親鸞白い道

                                                      昭和六十二年(1987)一月二十九日

                            三国連太郎さんとの出会い

三国連太郎さんとお会いする事になったのは、私の親しくしている、檀那寺の末寺の住職さんの誘いからです。

この住職さんは、他でも書きましたが、父上をフイリッピンルソン島で亡くされ、母上が再婚されたので、幼時から、私の家のの檀那寺へ入られて育たれた方です。

この方は、十五年位前から、寒中托鉢業を続けておられます。托鉢された喜捨は市の福祉資金へ寄付されます。

托鉢の姿をビデオに撮る為、私も二度同行させてもらいました。

その住職さんが昭和六十二(1987)年、私宅へ寒中托鉢に来られた時、

「急な話で、とても無理でしょうが、話だけさせてもらいます。実は本願寺の友達から依頼があって、今、三国連太郎さんが「親鸞白い道」という映画を、自分の原作、脚本、監督、出演で撮影中で、僧侶のエキストラを数十人募集しているのだけれども、友達のお坊さんだけでは数が足りないので、誰か行って貰える人がいませんか、と頼まれているんです。

唯、坊主刈になるという条件だけれども…・。しかも出発は明日、新幹線で東京調布の日活撮影所まで行って下さい」

といわれるのです。当時、その住職さんのお寺で「木魚を叩いて念仏に聞く会」という集いがあって、それに数人の参加者がいて、私も、その一人だったので声が掛ったのです。すぐの返事には戸惑いがあったので、数時間考えていました。

