戦地と内地
戦争というものは銃、弾薬を使って戦闘を行う事は勿論ありますが、その時、兵士の家族も内地で戦争の影響を大きく受けて暮らしていたのです。
私の例として、父の行動と留守家族の行動とを平行して記してみようと思います。
昭和十七年、母が病死していましたので、父は、昭和十一年頃、勤務していた桑名の五井病院で薬剤師をしておられた三重県菰野町のTさんという方を五井先生から紹介され、私達留守家族の世話に名古屋へ来られ弟を、叔母と共に名古屋の家で預かる事になりました。二才の末妹は、祖父の家で義祖母に預けられていました。Tさんは、父の小牧入隊にも同行され、私も一緒に市電電停付近で千人針を通行の人にお願いしました。当時、女の人はモンペ姿が多く絣などが普通でしたが、その人は奇麗な着物地のモンペを着ていました。
父に、K飛行場大隊への召集命令が下ったのは1944(昭和十九年)6月15日でした。
入隊後、7月5日に門司へ出発する前、軍服、帯剣、長靴姿で家に来ました。
軍刀を抜いて見せてもらったりしましたが、出発が迫り、池下の先輩、山ノ内医院を訪ね、挨拶の後、市電で名古屋駅へ向かって行きました。市電の窓から手を振って去って行ったのが最後の姿でした。私達は、歩いて千種の葵学区の氏神、高牟神社で参拝、家に帰り、私と兄は再び御嵩へ行きました。
Tさんは、私達が御嵩にいる間に戦局の悪化を感じられたのか、三重県へ帰ってしまわれました。
叔母は弟を連れて菰野町を訪ねたのですが、再び名古屋へは来られませんでした。所詮、無理な、お願いだったのです。
十年程前、桑名の五井病院の所在を確かめに行きましたが見当たりませんでした。桑名の、その場所は廃院され、スーパーになっていました。桑名も空襲があり名残はありませんでした。五井病院で看護婦をしておられ、訪ねたその時は、山本総合病院の婦長をしておられたMさんという方と、後日、電話で話した時、父が出征前、Tさんと私と兄を伴って五井先生に挨拶に行ったそうです。
「その時の男の子の下の方」と憶えておられました。
その時の話では、五井先生が病気で診療が出来なかった時、応援に父が行った事があったそうです。五井病院の写真が、唯一枚ありますが鉄筋作りで自動車も有り個人としては大きい病院の様でした。
出征前、父は名古屋市熱田の愛知時計医務室に軍事徴用されていました。
愛知時計は20年6月9日9時30分前後、10分ほどの間にB29の三波による空襲を受け、死者2068人、負傷者1944人を出したと記録されています。これほどの被害を出したのは魚雷、水雷、機雷、銃弾などを製作する海軍の軍需工場だったからです。
2トンという最大の爆弾が使われ、避難場所になっていた鉄筋の研究室は地下まで貫通したそうです。一旦解除された空襲警報で職場へ復帰途中などの人達の頭上に、再び爆弾が降り注ぎ、名古屋空襲では特異な被害を出しました。
父が召集されずにいたとしてもこの空襲に遭遇していたでしょう。
父の軍歴を見ると、6月15日召集以前、3月20日、歩兵百三十五連隊に召集、4月10日召集解除になっています。この解除と軍事工場徴用との関係はわかりません。
歩兵百三十五連隊は四十三師団 誉(1943)編成ですが、昭和19年7月7日サイパンで全員玉砕しています。
このように二重、三重に人の運命が翻弄されました。
私達家族も軍事体制の中での対応をさせられました。
国民学校は三年生以上は空襲を避ける為、昭和十九年八月以降、集団疎開あるいは縁故疎開する事になりました。家族ぐるみ疎開した人もいました。葵国民学校は三河の矢作へ集団疎開しました。
私と兄は、父の祖の地、岐阜県可児郡御嵩町の伯父の家に預けられました。父は出征前、私達を伴って御嵩へ行きました。名古屋から御嵩は名鉄電車で乗り換え一時間以上掛りました。
都会のど真ん中で暮らしていた私達は、中山道の宿場町に暮らす事になりました。
父がフイリッピンのバレンシヤ飛行場でアメリカ軍の猛烈な空爆を受けている頃、私達は山村の学校と、それまで全く馴染みの無かった親類の家族の中で暮らしていました。お世話して頂いた伯父一家(伯父、伯母、いとこ三人)には申し訳ないのですが居心地はよくありませんでした。
随分、経ってから従兄と再会しましたが、従兄は東濃中学から名古屋経済専門学校(名大経済学部の前身)に進みましたが、海軍江田島兵学校に志願、半ばで終戦を迎えました。当時の校長は、巣鴨プリズンで絞首刑になったそうです。この話をする時、従兄は涙声になります。
知覧の特攻基地も訪ねたそうですが、若い特攻隊員の写真が掲げられる慰霊堂では涙がとめどなく溢れたと手紙を貰いました。
従兄は、T通商に定年まで勤められましたが木材部に所属、東南アジアの材木調達の商談でフイリッピン、ミンダナオにも詳しく、皮肉にもジャングル伐採にも関わりました。今も季節の挨拶の交流はありますが、その都度、父の苦労をねぎらって頂きます。
