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恩 師

恩師 M先生


私の短い学歴の中でも本当に恩師と思える方が、おられます。

名古屋空襲で被災(S20年3月19日)。住居を失い、父は出征して不在(後、戦死)母は既に病没(S17年)、叔母(父の妹)と男兄弟3人は、一年前,名古屋から一宮に転居していた母方の祖父を頼って一宮に来ました。(母没後、末妹は祖父が養育)。
それからの生活は惨めな事になりました。
私達だけでなく、日本中が悲惨な状況で、他人の事など考える余裕が無い世相でした。
そんな状況の中で、親無し、家無し(祖父所有の古い貸家に住んだ)収入無し、馴染みの無い土地に転校し、絶望していた私に、担任になったM先生は「貴方には出来る事が沢山あるから頑張ってね」と励まして下さいました。
まだ若い、お嬢さんのM先生は「先生の、お手伝いをしてね」 と、色々心配りをして下さいました。
豆腐を作る授業で先生のお宅(学校から300M位)へ
「容器に使う弁当箱を借りてきて下さい」と言われ喜んでお使いした事や「お母さん」の作文を書く事になり、私は 「僕には母はいません」という書き出しで書いた作文を、涙声で皆に語って頂いた事もありました。
書き出しの後は、どう書いたかは憶えていません。その優しい思い遣りは、十才に満たない子供にもよく分かりました。
当時は私と同じように、一時,転校して来た子供も数人いましたが、再び以前の地へ帰って行きました。
7月末、一宮も空襲に見舞われました。記録では富山に次いで被災率が高いと言われます。
幸い、私達が住んでいた家は隣で鎮火。再び路頭に迷う事からは免れました。学校は全焼。
焼け残った隣の学校での授業でした。

翌年、五年生の担任のT先生は極端に私を冷視されたので余計にM先生の印象が深くなりました。
教育者の子供に与える影響の大きさを感じます。

四年生(昭和二十年,終戦の年)環境の激変の中、忘れられない先生の優しさは今も心に沁みこんでいます。
長い間、先生との交流はありませんでしたが、一宮市が毎年発刊する「いちのみや文芸」 の短歌の投稿に先生の歌と住所を見かけ再会しました。
先生の実家は、私の家から300M程にあり、裁判所の
「佐藤桜」からも200M程の所なので「さくら道マラソン」 の事をお知らせしました。

ここ数年「さくら道マラソン」の二つのレースに、弟さんとランナーの応援に来て下さるのが、そのM先生です。

H十年頃記述


近況  平成二十年十一月

 しばらく、お目にかかっていませんでしたが、先日お宅のそばを通りかかったところ、庭先に人影が見えました。道路からフェンス越しでしたがご主人のようでしたが「M先生はお元気ですか」と声をお掛けしましたら「ああ、居ますよ。お母さーん」と家の中へ声を掛けられました。
出て来られましたので「お元気のようですね」「いや、五月に家の中で転んで救急車で搬送されました。もう痛くて骨にひびが入ったのですが入院はしないで近くの整形外科に毎日通院、やっと最近どうにか正常になりました」「先生、何才になられましたか」「八十三才です」「私は間もなく七十三才ですよ」「そう、私は十才上なんですね」 少し離れた所の「アイプラザ一宮(勤労会館)」での「ミュージカル演劇 大江河岸」観劇に行く所だったので庭先での立ち話で「又、お訪ねします」と失礼しました。

考えてみると私がお世話になった四年生は十才でした。先生が十才上ということは二十才という事になります。今になって思わぬ驚きでした。 終戦前で、男の先生は殆どが応召で戦場へ、戦死や未帰国で、女学校を卒業あるいは途中でも教員不足で先生になられたのだと思います。私の母も生きていれば女学校本科四年を卒業していましたから先生になったのだろうと思います。今になっても思いがけない事が判るものです。

追悼 平成三十年

昨年二月頃、お宅の近くに通りかかったので訪ねて見ました。
「インフルエンザに罹ってしまって・・・」

「予防接種は受けられなかったんですか・・・」 「受けたんだけど発病して具合が悪くてね」と言われたのですぐに失礼しました。

今年になって初夏だったと思いますが近くを通ったので道路のお向かいの人に「お向の奥さん先生(ご夫婦共元先生)どうして居られますか」と訊ねたところ昨年初めに亡くなられたという事でした。思えばインフルエンザから肺炎になれたかと思います。

