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音楽の輪


音楽の輪


「系図(ファミリー・トゥリー)」若い人たちのための音楽詩

きっかけは、十四年前、’97・9・6日「N響アワー」で放映された「武満徹 若い人の為の音楽詩 系図(ファミリートゥリー)」でした。武満徹の名は知っていましたが、理解が難しい前衛音楽家であるという程度の知識でした。
この曲の事も全く知りませんでした。全く偶然の事でした。
語りが「遠野凪子」という十五才の少女で、現代の家族の複雑な状況を訴える「叫び」とも言える朗読が胸を打ちました。この曲がどういうものなのかを調べました。谷川俊太郎の詩集「はだか」から「むかしむかし」「おじいさん」「おばあさん」「おとうさん」「おかあさん」「とおく」を叙情的なメロデイによって増幅しました。もう一度、その映像を見たいと調べましたが「NHKアーカイブス」にも無いようです。CDで吉行和子の語りで市販されていますが、あまりに「遠野凪子」のイメージが強く動画を探しましたがずっと見付からないままに来ました。

「遠野凪子」については、NHK朝ドラ「すずらん」に出演。大河ドラマ「吉宗」でも町娘で出演していました。その後も曲折はあったようですがドラマ出演をしていたようです。殆んど見た事はありません。
「系図」の動画が手に入ったのは、2008年、他のつながりで知り合った、名古屋の琵琶演奏家「北川鶴昇さん」からでした。他のつながりというのは、NHK教育TV「芸能華舞台 冬をえがく(越後新潟・雪国の芸)」記録の問い合わせが有った事からです。
私は日本各地の芸者衆の出演ビデオを収集していました。
今や、芸者衆は減少の一途で「芸どころ」と言われた名古屋でも二十人前後しか居ません。厳しい稽古で身に着けた「芸」を、お座敷で披露する機会が失われたからです。ホテルのパーティが多くなり何の芸も無いコンパニオンと称する女性のサービスが多くなった事が理由に挙げられます。
芸者・芸妓の芸の姿が見られる、少ない機会が、年に一度、NHKホールで開催される「古典芸能鑑賞会」で、京都(祇園)・浅草・大阪(新地)・金沢・博多・新潟(古町)などです。残念ながら、名古屋・赤坂・神楽坂などは出演がありません。
このHPでは、この地方の「祭礼」と共に「民俗芸能」と「名妓連」の様子もお伝えしています。
北川さんは「冬をえがく」を録画されたのですが、誤って一部消去してしまったので探しておられました。「新潟 古町芸妓」の様子を是非もう一度見たく、もしや記録があればとお訊ねがありました。
ここで一つの輪が繋がりました。北川さんは名古屋では各界に交流が深く、平成七年八十四才で故人となられた鶴田錦史さんの直弟子の方です。
鶴田錦史さんは、武満徹の名を世界に認められた、和楽器、琵琶(鶴田錦史)と尺八(横山勝也)2010・4・21 死去七十五才、とオーケストラの「ノベンバー・ステップス」の初演(1967)の演奏をされました。
北川さんは、愛知県芸術文化センター・コンサートホールで、2008年、2010年に、セントラル愛知交響楽団と「ノベンバー・ステップス」の演奏をされました。この動画は北川さんの手元にも無いと言っておられます。音は有るようでFMで放送されそうです。理由は不明です。
北川さんに「北を描く」のDVDを見て頂いた御礼に「何か希望を」と言われましたので武満徹の「系図」をお持ちでないかとお訊ねしたところ、武満徹氏が亡くなられて(96・2・20)NHKが追悼番組として、立花隆・広瀬修子アナウンサーの対談を録画したものがあり、その中で「系図」の作曲過程と「映像詩 系図」の製作風景、完成したものが含まれていました。遠野凪子が語りと出演をしています。鮎川浩(おとうさん」阿木耀子「おかあさん」も出ますが演奏風景は有りません。岩城宏之氏、谷川俊太郎氏が打ち合わせのディスカッションに出ています。演奏画像はありませんがN響です。
武満徹氏がこの映像製作現場に立ち会っていますが結果の意見はありません。

私は、コンサートの映像を尚も探していました。
以前、検索で探した時には無かった「系図」の演奏会が見付かりました。「小沢征璽指揮 サイトウ・キネン・オーケストラ 語り 遠野凪子(1995・9・7)松本文化会館」です。
カーテンコールで、武満徹 谷川俊太郎 両氏が登場します。武満さんは翌年二月亡くなられました。「系図」はニューヨークフィル創立150周年の為に委嘱され初演に参加される直前、病状悪化立ち会えなかったのが無念だったろうと立花隆さんが追悼で語られました。
この演奏会は素晴らしいものです。以前アップされたのですが消されたそうで、違う人の再アップです。市販ではないようです。消えない内にご覧下さい。