私達は、夏休みを近くの可児川、愛宕山などで過ごし、秋の運動会ではルーズベルトやチャーチルの人形を叩いてくるというような種目がありました。
愛宕山(御嵩富士)から手渡しで薪を降ろしたり、学校で穫り入れた麦でうどんの給食がありました。
数十年たって訪ねた時、伯父、従姉は亡くなっておられましたが、伯母は
「木村のお祖父さんが、あんた達を連れに来たから帰って行ったんだよ」
と言っていました。その伯母も脳梗塞で倒れ八年の療養の後、八十八才で亡くなられました。
二学期を終わり、私達は名古屋に帰りました。名古屋の空襲は12月から始まり、私達は空襲に遭遇する事になります。
フイリッピン、バレンシヤでは空襲が続いていました。4月17日コダバトにアメリカ軍が上陸するまで13回もの爆撃が続いていました。
名古屋での空襲体験は名古屋空襲誌(名古屋空襲を記録する会刊)を裏付けに書きました。
空襲で住む家を無くした私達は、母の実家、一宮に来ましたが四月に編入した一宮第五国民学校は7月28日の一宮空襲で全焼しました。当時、担任の森先生は、私の他にも空襲、疎開などで転校してきた子供達に、よく心遣いされました。
その先生は、今も、よく当時の事を憶えておられ、今年はさくら道マラソンの応援に姉、弟(シテイランナー)で来ていただきました。
4月26日バレンシヤ飛行場はアメリカ軍が接近、飛行場爆破の上撤退の命令が出ました。
バレンシヤ飛行場には、レイテ戦から起用された特攻機も、何度か立ち寄ったと聞きました。
バレンシヤは、撤退して来る各地の陸海軍部隊の通過地点にあたり、続々奥地に向かう部隊の姿を見送った最後の撤収でした。
飛行場大隊はその後、5月28日から6月10日迄に四度交戦、斬り込みも二度、敢行され二度目は終戦を知らず八月十八日数名が戦死しています。361名の隊員の内、最終的には146名の戦死者でありました。
この中には戦闘でない死亡者もいるという事です。
6月10日、アメリカ軍の攻撃に抗しきれず、全員玉砕の伝達があり、文書、国旗、千人針、写真、軍隊手帳等、認識票以外は、涙乍らに焼却、総ては終わったかと思ったのですが命令は転進に替わりました。この後、数ヶ月、餓えと病魔との闘いが始まったのです。
内地では空襲が続いていました。一宮の空襲は7月28日午後10時頃から翌2時頃まででした。一宮の被災率は全国でも富山の90%に次ぐ70%の高い率でした。ちなみに名古屋は30%台です。
私達が住む事になった地域は、市街の南端に当たり焼け残りました。長屋にいましたが、東隣の一軒が焼夷弾で燃上。長屋の端の家の軒を焦がしましたが類焼は免れました。間一髪、再び路頭に迷う所でした。
一宮の空襲では727人の人が亡くなりました。
これは名古屋でも、他の各所でもあったのですが、燃盛る家を後に、安全な所を求めて家族と避難しようとした所へ
「お前達は、逃げるのか、家を守れない奴は非国民だ。逃げるな」
と行く手を警防団が遮った為、大勢の犠牲者を出しました。
名古屋の東区でも、市外へ脱出しようと、庄内川の橋の上に大勢の市民が集まったのですが、警防団の阻止に会い、そこへ照明弾に続いて爆弾、焼夷弾が浴びせられ多くの家族を失った方の体験を昨年「東区の空襲を掘り起こす」集いで聞きました。
手足がバラバラになった死体を捜す家族の姿があちこちで見られたと話されました。
このようにしながら、戦争は惨めな終結へと向かって行きました。
飛行場大隊は20年9月2日停戦。投降が始まり収容所へ。
帰国が始まったのが12月1日。最終帰国は21年12月末。
それから戦死の確認がされ、戦死の公報が遺族に知らされたのは二十二年に入ってからでした。
私の家に、県から公報が伝えられたのは二十二年でした。遺骨の伝達が知らされ、近くの寺院で法要の後、白木の箱と位牌が渡されました。兄が位牌を持ち、私が白木の箱を受け取りました。振ってみるとカタカタ音がしました。
何が入っているのだろうと思いましたが、暫くの間は確かめませんでしたが、時を経て見る事にしました。中にあったのは15cm足らずの木の位牌で戒名が書いてありました。形見になるようなものではありませんでした。
後日、位牌と箱は、父が出征前建立し、長い間、訪ねる機会を失っていた名古屋の墓碑に納めました。
平和な生活を願う気持ちは多くの人が思うでしょうが、時には希薄になる事もあるでしょう。
戦争映画にも秀作は沢山ありますが所詮は虚像です。然し、心を揺さぶる作品はあります。
私は「キリングフィールド」のラストに流れたジョン・レノンの「イマジン」に感動しました。
私は娘の結婚式の花束送呈のBGMに自分で探したオルゴールの「イマジン」を希望しました。
平和で円満な生活を望んだからです。私は物量、豊かな暮らしより普通で穏やかな暮らしを先ず望みます。
沖縄や広島、長崎で展示とビデオの説明より体験者の語りの希望が多いのは、体験者に残された少ないチャンスだと思います。
今までの記述は四十三年目に分かった資料を照合し記述しました。