御神木奉迎送ドキュメント
年初めから地区に広報が始まりました。神社関係者は当然ですが、町会長には「お知らせ」が有りました。「政教分離」という事もあり、各町対応はそれぞれでした。三千人を目標という事でしたが、どれほどの応募が有るのか見込が付かず、神社関係者は半強制参加のような雰囲気でしたが結果は八千人という歴史に残る程の大行事になりました。
日本人と「お伊勢さん」の結び付きの大きさに改めて驚きました。
六月七日ドキュメント
人が溢れる前に「真清田神社」の様子を見て来ました。背に「太一」(注)の文字が大きく書かれた白法被の手伝い衆が集まり対応の説明を受けていました。これは出発点「お旅所」も同じです。
曳き綱は、長さ百メートルが二本。一区間二千人が四列で並ぶと、一人20センチという計算になりますが、実際は、さほど、ギチギチな感じも無く進みました。
普通に歩けば10分掛からない所を30分で歩くのですから、気候も良し、楽しそうな雰囲気でした。
1.5Kを三分割、緑・黄・赤の帯の色で分けリレーしました。終わった人達はどうするのかと思いましたが「真清田神社」に設置された「軽食引渡し所」で(パン・お茶)を貰って解散という事で、行列に先行して神社へ向かいましたから混乱は有りませんでした。そのまま側道で見物した人もいます。
第三区間は800メートルですが参加多数の為、曳き綱が届かず、二分割になりました。某宗教団体が500人参加で先頭を希望したようですが地元町内優先が原則でした。一区間500メートルですが実際は先頭が100メートル以上前から並びますから先頭は実測350メートル位になります。
私の町内は、お旅所町内のに隣接していますから、木遣り衆に続く先頭でした。
「お旅所」は、周囲十四町内の氏子管理になっています。町内委員は「桃花祭」には「神輿警護役」で、裃・一文字笠・帯刀で神輿の両側に付きます。
それに倣い今回の「御神木奉迎」の警護役を勤めました。
十四町内の内でも、私の住む、殿町一丁目は「桃花祭」では「神輿渡御・還御」に続く、流鏑馬、駄志馬行列に続く「若殿行列」を行い、私も「露払い・後見」の役を数度勤めました。締め括りの「押さえ馬」が楼門に入ると太鼓が鳴り祭りは終わります。
「お木曳き」は、五時出発から八時まで行われ、人の波に埋もれました。上空には取材ヘリがホバーリング、新聞社とTV6局が取材しました。生中継が「お旅所」「本町アーケード」からありました。
「御木曳き」同行の「上若連川遊び若衆」の木遣りの唄声は素晴らしいものです。七五調の歌詞に、ヨイショ・ヨイショ・ヨイショ・を六回或いは十回付けます。木遣りの原点と言うものではないかと思います。
なかなか歌詞は聞き取れませんが「生まれ育った木曾檜、送り届ける御神木」との趣旨があります。
神社境内では楼門石段に並び本殿に向かい「ヨーイヨイ・ヨーイヨイ真清田さんのお社に・・木遣り唄・ヨーイヨーイ・エンヤヨーイトセ・ヨイショ・ヨイショ・・・」とか「今日は日も良し、お伊勢様へと目出度く到着頼みます」などと唄われました。
当地の今伊勢馬寄地区に名古屋城築城参加に加わり唄ったという「馬寄木遣り音頭」が伝わっています。これは名古屋の「平針木遣り音頭」と殆ど同じものです。
江戸の火消し衆が唄う「木遣り」とは別の原点があるのでしょう。
ここから芸能として端唄「木遣りくずし」などの粋な文化も育ちました。伊勢音頭にも「名残り惜しいが六軒茶屋まで送りましょう」という艶っぽい歌詞があります。
「山車祭り」で唄われる「木遣り」は、元は伊勢と思いますが、かなり変遷の後、今のものになったのだろうかと思います。
七日の「御神木奉迎」は、時間通り終了し、翌八日、八時五十分次の地点へ出発されました。
出発式典は木遣り衆の唄声の終わりに、チョーンと「析」の音が鳴り響きバンザイ三唱の中、御神木車は見送られました。
注 太一((たいち)。天照大御神を表し、神宮御用を表し、神宮御用の印として、御用材、幟、旗などに広く用いられます。漢語であり、天帝、北極星、最高神を表します。 |