北川さんには、その他にも「武満作品」「新潟市伝統文化ビデオ・古町芸妓」などを頂きました。
                                   2011・1・25

「大野一英さん(なごや物作家で著名)2006 死去」に、芸者の芸の見事さを教えられたそうです。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」で、大星由良之助(大石内蔵助)が、吉良方を油断させる為、偽りの豪遊をする「祇園一力茶屋」へも連れて行って貰ったとか。それ以後も大野さんの、お誘いで大阪などへも行かれたとか・・。
芸妓の芸に魅せられ、北川鶴昇さんは新潟古町芸妓の師匠である市山七十世さんに、賛辞の手紙を送った所、琵琶の演奏依頼と「古町芸妓」の宴席への招待という、思いもよらぬ歓待という事になり、2010年8月7日新潟で楽しい思いをして来られました。私には、そういう機会は全く無いので「名妓連さん」などの公開出演などを拝見する事に致します・・ハイ。

「ノベンバー・ステップス」
なかなか理解が難しい曲です。たまたま、昨年、NHKで「名曲探偵アマデウス」という番組が放映され、筧利夫が「天出臼夫」なる役で、名曲をコメデイ調ながら詳しく解説しました。「トーンクラスター」「図形楽譜」という特殊な表現法、これも偶然ですが、それなりに理解出来ました。この曲は、作曲前の段階から、小沢征璽・鶴田錦史・横山勝也氏が、武満徹氏と綿密なデイスカッションを繰り返して完成されたものです。
初演以後、200回以上の演奏がアメリカを始め世界各地で演奏されました。その後も、指揮者・演奏者によって演奏はされるのですが、初演の鶴田・横山・小沢氏を超える演奏は無いと断言する人もいます。
その、小沢征璽さんが、ご承知のように食道癌の治療で体力低下、昨秋の「サイトウ・キネン・コンサート」に「弦楽セレナード(チャイコフスキー)」の指揮をドクター制限の中、腰掛けながらされました。練習も時間制限を掛けられ、他の方に練習指揮を託されました。「ノベンバー・ステップス」も、プログラムにあって、見かねてアドバイスをされている様子も見られました。
その後「カーネギーホール」で「交響曲第1番(ブラームス)」のタクトを振り復活と伝えられました。これはNHKが「小沢征璽 入魂の一曲」として放映しました。
ところが、今年になって腰痛が悪化、手術の為、再び休養と伝えられました。小沢さんは昨年九月で七十五才、私と同い年です。辛い事です。
小沢征璽さんについては、思わぬ所からエピソードと問い合わせがありました。
                                    2011・1・27

伝説の「小池レコード店(輸入レコード) 」

十二月三十日、メールで、かって名古屋の栄町の通りに有った「レコード店」についてお訊ねがありました。これは、このHPで私が空襲まで住んでいた「葵町の暮らし」について書いた文中に、父と行っていた新栄町電停南に有った「レコード店」の事があり、その店が今どうなっているかという問い合わせです。私は葵町を訪ねた時、その辺りの店で聞きましたが判りませんでした。
市電「新栄町」電停は広小路交差点に有りました。戦後の都市計画で葵町との間に錦通りが出来て地下鉄新栄町はそこにありますが、その南に広小路通りが有ります。鶴舞から布池を通って平田町へ市電が複線で走っていました。文化女子短大の門の前の道です。今見ると「ここを?」と不思議な気がします。
さて、その「レコード店」名前が判りません。検索も出来ません。しばらく考えていましたが、十月三十日「揚輝荘」を訪ねた時「昭和の道具展」が開催されていて、高木さんという方が初期の鉱石ラジオから真空管ラジオ、電話機、初期のパソコン(PC6001など)蓄音機、電蓄などを展示。SPレコードのコンサートをやっておられました。その時、色々な話をしました。「揚輝荘2010」で一部ご紹介しました。その高木さんに訊ねて頂けないか「揚輝荘の会」にお願いしていました。
ふと、私の住む町内で「理髪店」を営業している、私と同年の方が、戦後、新栄町の理髪店で修業、当時の近所の事をよく知っておられ、戦中に有った食堂などの話をした事を思い出して「レコード店」の事を聞いてみました。名前が判りました。
「小池レコード」です。新栄町から西へ、東新町のCBCの近くへ転居するまで、小さな店を構えていたとか。すぐ傍に雲竜ビルがあり「ライブハウス」がその中に有りました。雲竜ビルは元々は「雲竜山・乾徳寺」という、お寺の所有で、戦後、子供の減少で運営していた幼稚園を廃止、私の弟は、この幼稚園に空襲被災まで通園していました。その跡地に多目的高層ビルを建設。多彩なサービス業が入居したようです。その中に「ライブハウス」も出来ました。現状は知りません。
私は「乾徳寺」「雲竜ビル」へは一度も行った事はありません。
そこに出演された「Hiro・Kawashimaさん」が二十年ほど前、すぐ近くに有った「小池レコード店」にふっと立ち寄られました。そこで店主の小池さんと音楽談義になり半日近くも話し込んだそうです。その印象が深く、この度、私に訊ねられました。
その時の会話に「君が座っているその椅子に小沢(征璽)君が座って居たんだよ」と言われた言葉が忘れられないという事です。Hiroさんはジャズミュージシャンで「トランペット・ボーカリスト」のようです。ハワイアン、ウクレレの教室も持っておられるとか。
小池さんは、2000年3月20日、90才で亡くなれました。
娘さんが二人居られたと理髪店の人が言っていますが、店は閉店されたそうです。この方が私が父と行っていた時の方かどうかは不明です。
小池さんは「中区役所ホール」で、40年間の長期に亙って「レコードコンサート」を開催。解説もされたのですがCBC近くへの転居も一つの理由かも知れません。何しろ「アンプ」にも精通。レコードは国内盤はプレスが悪く音質に不満。現地録音の輸入盤についても薀蓄が詳しかったとか。
クラシック・ジャズ・ラテン、総てのジャンルに対応されたといいます。
「小池レコード店」で検索すると膨大な情報が得られます。亡くなって十年以上前になりますが今や伝説として「小池レコード店」は語り伝えられています。
                             2011・1・30