私より十才上と聞いていましたから九十才になられていたと思います。年齢に不足はありませんが、ご主人が糖尿病とかで家庭菜園も沢山栽培しておられました。大きな立派な和風本建築にお住まいでしたが交通の便が悪く軽自動車で行動しておられました。
息子さんが二人居られましたが大学進学以降ともに住む事も無く「それが残念で」と和歌にも投稿しておられました。仲の良かった薬剤師で中国語講師もされていた弟さんは先に亡くなられ「終わり頃は認知症になり最期は呼吸器を付けられ話も出来なった」と嘆いて話されました。
 現在は、ご主人独居かと思いますが一度お訪ねしようかと思っています。

恩師 T先生


中学二年生。担任は新人の元気印一杯の体育と国語のT先生でした。

一学期が終わる頃、先生は「夏休みに海へ行こう」と言いました。何となく先生の周囲には十人程の男子生徒のグループが出来ていました。
成績が良いとか、いうのではなく,自然発生的なグループでした。先生は、何のこだわりも無く、知能テストの採点とか、先生の仕事を 「手伝ってくれ」と気楽に私達にやらせていました。
今では考えられない事です。

夏休みになり、知多半島の「山海」(海水浴場で有名な内海の近く)のお寺(グループの一人、M君のお父さんの縁故)へ一週間程、行き ました。
僅かな食材は持って行きましたが、後は現地で調達したと思います。
その費用は誰が負担したのか謎のままです。

十数年前、当時、同じ時期,同じ中学で先生だったA先生に聞いた話では、先生は校長に「子供達と遊びに行くので,給料の前借りが出来 ないか」とか、同僚の先生にお金の借用を頼んでいたそうです。
先生は学習用具の無い子供には、自分で買って渡したという話も聞いています。
山海の一週間は、私の少年期の中で最高の想い出になっています。
夏休みが終わり、その年は、愛知県が「国体」開催県に当たり、先生は得意の鉄棒で大ハッスル。
市内の小学校講堂にセットされた鉄棒で
連日練習をしておられたようです。
事故は突然起きました。手をサポートする革が切れたそうです。
先生は天井近くまで吹っ飛び床に叩き
付けられました。
いつも一緒に通学していた親友のお母さんが私を訪ねてきました。
「T先生が大怪我をされました。お見舞いに行きますが一緒に行きますか と言われます。
私は一緒に小学校を訪ねました。先生は一室で寝ておられました。何を話したか憶えていません。
先生の姿は学校から消
えました。代わりの先生が来ました。先生との交流は途切れました。
写真の服装を見ると夏服なので翌年だと思いますが、先生が静養しているという、名古屋の土居下(名古屋城の堀東)の下宿先をグルー プが捜しながら訪ねました。
元気無くションボリとしておられ、揃って写した写真にも先生はうつむいて写っています。

お見舞いの後、私達は、近くにあった名古屋NHKに立ち寄って見学してから帰りました。
結局、先生は私達とは四月から十月頃までの6ヶ月位しか交流がなかったのですが、私にとっては短かい学業期間の内で最も充実した月日で した。
中学卒業間近、先生の姿が校庭に現れました。ラグビーボールを思いっきりキックしている元気な姿でした。
担任でもなく、進学も断念した私は、先生に声をかける事もなく学校を去りましたが、先生との交流は忘れる事なく心に留まっていました。

先生は数年後、出身地の瀬戸市に近い名古屋の学区へ去って行かれました

この時のグループのメンバーは、ある者は、高校,大学、大学院に進み大学教授、会社社長などになりました。進学できなかったのは私だけでしたが、今、この年齢に達して何のこだわりもありません。
このグループが、再集合し先生に再会したのは昭和六十年頃だったでしょうか。
私の学区の小学校教頭先生に消息を伺い,名古屋市守山区に
お住まいと聞き、私が,お訪ねして三十年振りに再会。当時のメンバーに声を掛け二、三人の欠席はありましたが再会の場を再現しました。
先生は、名古屋市立中学校校長として活躍中でした。
その後、中学同窓会にも出席されました。

その後、間もなく,先生の中学校に校内暴力の嵐が吹き荒れました。
この中学校は新設校で地域の交流、連帯が薄く、その上、ベテラン教師
が少なく新任先生の割合が高く収拾がつかず大層苦労されたと後に伺いました。
TVのニュースにも度々報道され、ハラハラしながら見ていました。悪い事は重なるもので、修学旅行のバスは箱根で追突事故、学区で集中豪雨、下校時の学生が側溝で水死(先生は出張中)どうなっているんだろうと大いに気懸かりでした。
先生は持ち前の正義感と気前の良さで、多くの恵まれない子供に援助をされ、表彰も多く受け、年末年始には教え子が自宅に沢山集まると の事です。

