います。
夏になると 7.11
毎年、今頃になると新聞に戦争を回想する記事が掲載されます。
今年も、中日新聞(東京新聞)には七月七日から三日間「火炎樹の下で(サイパン玉砕60年)」として連載されました。
サイパン派遣のの命が下った十九年四月の部隊の内に名古屋城内の四十三師団百三十五連隊がありました。
実は、私の父が、その直前の三月二十日に軍医予備員候補者としてその部隊に召集されました。
二十日後の四月十日、軍医予備員の命が下りましたが同時に召集解除になりました。
誰か、他の軍医がサイパン派遣になったと思われます。
その時、派遣されていればサイパンで七月十八日玉砕しています。
その後、六月十五日、第一航空教育隊に召集され、第百三十三飛行場大隊が結成され小牧に集結。舞鶴から船団出航、フィリッピンミンダナオ島バレンシア飛行場に派遣され、二十年九月五日戦死しました。
その経過は、戦後四十三年に初めて判り「四十三年目の戦死」として、既に書きました。
結局、約一年二ヵ月生き延びただけでした。
六十年前、アジア各地の戦場を始め、その後は、内地にも空襲の戦火は拡がり、数百万の人の命と多くの資産を失いました。
戦争を体験しない人が政治経済社会を動かしている現在、軽薄な議論や短絡な行動に誤りが無いか、充分な思慮を以って欲しいと切に願うものです。
やるなら本気で 7.8
すぐ近くの神社境内で「盆踊り」がありました。
雑然としてゴチャゴチャでした。「踊り」がです。
ここの「盆踊り」は、戦後すぐから永く続いていて、当市では一番早い「盆踊り」として知られています。
戦後、間もなく起こった「盆踊り」ブームの時から主催者は時々変わりましたが続けられ、境内に「青年の家」が建てられ、ある時期からは、私も一時期、所属していた「民踊会」の指導とメンバーが参加による、形を整えた「盆踊り」が行われました。
何時からか、その「民踊会」は手を引き、最近は「盆踊り」が好きという随意のメンバーと、飛び入りの「盆踊り好き」が、見覚え、我流で楽しく踊り(?)狂えば良いという状態になりました。
たかが「盆踊り」と思われるかもしれませんが、それぞれ「正調」という基本があります。
有名な「盆踊り」の現地では保存会が数百年と言われる伝統に従い、決まった「振り付け」を継承されています。
誰も「古い」とか「面白くない」とは言いません。七曲〜十曲の「踊り」を変わる事無く、唄い手、踊り手が引き継いで大勢の人集まってきます。
最近の「民踊会」が、どういう考えかは知りませんが、私が所属していた時の会長(故人)は現地との交流を密接にし、現地の「踊り」を、歴史や心を正確に伝える事を心がけられました。
教え方も厳しく、弟子の代稽古に任せず教授されました。それだけに「盆踊り」と言えども正確さを重視し、現地に失礼の無いように伝えられました。それだけに集団美がありました。それが本来の「盆踊り」の原点だと思います。
そういう「盆踊り」が少なくなりました。一年限りの使い捨て曲も有ります。
「盆踊り」だけではなく、あまりにも多くのカルチャーセンターでの種々な講座が出来て、気軽に入会しますが、厳しさや内容の理解も出来ず、費用も掛かるので続かず、渡り歩くうちに挫折する事が多いようです。
教える人のレベルも低下しているようです。やたらと資格を与えるので、そういう事も起こります。
薄く広くはレベル低下の基です。本物を教わるには「授業料」も高価です。名古屋辺りでは「月四回二時間で¥10.000位」でしょう。二時間みっちりは、頭と体が続かず、他人の見学や休息もあり実際は半分位の時間です。
休めば習熟は遅れる、それだけ費用もボツになりますから本気になります。
高い月謝を払って、叱られて、恥ずかしい思いをして「何でこんな割りの合わない事をしているんだろう」と思いますが、これが本当の稽古です。
面白半分、いい加減な気持ちで来る弟子(生徒)には師匠(先生)も真剣になれません。
ですから何かで不調になった時は休んだ方がいい時もあります。プロには、そういうことは許されません。
教える方も、人にもよりますが「授業料」を取っている以上、弟子の不出来は師匠の恥、出来る限りの事をしなければという使命感を以って、叱りつけながら厳しく教えられる「師匠」を選ぶ事は重要です。
私の知っている人は、どうせ教わるならと「家元」での稽古を選ばれました。どうせやるなら身に付く事をやるべきです。
「タダ同然で仲良く楽しく運動を」という地域のグループもありますが、教える方、習う方も大雑把で本気では無いので進歩がありません。タダでは、やはり身に付かないと思うべきです。
趣味と言えども、物事を覚えるのは、それほど簡単ではないのです。
メディア十年 7.3
「さくら道マラソン」や「名古屋の祭り」で取材したビデオや関連資料が十年近くに亙り手元に保存してあります。
特定の方以外には公開していません。
最近、特に情報管理の責任の重要性が強調されるようになったので慎重に考えています。
以前は情報メディアも貧弱で、ビデオデッキ(VHSなど)の扱いも出来ない人が多い状態でしたからビデオ作品を渡しても見ても貰えない事もありました。
ビデオ撮影する人は一部の特殊な人で、稽古事の発表会などでは、プロが撮影した高価「10分¥10.000くらい」なものを買う状態でした。先生のマージンもあるでしょうが・・。
今も、一部ではありますが、それが当たり前でした。現在、携帯で自由に撮りまくる若い人は「そんなバカな」と思うでしょう。
内輪の「おさらい会」でも、撮影したビデオは先生(師匠)が管理し「門外不出」でした。
撮影を頼まれた、私も、それを守りました。
今は情報の洪水です。アッという間に拡散する怖さがあります。
十年の歩みには大きな変化が有ります。特に子供など成長期の人は大きく変わります。大人でも老化など姿が変わります。
「当たり前」と思う人と、そうは思わない人とがあります。元気でカッコ良い姿は人にも見せたいと思うでしょうが不調な時や衰えた姿は見られたくないと思う事もあるでしょう。
公的行事で、やたらと記念写真を撮りたがる人がいますが「もう、いい」と思う事もあります。
スナップには無い「集合写真」の良さも必要ですが、何事も、ほどほどが宜しい。
ビデオは動きと音という一層のリアル感が強烈なので怖い資料です。
過去の「名画」や「名優」の再現などは得難い貴重な財産です。
宝にもなれば毒にもなります。個人情報も、宝になるような記録を残したいものです。
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