「トウランドット(誰も寝てはならぬ)」と「イマジン」

この二つの曲は、映画「キリングフィールド(1984製作)」のラスト近くで非常に印象的に使われました。
ストーリーは、検索などで、ご覧頂くとして、カンボジアの内戦が、ポルポト派(クメールージュ)の優勢で終結に至るまでの経過の中で、ニューヨークタイムズの記者(シドニー・シャンバーグ)と現地助手で通訳の男性(プラン)の運命を描きました。シドニー記者はピューリッツア賞を受賞しますが脱出に失敗しカンボジアの「キリングフィールド」に取り残されたプランを思うと心が晴れません。
虚しい心で立ち尽くす部屋のテレビにはB52の空爆が映ります。ステレオから流れるのが「誰も寝てはならぬ」の朗々としたテナーです。
映画で流れたのが誰の声か、わわりませんが、「パバロツテイ」だろうと思います。テナーの高音が響きわたった時、電話が鳴ります。思いがけないカンボジアから国境を脱出したとの隣国からプランの無事を知らせる連絡でした。ニューヨークに住むプランの家族に伝え新聞社に駆け付けます。
隣国の難民キャンプに到着したヘリコプターから彼は降り立ちます。二人は駆け寄り抱き合います。
その時、流れるのが「イマジン」です。

実は、私は、その時二つの曲名を知りませんでした。強烈な印象が耳に残りました。
「イマジン」は、ビートルズのジョンレノンの歌である事は余りに有名です。ジョン・レノンは1980・12・8、銃弾に倒れ亡くなりました。この映画はその四年後の作品ですが、多くの人が、ラストの「イマジン」に涙したという批評です。
私は娘の結婚式の花束送呈のBGMに、オルゴールの「イマジン」を希望し叶えられ感動的な思い出になりました。
その後、自衛隊艦船イラク派遣に反対する「イマジン・デモ行進」に白川公園からセントラルパークまで参加しました。私は太平洋戦争で父を失い、父母が苦労の末、開院した医院も戦火で灰燼に帰しました。
国の平和・家庭の平和に強い願いを持ち続けています。

「誰も寝てはならぬ」の曲名を何時知ったかはハッキリしませんが「パバロッテイ」だろうという事は「世界の三大テナー」として、オペラを引退した「パバロッテイ」と「フラシオ・ドミンゴ」「ホセ・カレーラス」が、世界ツアーとして東京ドームをはじめとして日本公演を行いました。凄い迫力でした。
「パバロッテイ」は、その後、名古屋ドームでも単独公演をしました。どちらも放送を録画してあります。
トリノオリンピック開会式に「誰も寝てはならぬ」を歌いましたが、これが最後のステージで、2007・9・6、亡くなりました。物凄い声量のテナーでした。
荒川静香のフイギュア金メダルのBGMが、この「トウランドット(誰も寝てはならぬ)」と誰もが知る曲になりました。

映画と音楽については、多くが人生とオーバーラップしています。
また次のテーマにします。


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