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さくら道ウルトラマラソン270K応援記
さくら道ウルトラマラソン270K応援記

「さくら道ウルトラマラソン270K(48時間)」は「ネイチャーラン」と同時(1994)に始まりました。
第一回は呼びかけ・発起人である「海宝・酒井・小野さん」が名古屋駅を起点に、コースの下見・点検として走られたようです。
「第二回」からレースとして一般に呼びかけた所、全国からマラソン愛好家が応募。スタートも「佐藤桜第1号」がある、中川区高畑の「JRバス名古屋営業所(かっては千種駅構内)」となり、名古屋城周回、かっての名金線を通り、ゴールは「ルネス金沢」、白鳥では「佐藤良二顕彰碑」に立ち寄る為、ネイチャーランより、20Kプラスの270Kとなりました。スタートは、午前7.00、タイムアウトは48時間後の午前7.00。二昼夜になります。二昼夜のレースは疲労と眠気で朦朧とした意識でのゴールも多く見られました。
このレースは、エイド(補給地点)は主催者設置の「荘川桜」1箇所と登録サポーター(2001年24名)の移動車でのサポートのみです。各ランナーは、自給自足が原則で、安全の為のサポートもありません。総て自己責任であり、リュックに最低限必要な物(懐中電灯・反射板は必須)を入れ背負って走ります。リタイアの場合は主催者に連絡の後、交通手段を確保してゴールに向かうか、帰宅をするかを決めます。初めの内は時間外ゴールも暗黙の了解でしたが、終わり頃は終了処理困惑の為、時間内ゴールで打ち切りとなりました。
参加者は初めの四年はわかりませんが、98年の166人以降、212,239,251人と増え続け十年目の2003年には300人を超えました。この時点で主催者側からレースの「コントロールの限界」に達したとの判断から一区切りとなり終了しました。
私が「裁判所佐藤桜」でエイドを設置したのは第四回からです。その経緯は既に紹介してありますが雨による中止も一度も無く続けてきました。私の場合は全くの個人的なもので「ランナーズクラブ」とか地域有志組織ではないので、300人のランナーへのサービスは限界に来ていました。
9.30頃から立ち寄り始めるランナーは10時過ぎにはピークになり100人近くのランナーでごった返す状態になりました。12.00を過ぎても数人が来ました。交差点角での設置なので立ち飲み立ち食いです。雨が降れば不可能です。一応、警察派出所には届けましたが、短時間一時通過だから構わないとの了解は得ていました。
ちょっと困惑したのは何年目かの時です。その日は、たまたま平日でした。「佐藤桜」の前の裁判所の柵に横断幕を取り付けていたところ、職員の方数人が凄い剣幕で「速やかに撤去しなさい」と言ってきました。あまりの剣幕に呆気に取られましたが「裁判所とはそういう難しい所なのか」と取り外して、それ以降は道路側の電柱に付けました。それから平日になった事は一度あったかと思いますが、何も言われなかったですが様子を見に来たことがありました。
同じ市内に「てんつく」という「ランナーズクラブ」があり、その人達が公式サポーターとしてマイクロバスでの移動エイドをやっていました。メインは「蛭が野高原」の分水嶺で「手抜きうどん」なるものをサービス、ゴールの「ルネス金沢」での打ち上げまで補給活動をしていましたが、矢張り「もう限界だなあ」と言っていました。多くのランナーがゴールし健闘を称えあった「ルネス金沢」は、2008年10月残念ながら閉館しました。
名古屋から岐阜県境(木曽川橋)の35Kの間では単年ではあったようですが、長期間、個人エイドを設置していたのは私だけだったようです。裁判所はスタートから27.3K、全コースの10分の1、ランナーが、まだバラバラにならず二時間位で通過する、最初のチェックポイントで、補給と休息と記念撮影には絶好の場所でした。
岐阜県に入ると、蛭が野峠に登る手前、白鳥までの美濃地区では、佐藤良二さんの地元でもあり各所で組織的なエイドが設置されました。殊に郡上郡では、大和・八幡・白鳥で大掛かりな炊き出し、マッサージなどのサポートが夕方から翌朝まで徹夜で設営されました。
前述の「てんつくランナーズクラブ」の分水嶺エイドを経て「荘川桜」の主催本部唯一のエイドから先の飛騨地区では、ランナーの通過は12時間以上掛かるようになるので少ない移動エイドのみになります。五箇山トンネル出口など各所でサポートがあります。
その後は、地区在住の方の自宅サポートが特徴で、福光の波多さん(ランナー)のサポート。
福光の和菓子の老舗「坂上松華堂」の女主人さんは、第一回に立ち寄ったランナーの話に「こんな人間業とも思えない事をされる人がいるとは驚きで人生最大の感動です」と感激し、レースは勿論、それ以外にも個人或いは小グループで訪ねるランナーとの交流を深めておられます。
全レースの詳細な様子は「GOさん名場面集」をご覧下さい。
1997年には、全盲のパラリンピック優勝者、柳川さんをメインに「うるとらマラソン270Kの記録(北斗映画社)」が市販ビデオを製作しました。
TVではNHKが、2003年、毎週放送の「ナビゲーション名古屋」で「さくら道270Kマラソンに挑む人たち」を放送しました。
飯田(70)夫妻、小野谷(45)角田(52)さんを主体に撮影編集、25分の番組でした。飯田さんは年齢と自己との挑戦、小野谷さんは大病を経て復活への挑戦、角田さんは妻を亡くしたショックからの立ち直りというテーマを持ってのレースでした。
この番組は、2005年、NHK放送80周年の「東海アーカイブス」で「桜紀行・もう一つの旅」と共に再放送され、大きく育った、白鳥小学校の桜や、荘川桜、尾藤てるさんのインタビューと共に紹介されました。