その日は、偶然にも、戦後三十七年一緒に暮らし、八十六歳で亡くなった義祖母(戸籍上は養母)の正命日でした。

これは何かの巡り合わせかもしれない。行こうか・・・。私の五十一才の時です。

私は、その頃「人生は五十年だ。五十年生きれば一人分生きたのだから、一度死んだつもりで坊主頭になろうか」

と本気で考えていたのですが、何も無いのに、いきなり頭をまるめたら、悪い事でもして変なところへ行ったのか、と思われるので、そういう機会はありませんでした。

近頃は「スキンヘッド」と称してファッションにしている人もいますが、その頃は、特別な人以外はそんな事はしませんでした。

そういう時でもあり、映画に出られるチャンスなんて滅多にあるものではないでしょうから行く事にしました。

早速、理髪店に行き「五分刈にして下さい」と言いました。

「本当に刈ってもいいですか」と念を押されて三十五年ぶりに坊主頭になりました。

この時は、これで良い筈だったのですが、調布で思いもかけず

「これでは駄目。剃って下さい…・」

もう逃げられません。本願寺のお坊さんもいましたが、毛を伸ばしているいる人もいましたから悲鳴を上げた人もいました。

私達は、翌日、新幹線名古屋駅壁画前で名古屋からの人と合流、出発しました。

名古屋駅で 宿

名古屋駅壁画前で合流

清流荘

白い道撮影

一月二十九日。午後三時、名古屋駅壁画前集合

一宮からは八人(本物の僧侶二人)、名古屋(同じく二人)、弥富(同じく一人)総勢十一人

衣装と旅費、宿泊費は負担して貰えますが出演料などは一切無しという事でした。

名古屋−東京(新幹線)、山の手線乗り換え、新宿下車、京王線乗り換え、調布下車。

調布駅前の「清流荘」という宿の大部屋で泊まりました。

同行の浅井さんの大いびきに悩まされ、たまらず頭の向きを反対にして何とか寝ました。

三十日早起き、タクシーに分乗、撮影所迄行きました。

入り口にTVの芸能レポータークルーが大勢待ち構えていました。

レポーター 撮影所で

お馴染み芸能レポーター

僧衣をまとう。この衣はふんぞう衣という

自分達が取材されるのかとビックリしましたが違いました。

中村錦之助のゴシップ取材に待ち構えていたのでした。

初めて見る撮影所は想像していた華やかさなど影も無く、どこかの建設会社の材料置き場を思わせるプレハブ事務所と大きな倉庫群でした。

プレハブの事務所へ入り待っていると衣装合わせです。

一緒に行った仲間は皆、黒の僧衣を着ましたが、私は、何故か茶の僧衣を着る事になりました。

前に書きましたが、三国さんは完璧主義だから、頭は全員、青剃りするように命令が出ました。

今更、逃げられません。半ば強制的に剃らされました。

私は電気剃刀で剃りましたが剃刀で剃った人もいました。

その時、初めて、自分の頭のテッペンがとがっていた事を知りました。五十年知らずにいたとは…。人間なんていい加減なものですね。

頭の形もそれぞれで、デコボコ頭、ゆがんだ頭、ホクロやシミなど、頭も顔の続きで一体のものだなと思いました。

さて、いよいよ出動。スタジオへ行きました。座っての撮影なので、スタジオまでは革靴履きのままです。

スタジオへ行くと専修阿弥陀寺大広間の須彌壇のセットが作ってあり、それぞれの配置が決められます。

中央に畳が敷並べられ両側に、関東稲田、近在領主役の俳優が座ります。その後ろに、私達僧侶が並んで座ります。

ポスター 阿弥陀寺撮影白い道 本

専修阿弥陀寺撮影

 

三国さんのライフワーク

その時、居た俳優は、フランキー堺、西村晃、根上淳、常田富士男、ガッツ石松、私の前には蟹江啓三が座りました。

小松方正(宇都宮蓮正)は立っての演技です。台詞があったのは、小松方正、フランキー堺と、親鸞の弟子、真仏の若い役者、私達は台詞の途中から一斉に念仏「南無阿弥陀仏」を唱えるのです。

台詞の変更、動きの変更、何度も同じ演技を繰り返し、その度、角度を変えて撮影です。結局、午前中には終わらず午後も撮影は行われる事になりました。三国さんは優しい言葉でスタッフと相談を繰り返し、撮影は行われました。

私が初めて三国さんを見た第一印象は「大男」の一言です。

「大きな人だな」と思いましたが、怖い感じは全く無く、やさしい言葉と丁寧な動作は、おおらかな感じがしました。

怖い演技をされる事が多いのですが、本来はその後、シリ−ズになった「釣りバカ日誌」のスーさんが地なのかなと私は思います。

チケットを貰って食堂で昼食。俳優も来ました。西村黄門さまは人気第一、威張ってました。

日活の全盛期、裕次郎もここで撮影したのかと、思いましたがロケがあったのか他に撮影は無いようでした。

一緒に行った数人と撮影所の中の散歩、向うから美女二人を伴って武士姿の常田富士男さんが来ました。

皆、遠慮していましたが、私が声をかけて

「常田さん。一緒に写真をお願いします」

美女にシャッターを切ってもらいました。

念仏衆と常田富士男さん 三国さんと私 三国さん

常田富士男さんと私達、念仏衆

三国さんと私

演出プラン思考

控えの部屋に帰ってきましたが、私は、又、外へ出て行きました。

そこに三国さんがいました。午後の撮影の為の思考中かクレーン車に腰掛けて台本のチェックの様子でした。

数人の坊さんがいましたが、私に一緒に写真を撮らせて貰おうと声をかけました。

三国さんは快くカメラに方に向いてくれました。

他にお願いできた人は少ないようです。

「三国さんと写真を撮ってきた」

と言ったら皆に羨ましがられました。

午後、再び撮影開始。

広いスタジオの中は大勢の人が動いていました。俳優、エキストラ、阿弥陀寺のセット、完成した映画では、ほんの数分ですが、映画作りというのは凄いお金が掛るものだと驚きました。

エキストラの費用だけでも数百万です。結局、三国さんは大赤字を出したようです。

カンヌ映画祭審査員賞を受賞されましたが一般の人には抽象的な表現とか、芸術的なシーンもあり、難解な所が多く映画だけでは理解できない所があります。

少しは勉強が必要です。二時間そこそこで、三国さんの希望を叶えるのは不可能でしょう。
原作「白い道」を一通り読みましたが、上中下卷読むのは大変でした。それでも、まだほんの一部で完結には遥かな日時がかかると言っておられます。