定年を迎えられ、その後は教育委員会などで仕事をしておられましたが、退職され六十三才で出家されました。

現在は瀬戸市の奥、岩屋堂で毘沙門天堂の堂守をしておられます。五年前、お訪ねしました。
その時,少年兵に志願するか師範学校の予科に進むかの岐路が人生を変えた話を伺いました。
何故、出家したのかという話も、その時,聞きました。先生のお宅は瀬戸市品野で農業をしておられたようですが、お父さんが何か、四十何才かで死ぬよと聞かされたのだそうです。
ビックリして,呆然となってしまったのですが、ある夜,夢告げがあり、奈良信貴山を訪ね毘
沙門天の木像を拝受、担いで瀬戸に帰り岩屋堂に堂を建立祀られました。
八十数才まで生きられ天寿を全うされたそうです。

亡くなられて後、堂守が不在になったので、これは私が何とかお守をしようと信貴山へ出掛け、若い僧と一緒に修行、出家を許されました。
訪ねた時、供養してあげるから一族の名を書くように言われ、護摩を焚き般若心経などを挙げて頂きました。私も一緒に心経を唱えました。
何故か、私に「貴方は出家してますか」と聞かれました。私は「いいえ」と答えました。
鉄棒の事故の話も、その時伺いました。
脊椎の一部が欠損したのですが、脊髄には間一髪、影響を免れ、助かったとの事です。

脊髄損傷があれば、身体不髄になり正常な生活は出来なかったかも知れません。
何かが先生を助けたのでしょう。私はそう思います。

先生は、現役中はPTAなどとの交際でかなりの酒豪だと聞いていましたが、この時「私は酒が飲めなくなった。飲むと意識を失ってしまう。葡萄酒をちょっと飲むだけだ。これ一本持って行け」と日本酒を貰ってきました。
暫く、お目にかかっていません。岩屋堂は愛知万博で話題になっている「海上の森」の近くです。
お世話になったのは昭和二十五年です。間もなく五十年です。
人の心は移ろい易いといいますが、そうばかりではないと思います。

私は恵まれなかった環境の中でも、素晴らしい人達に出会えた事を幸運に思います。
自分もそういう感動を他人に届けられるような事が出来ればと思いますが、とても出来そうもないので普通の事が出来れば、それで勘弁し てもらう事にしましょう。

平成12年9月


平成二十二年十二月十六日。逝去されました。
平成二十一年二月まで毘沙門堂の堂守を勤められましたが病に冒され治療。
十一月、ご自宅へお見舞いに行きました。大きな声、握手の手は力強く「まだまだ大丈夫ですよ」と励まし手を振ってお別れしました。電話で伺うと経過は悪くないという事でしたが訃報が知らされ葬儀に出席、永久のお別れをしました。
私は「T先生と二十四の瞳」として小文を書きましたが、それを追悼と致します。
先生有難う御座いました。

               平成二十二年十二月十九日

恩師 K先生

K先生は、私の入学した葵国民学校一年生の担任でした。
葵国民学校は、私の家からは150メートル程の所にありました。今も同じ所にあります。
名古屋市の中心部、栄からも1K程でしょうか。この辺りは尾張藩下屋敷跡地で、当時は隣接して、アメリカ領事館と東区役所がありました。
今は名古屋市医師会館と救急センターになりました。
私が入学したのは昭和17年4月です。ムラサキ組でした。他の先生の事は憶えていません。
珍しい名前が記憶に残ったのでしょう。当時の教科書の国語はカタカナから習いました。
「サイタ サイタ サクラガ サイタ」とかです。先生との直接の体験の記憶は無いのですが、当時の学校の様子を知る為に、当時の 同級生を捜したのですが誰一人手懸りが無かったので新聞に伝えられた三年ほど上級生の同窓会を訪ね、話を伺っている内、先生がど こかで健在だという事を知りました。住居は不明でした。
先生の消息が判ったのは意外な展開からでした。
私は、近くの神社境内(さくら道、裁判所前)に35才頃から、毎日7時に出かける習慣があります。
1995年の或る日、いつものように境内に行くと、そこに建っている「一宮青年の家」の玄関脇に小さな毛布のかたまりが転がっていますした。
駐車場のフェンスに布切れなどが干してあります。
境内を巡り、毛布の傍へ行くと、どうも人が包まっています。子供のようです。