「さくら道ウルトラマラソン270K」は通過するのを見送る「ネイチャーラン」とは違い、多くのランナーと、言葉を交わし、握手をし、元気な歓声がオーラとなってパワーを私に与えてくれました。
延べでは1000人を超えているかもしれません。ビデオを見直すと、よくまあ、あれだけの人に僅かではあってもサービスする機会が与えられた事は大きな人生の糧であったと思い返されます。

「さくら道ウルトラマラソン270K」は終了しましたが、景観に富み、思い出を多く与えてくれたコースを再び訪ねたいという、個人、或いは小グループが「それぞれのさくら道」とか「勝手にさくら道」という名称でゴールデンウィークの間に走って行きます。全コースではなく区間(主に白鳥以降)を走るランナーも居るようです。「さくら道」は今も変わらず人の心を繋いでいます。

今年(2009年)当市(一宮)のランナー、masaさんから、海宝さんが6年振りに自ら走るという知らせがありました。
第一回に走って以来は、主催者サポートで走っておらず十五年振りという事になります。
四月二十九日、AM7.00、JRバス名古屋営業所スタート、昼間、70Kを走り、四日間で金沢ゴールという計画です。何人で来るのか、海宝さんの他には誰が来るのか分かりませんでしたが、私は発起人の酒井さんから預かっているプラスチックの距離表示板(さくら道うるとらマラソン270K 一宮裁判所前 27.3K)と、横断幕を持って「佐藤桜」で待機しました。サポート車三台、ランナー10人、サポーター5人です。10.58分到着、小休止補給・記念撮影の後、11.05分には出発して行きました。初日の終点は美並(76.3K)PM6.00頃の予定という事でした。30日は、蛭が野高原辺りでしょうか。
完走後にはmasaさんから報告があると思います。無事完走を祈ります。
裁判所前で道路を見ていると、レース自転車や車椅子マラソン車も通過して行きます。それぞれの思いを持った人達の「それぞれの道」です。
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