三国さんのライフワークで十五年かかって書き上げたものを限られた時間に収める事は無理です。

パンフレットの後日談では、初めから映画化を意図して作家の方に文章化を依頼したのですが、叶えられず自分で書くことになったそうです。資料に走りすぎたと思い、企画を変えたのですが、今度は家族を主に描けば、ホームドラマになってしまうので、撮影現場での試行錯誤の繰り返しだったそうです。

映画の撮影現場を始めて見ましたがカット毎の撮影は手間のかかる大仕事だと思いました。

撮影が終了したのは四時を過ぎていました。

完成した映画を見ましたが、私の姿は確認できませんでした。

画面の、あの辺りという感じはあります。僅かなシ−ンですが撮影の様子が思い出されます。

何処かの取材がありました。「FRIDAY」220日号に写真が載りました。神妙な顔をした私が正面に座っています。

本物のお坊さんのような顔をして……。

親鸞に至る道 本
三国監督の右に私がいます。丸座に俳優が座ります。    

もう一泊、宿は予約してあったのですが仕事もあり、青剃り頭で東京の街を歩く気も無くその日の内に一宮に帰りました。

しばらくの間、人に逢う度、頭の事を訊ねられましたが、あく抜けしたようで、気分は清々していました。

撮影から帰って

三国連太郎さんは不思議な雰囲気を持っている人です。

その後、映画のキャンペーンの為、TV出演が多くなりました。

瀬戸内寂聴さんとの京都寂庵での対談などで三国さんの知らなかった一面が分かってきました。

対談の中で話に出てきた1984年出版の「わが煩悩の火はもえて」「親鸞に至る道」として再刊された事を知り、購入して読みましたが、これは三国連太郎さんの「自叙伝」です。凄まじい本です。

生い立ちから、宗教観、差別、人間の本能の苦しみを、あからさまに書いておられます。よくここまで書けるものだと思います。

映画の続編があるのかと思っていましたが、そういう予定は聞きません。

一度は自分で確かめてみたかったのでしょう。その後も凄い演技をされていますが、自分をさらけ出した事でふっ切れたものがあるのかもしれません。それだから「スーさん」も楽しく演じられるのでしょう。

当時は、私も、あまりよく分からなかった映画ですが、今、見直してみると良く理解できるので、私もそういう年令になったのでしょう。

私も何時、何が起きるか判らない年令ですから、家族に迷惑を掛けないようにと、年の初めに書き置きを書いています。

生きながら不自由な暮らしにはならないよう、今出来る事は先送りせずやっておくようにしています。

五十才から、かなり色々、噴火(いい意味で)しましたから人生は分からないし、面白いし、不思議です。

昭和から平成に替ったのが、その頃というのも偶然だけではないのかもしれません。

三国さんが、何故あれほどまでに親鸞の事を考えたのだろうと思いました。

八百年も前の事を、あれほど熱心に調べられるのに比べて、自分が親、先祖の事を良く知っていない事に気が付きました。

父が戦死(公報では準戦傷死)した状況も全く判っていないし、又、調べようと思いながら行動していませんでした。これではではいけない、調べようと、数年前から松坂屋で、毎年八月、開催されていた戦争展「鎮魂、外地に眠る兵士達の詩」を訪ねました。

この展示はこの年で終了しこの年が最後のチャンスだったのです。

会場に出掛け、設けられていた「尋ね人」コーナーで、山田武彦さんという「レイテ戦記」(大岡昇平 著)執筆に協力された方からアドバイスを受け、調査連絡の後、四十三年振りに父の戦友を訪ねる事になりました。

昭和六十三年初秋、まもなく昭和の時代の終わる頃でした

二十五年経って今。

七十六才になって現在の心境は、その後、書いた「私と宗教」の考えから変わっていません。
宗教を深く知ろうとは思いません。

生きている限り出来る事を日々実行しようと心掛けています。

一貫して
「広く広く もっと広く」です。

五木寛之さんが「小説 親鸞」を新聞連載されましたが面白く拝読しました。

自分が僧職にあったらこんな気楽な事ではいけないでしょうが・・。


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