料亭河文が変わる 2.10
今は、名前だけが残る「魚ノ棚通り」に面する創業四百年、寛永年間(1624〜44年)。
当主は代々、河内屋文左衛門を襲名する高級料亭。(名古屋市中区丸の内2)
昭和四年の住居図では、旧町名は、上長者町二丁目と御幸本町二丁目の間の小田原町三丁目という表記ですが、面している通りは「魚ノ棚通り」と称され道路標示には今も使われています。
「清須越し」で、名古屋城下に移って来た、清須の、武士・商家・寺で構成された碁盤割の東の方に、今の中川区市下之一色から転居して魚屋の商売をしていた、初代が現在地に料亭を開きました。現在は十三代目になります。十二代の林永治郎さんが「堀川文化を伝える会」の沢井鈴一の著書「花の名古屋の碁盤割」で語っておられます。
「はじめは料理人の男衆がはかま姿で給仕をしていました。客は武士に限られていました。寺の過去帳では、初代は元禄十四年(1701)に亡くなっています。第2次世界大戦で、すっかり焼けてしまいました。近郊から旧家を解体移築して現在の店を造りました(中略)」。
空襲後、残ったのは樹齢三百年といわれる椎の木と、城への抜け穴だと言われる井戸だけだった。
いち早く再建を計ったのは、十一代目女将の「かよさん」六十余年に亙って店を支え八十九才で亡くなった名物女将でした。後を継がれた十二代目女将も気品のある綺麗な方でしたが、平成十七年(2005)亡くなられました。
建物は国の登録文化財です。木造二階建の主屋と離れは変えず、料金、内部も原状を損なわない範囲で改装するという事です。
「河文」の経営が苦しくなって来たのは、バブル崩壊以降に顕著になったようです。最盛時には大宴会があれば約三百万円を売り上げ年商五億を超えた事も有り芸妓の出入りも多かったとか。
「河文座」という小人数ながら伝統芸の公演も行われました。
経営形態は変わっても、名古屋の伝統芸能を伝える、芸妓を呼んでの「お座敷遊び」も絶やさないようにしたいという事です。
法人や高級官吏だけが利用していた形態が崩壊したと言えます。個人或いは少人数では利用し難い「お座敷遊び」も、ある程度の人数が集まればお稽古を積んだ芸妓の技に触れる事が出来ます。七月再開という事です。新出発に期待しましょう。
「河文」には「那古野神社祭礼」の「百人大神輿玄関付け」という伝統行事があります。七月十五日の宵祭「壇尻提灯奉納」と演芸奉納。そして、十六日の本祭の若宮八幡社への「百人神輿渡御」の還御宮入前に「河文玄関付け」が行われます。玄関前での「押し戻し」と「差し上げ」「木遣り」は豪快です。一度、ご覧になるといいでしょう。午後四時三十分頃です。
七月再開ということですから、今年も行われる事と思います。
名古屋の料亭も減少或いは縮小傾向。芸妓衆の精進の披露の場が失われつつあるのは残念です。
このHPにかっての芸妓置屋についてお訊ねがありました。
それは奈良県木津川村の方からです。明治二十二年、木津川村は水害に襲われ壊滅状態になりました。村は消滅状態になり百人以上の人が亡くなり一部の方が北海道へ移住しました。開拓の苦難を描たドラマがNHKで放送されました。「新・木津川物語」です。この脚本を書いたのは一宮出身の富川元文さんです。富川さんは荘川桜をテーマにした「二本の桜」の脚本も書きました。これは一宮を通り、佐藤桜がある「さくら道(太平洋と日本海を結ぶ)」を知ってオリジナルを書きました。
木津川村から、名古屋の長者町の芸者置屋に来た女性が居ました。芸妓になられ五代続き「芸妓置屋二葉屋」に関わりがあった。五代目の方が平成十一年に亡くなられて、その後の消息を知りたいというお訊ねです。市江美貴子さんといい東区赤萩という地名があり住所かとも思うとあります。
もう二年前になりますが、昭和四年の居住者図を送りました。その後の事は不明のままです。
芸妓置屋「二葉屋」は長者町二丁目の人力車丁場の隣に有った(碁盤割記載)。芸者置屋は三十四軒(大正三年)芸妓は八十人と「長者町今昔」は紹介しています。