傍にマウンテンバイクがあります。ムズムズと動いて、こちらを見ました。
「どこから来た」と聞くと「名古屋」と言います。
バイク旅行でもしているのかと思い「気をつけてな」と言って家へ帰りましたが、
どうも気になるので、又出かけて「名古屋のどこ」と聞くと「東区」学校は「葵小学校」。
「へー。葵小学校なら僕の行っていた学校だ」

朝飯は・・」と聞くと「まだ・」と言うので「朝飯たべさせてあげるから来ないか」と言うと付いてきました。
ご飯や味噌汁などを食べさせてやりました。
本人には気付かれないように、葵小学校に電話をした所、葵小学校へは弟が行っていて,
当人は 中学生で家出中だというのです。中学に連絡をされ、先生が名古屋から飛んできました。
所が、当人は先生の姿を見るなり、顔色を変え土足のまま外に飛び出し姿を消してしまいました。
駅へ行ったのだろうと自転車で走り回り、捜しましたが見付かりませんでした。先生は一旦帰られました。
夕方、変な事件が起こりました。
私の家の裏口の、塀の中に置いてあった、使っていない冷蔵庫が「ドーン」と小爆発、炎が立ち上りました。
5メートルほどの火柱だったので「これは危ない」と119へ・・。
火の脇をくぐり、そばの水道の水を掛けました。火柱は風呂のガスコックの傍なのでガス爆発かと思い、水は躊躇したのですが、掛け続け た所、火は消えました。
火は消えたのですが、消防車がサイレンも、けたたましく周囲に集まって来ました。
「消えました」とは言いましたが、暫くは検証があり
発火原因を調べました。
どうも冷蔵庫のフロンガスの爆発のようです。
唯、発火の原因がわかりません。自然発火は考えられないので
外から火を投げ込んだものが、冷蔵庫の上部を加熱し爆発したのではと言う事でした。
その子供は、その後、1ヶ月ほど行方不明となりましたが、大阪で浮浪者仲間と暮らし名古屋に舞い戻って公園で保護されました。
母子家庭で、同棲した母親の男連れに反発して家出をしたと知らせがありました。
不審火については伝えませんでした。もし、彼の仕業だとすれば立場を一層悪くするので敢えて迷宮入りとしました。
その時、葵小学校にK先生の事を尋ねてみました。
先生は、戦後、すぐ学校を替わられ、その後は、消息不明といわれました。

それから数週間後、K先生の所在が判ったと連絡がありました。
先生は、名古屋市東区徳川町にお住まいと判りました。
先生は私には記憶は無いが、話をしたいと言われるのでお訪ねしました。

先生は一、二年生を続けて担任されたのだそうです。
私は、三年生の夏には学童疎開で岐阜県御嵩へ、同級生は三河岡崎に集団疎開し、
三年生三学期の空襲で葵町を去ったので、実際に葵国民学校に居たのは、二年ちょっとでしたが学校周辺の様子はよく憶えています。
K先生の、お家は徳川町の近くで陶磁器の絵付けの工房を営まれていたのですが、一時、空襲を避けて三重県に疎開されたと伺いました。
戦後、今の地に帰り、旭ヶ丘小学校の教壇に復帰。定年まで教員を勤められました。
その間、結婚された、
ご主人はフイリッピンミンダナオ 島で戦死。
お子さんが無かったので、生涯、お一人で今まで暮らして来られました。
墓参団にも二度、参加、その時、持ち帰られた水牛の
置物を私は頂きました。
私の父と同じ島で亡くなられたのも何かの縁かと思いを新たにしました。

今も地区のカルチュアー講座で書道や卓球を楽しんでおいでです。
ワンルームマンションのオーナーでもあり、金銭に不自由は無いのだけ
れども
「自分が死んだら後はどうなるのだろう」
と、考えた事もあったけれども、お寺の和尚さんに話したら
「死んだ後の事は、幾ら考え ておいても、どうなるものか判らんのだから考えなくても良い」
と言われそう割り切ったと話されました。
50年も経ってからお目に罹った先生です。顔も全く憶えていなかった名前だけの記憶の先生ですが、学業の始まりにお世話になった事は 間違い無く、私の短い学歴の中の恩師です。

   記 ’01.1.13
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