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「一枚のハガキ」新藤兼人監督 (98歳

NHK教育TV ETV特集 98歳 新藤兼人の遺言 〜映画「一枚のハガキ」を撮る〜
が放映されました。新藤兼人監督自らの戦争体験を映画化されたものです。撮影現場での演出指導や四年前に完成していた脚本、画コンテが紹介されています。多くの映画を作って来られた新藤さんですが自らの戦争体験を自分の手で監督されたのは初めてで百人の部隊で生き残った六人(五人は既に故人)の一人としての責任だと語っておられます。
一部、フィクションが加えられているという事です。
撮影は終了しましたが公開予定は2011年夏です。
新藤さんのインタビューのサイトがありますので、ご紹介します。
http://www.magazine9.jp/interv/shindo/shindo.php

新藤さんの軍歴は、インタビューで語っておられますが、映画では天理市で百人が共同生活をしていた時、同僚の四十二才の人(定造)が見せてくれた、奥さんからの「ハガキ」の文面が心に響いて鮮明に記憶に留まり、何時か何らかの形で表現したいと拘ってきたものを「もう後が無い」と資金調達半ばにして映画化が実現しました。
「ハガキ」の文面は「きょうは祭りですが あなたがいらっしゃらないので なんの風情もありません」というものです。何という事もないような文章ですが、農村に義父母と留守を預かる暮らしの空しい生活を伝える言葉に、新藤さんは率直に感動を覚えたのです。その兵は六十人の戦友とフィリピンへ輸送船で陸戦隊として向かいますが、アメリカの潜水艦攻撃で呆気なく海の藻屑となってしまいます。何も入っていない白木の箱を出迎えますが、義父母の懇願で弟と結婚、その弟も戦死。義父は農作業中に心臓発作で急死。義母も首を吊って自殺します。
映画では、啓治という、新藤さんを分身とする男性が郷里へ帰りますが、家族は居なく暫く呆然としますが「ハガキ(実際は本人と水没)」を持って定造の奥さんを訪ねます。
奥さんは「何故あんたは生きている。何故死ななかったのか」と半狂乱のように激しく追及します。
精神は時々不安定になり、囲炉裏の不始末で藁葺の農家は焼け落ちます。啓治は「共に生きて行こう」と焼け残った土地に麦を植え実りの収穫を迎えるラストシーンになります。
出演 大竹しのぶ 柄本明 倍賞美津子 豊川悦司 など

インタビューの新藤さんの考えに私は全く同感です。
私達家族も父の戦死、空襲被災など、戦争に翻弄されました。

県障害援護課の記録
父の軍歴(昭和)
12.8.12  歩兵二等兵 歩兵第6連隊補充隊に応召
12.11.12  召集解除
19.3.20  衛生伍長の階級を与う 軍医予備員候補者として歩兵第百三十五連隊に応召
19.4.10  衛生軍曹 軍医予備員を命ず
19.4.10  召集解除
      (歩兵第百三十五連隊は直ちにサイパンへ派遣され全員玉砕しました)
19.6.15  第1航空教育隊に応召
19.6.15  衛生曹長の階級を与う 衛生見習下士官を命ず
19.6.20  第百三十三飛行場大隊
20.9.5   軍医少尉 比島において渡河中溺死

第百三十三飛行場大隊軍歴(威第18452部隊高倉隊)
19.6.15 臨時編成下令
19.6.20 編成完結 361名
19.7.13 門司港出発同日第四航空指令官の該下に入る
19.7.20 フイリッピンルソン島マニラ入港 同日第四飛行師団長の指揮に入る
19.7.21 マニラ上陸
19.8.9 マニラ出発
19.8.14 ミンダナオ島ミサミス州カガヤンに上陸、同日第13航空地区指揮下に入る
19.8.17 プキトノン州バレンシヤに到着 同飛行場に展開、第一次比島作戦に参加
20.4.17 敵ゴダバトに上陸するや部隊に自戦自活体勢を強化すべく同バレンシア東方に拠点を構築、爾後地上戦闘に参加す
20.9.2 ミンダナオ島にて終戦、停戦に伴い戦闘行動を停止し、爾後、生存者はバレンシアに於いて武装解除された後米収容所に入る  戦死者146名(死亡の原因は多岐複雑であり言葉を失う)
(父は投降中、プランギ河で筏転覆、溺死と戦友会にて目撃証言を得る)
20.10 主力レイテ島夕クロバン収容所に移動

出征以前、自宅医院診療の傍ら、徴用で愛知時計電機(潜水艦魚雷軍需工場)の診療所に昼間勤務
   出征していなくても(熱田空襲により 20.6.9 10分間に2068名爆死)に遭遇していた。
20.3.19に私達が名古屋大空襲で被災した頃、フィリピンではバレンシア飛行場にアメリカ軍が迫り攻撃激化、撤退準備に入っていた。本土の惨憺たる様子は知るべくも無い。
新藤さんの言われる、戦争は、個、家族を破壊する。人だけではない国の有形無形の文化資産、街並み、人の組織繋がりを破壊し、復元の見込みが失われたままである。

 
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