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 私達が乗った市電 

一本パンタグラフ、前後に掬い網が付く 紐を引き180度回して反対側に嵌める
1200型、パンタグラフが前後にある 一方のパンタグラフを外せば方向転換
後部パンタグラフが接触状態 駆動装置が2基、昇降口が中央にもある


私達家族が名古屋市東区葵町に住んだ頃(昭和15年〜20年)両親と出掛ける時は、専ら市電を利用していました。
母の実家が名古屋城南西角に当たる外堀町に住んでいましたから、葵町からは新栄町か布池電停から北へ平田町を西に廻って行く路線がありました。
反対の南に行くと鶴舞公園、以前住んでいた板橋町や名大医学部です。
新栄町から西へは広小路を経て名古屋駅へ。東は東山動物園が終点折り返しでした。
東山動物園へは昭和12年に延長。それまでは覚王山が終点でした。
東山動物園開園は昭和11年、それで延長されたのです。
覚王山から向こうは、城山、本山に名士の別荘がある位で小山と何も無い平地が続いていました。
その向こうに動物園がありました。葵国民学校や、家からよく行きました。
その時、市電の窓から山腹に見えた不思議な建物が昭和塾堂でした。
覚王山には我が家の墓があります。そこへ行くには、覚王山の電停を降りてから参道を歩き、境内中程から東に抜け、水を湛えた「姫ヶ池」の周囲を巡り陸軍顕彰碑の側道を北山に登って行きました。
市内の往来は専ら市電でした。広小路、大須、円頓寺などへよく行きました。
葵国民学校へ行く道路の真ん中に線路が敷かれていました。私達はその道を「電車道」と言っていました。
当時の車両は前後に人を掬い上げる為の網が付いていました。人が電車の前に居た時に掬い上げるためです。そしてパンタグラフは一本の棒でした。その先端は滑車になっていて電線に嵌めて滑らせるのです。
パチパチと火花が光る事がありました。
終点折り返しでは車掌が先端から下がっている紐を引っ張り、滑車を外して180度反対方向の電線に嵌めて進行方向を反対にし反対車線に入ります。東山動物園前では、よく見る光景でした。
今回、「名古屋市交通局市営交通資料センター」で写真(カード)を入手出来ました。
棒パンタグラフ車両は二種類あり、昭和17年〜24年頃にかけて走っていました。
私の記憶では昇降は前後だけ、パンタグラフは1本、駆動装置は一つと記憶していますから、300型単車と思います。
「300型」は大正時代に製造されました。
昭和23年にも、まだ走っていました。運転装置だけが「資料センター」にあります。
「1200型」は戦前に製造された代表的な車両で、昭和11年から17年にかけて日本車輌、日南車輌で75両製造され名古屋市電の基本となったスタイルで昭和45年には、まだ走っていました。
中央に昇降口が有りますが。パンタグラフは前後に2本です。
これは一方の紐を引き滑車から外せば、そのまま進行方向転換できます。駆動装置は二つあります。
当時としては料金は高かったようですが、市センターの人に聞いたのですが「今の時価ではどれくらいかはわかりません」との事でした。
今ではパンタグラフは菱形が普通ですが、棒のパンタグラフは、今思うと不思議な感じがします。
掬い網と共に記憶に残る幼時の思い出です。
「レトロでんしゃ館」には「1400型」以降の車両が展示されています。
さすがに前述の車両は、あまりに古く有りません。
昭和49年3月、市電廃止の後、多くの車両が全国各地に散らばっていきました。
三河湾には多くの車両が漁礁として海中に沈みました。今では跡形も無くなったことでしょう。
車掌さんが紐を引っ張って鳴らす「チンチン」という音と共に走り回っていた車両は遥か彼方に去って行きました。
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