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陸 軍 戦 捷 碑
戦捷記念碑
捷(しょう)は戦争に勝つ意味だから戦勝記念碑。
正しくは日清戦役第一軍戦死者記念碑といい、明治三十三年、広小路通の東の突き当たり(武平町通との交差点)に建てられた。
なんでも、高さは十六メートルもあり、砲弾を形どった奇抜さが人気を呼び、駅前メインストリートのとどのつまりの名所になった。当時の文芸倶楽部定期増刊『名古屋と伊勢』は、その碑についておもしろい話を載せる。
〈栄町通りの突き当たり、もとの県庁跡に金鵄の光を放っている砲弾形の記念碑は、第三師団管下の軍人の最大名誉を表証するもので、工事は昨年すでに竣成したけれど、いろいろな事情があると見えて除幕式はまだ行われない。その竣工当時、記念碑の頭が少し南へ傾いているとの説が起こった。すると某実業家は戦後経営に失敗し経済界の紊乱を来たしたゆえ、記念碑が小首を投げて思案しているのであろうと諧謔をたくましゆうし、大いに市民の眉をひそめさせたことがある)
同誌はこう書いたあと(名古屋見物にきたものは、第一に金の鯱鉾、つぎはきっと、ここに案内されている。
とにかく、この辺りは名古屋の新風景といって然るべくで夏の夕涼みはもとより、月は春も夏も秋もよいのである)といっているから、新名所ぶりがうかがえそう。
道路中央にあるゆえ邪魔だと、覚王山へ移されたのは大正九年。

図は「名古屋名所案内」(服部鉦太郎氏蔵)から。 (参考資料) 名古屋の駅の物語 大野一英 著 から
日秦寺北から東を見る。
かっては前面には池が広がっていた。
全景。台座には銃が天に向き鎖で囲まれていたが今は無い。 かっての池の所在を示す石碑
見上げる高さ。16メートルとか 金鵄の下に記念文。
周囲には戦死者の名が連なる。
記念文下。リボンと菊花に飾られている
ラッパ。サーベル。小銃など陸軍装備。 斧。銃剣。スコップ。 東京砲兵工廠鋳造。明治三十三年六月竣工とある。
双眼鏡。ピストル。サーベル。帯嚢。斧。 小銃。ラッパ。スコップ つるはし。背嚢。斧。飯盒。鞄。ハンマー。
少年時代の原風景

この碑は、私の心に、しっかりと貼りついています。
私の原風景の情景は、この碑の前に広がる、かなり広い池でした。
今は、その場所は駐車場になり、その一角に「放生池」と彫られた自然石の碑が建っているのみで全く、その名残はありません。
バス停に「姫ヶ池」という名と、「姫ヶ池通」という戦後、拡張された道路の名が昔日を知る人の想いを呼び起こすのみです。

私の心に、この碑が大きく止まっているのは、この碑の前に広がった池を巡って、この碑のすぐ傍を通り、父方の先祖の墓碑がある北山(現、南ヶ丘)へ何度か訪ねたからです。
それは、母の死があったからです。母は、私が七才の夏、急病で亡くなりました。
私が国民学校一年生になったばかりの夏でした。
私は、母の実家を母に代わって相続する約束で生まれた身でしたから、母の喪主として白の裃を着て、その役を勤めました。

数十年前、墓地の近くの、戦前からある花屋さんが、戦後、進駐軍が移転を命じるまで、ここに火葬場が有ったという事を教えてくれました。という事は、葬儀の後、ここまで来たのだということです。その場所の隣に、今は立て替えられ姿が変わってしまった朱塗りの伽藍のお寺がありました。墓碑は、そこから下った数十メートルの所にあります。
ここには、昭和五年に父が建立した先祖の墓碑があります。
そこへ、度々訪ねたのですが、その度、通るのが広がる池と、その向こうの高台に見える砲弾の碑でした。

ここへの交通の手段は、東山動物園行きの市電、覚王山電停を降り、参道を北へ、日秦寺境内の手洗場、売店を東へ、釈迦舎利殿の方向へ向かいます。
途中、弘法大師霊場を経て東の丘陵地に向かうと、目の前に池の水面が広がります。
池の周りを巡り、当時は鬱蒼としていた山の中へ入って行きます。
釈迦舎利殿の参道には、初代西川鯉三郎の西川鯉翁碑があります。
刻まれた高弟の連名の中に祖母の西川 叶(名取名)が列して記されています。
その他、中部地方の電力王、福沢桃介、芸能人などの碑が立ち並んでいます。

南には、城山八幡宮昭和塾堂があります。陸軍碑の傍を通り、しばらく坂を登って丘の上に着くと、そこが先祖が眠る地です。
今は母や父も眠っています。覚王山電停から15分位、1K程です。

墓碑を訪ねる度に見る、この戦捷碑は記憶の中のノスタルジックな風景でしたが、今、ビデオを手に傍に立ってズームアップすると鋳造物としては、かなり芸術的なデザインが施されている事が分かります。その一端を紹介しました。
軍紀の高揚を図る意図があったでしょうが、デザインとして見ると、なかなかの物だと見直した次第です。

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