昨年は名古屋開府四百年でした。明治維新、太平洋戦争と時代は大きく変わり長者町も繊維は衰退次の時代に移行して行きます。
日本の伝統芸能の、西洋音楽に無い「阿吽の間(呼吸)」を見直したのは、武満徹、伝えているのは、小沢征璽さんです。
和楽器と掛け声、踊りなどの所作の呼吸の合わせ方は、人の協調というコミュニケーションにも共通します。息つく間もないハイテンポな現代は人も心も消耗させます。
リッチ(豪華)ではなくエレガンス(優雅)な日々を送れたらと、後期高齢者の「おじいさんの私」は思います。
人あっての街です。ヨーロッパのような、商・住、併せ持つ街並みが人の住む街だと思います。
夜には暗黒の無人になる街は町とは言えません。明るい楽しい街であって欲しいと思います。
音楽の輪 1.24
十四年前の1997年9月6日の「N響アワー 武満徹 若いひとたちのための音楽詩「系図(ファミリートゥリー)」から、今日に至る大きな「輪(その中の大小の輪)」の事を書き始めています。
サイトを別にしますが、詳しく書くといつ終わるか判りません。
エンドレスになるかもしれませんが外部取材も限界の年齢なのでボツボツ書いていきます。
パソコンあれこれ 1.12
昨年末頃から、パソコンのタイム表示が毎日狂うようになりました。
毎日直していましたが、あくる日になると、いつも2002年になっています。これはBIOSの初期値です。
時計が狂うという事はそれだけに留まりません。ウイルスチェックのプログラムが効きません。
OS(Windows)のアップデートが2002年に戻ってしまいます。
色々警告が出るので、これはショップ修理かと思いましたが、ネットで「検索」した所、マザーボードのバッテリーが消耗すると起きる現象だという事がわかりました。
さて、マザーボードのバッテリーについては知ってはいたのですが全く意識した事はありませんでした。どこに付いているのかも判りません。マニュアルは英文ですが、マザーボードの配置図は掲載されています。ルーペで探すと場所はわかりました。「CR2032」である事もわかりました。これは100円ショップで買ったものが手元に有りました。パソコンは自作経験があるのでハードをなぶる事にはビビりませんが、巧く外れて、又、代わりが巧く嵌るかどうか未知数です。
電源を完全に切ってから、静電防止のアースベルトを腕につけ、狭い場所にあり、小さなフックに懸っているバッテリーを、プラス接点の向きを確認してから、細いドライバーで外しました。さて新しいバッテリーが巧く嵌るかどうか。至近に1枚ボードが挿してあるので、窮屈でしたが、カチンと嵌りました。ボードが近くに無ければ、さほど難かしいとは思いません。
さあ、巧く動作するかどうか。電源ON。再起動しました。案ずるより生むが易し(例えが変か)。
その後は正常動作しています。何の問題も無しです。
今の課題は「パソコンのモニターと液晶TVとの同時表示」です。液晶TVの認識はしていますが画面が表示できません。色々設定をしているのですが、まだ駄目です。パソコンモニターはアナログです。液晶TVにはグラフィックボードからHDMIで繋いでいます。
パソコンのモニターはVGAアナログで表示解像度にギャップがあるので複製(コピー)の差も問題です。モニターも液晶デジタルの共通にすれば問題無いかもしれませんが、今のモニターが壊れてもまだ予備が有るので買う気になりません。ただ、ワイドではないという不満はあります。コピーではなく切り替えで、どちらか表示という事になりますか。
とやかく言っていたら、今度は「DVDドライブ」が開閉しなくなりました。電気回路は正常という表示ですが機械的な故障にようです。外付けがあるので、今すぐという訳ではありませんが、RAMディスクが非対応です。RAMディスクは、あまり使いませんが暫く様子見です。BDまでは必要無いし、今は¥4.000位で買えます。パソコンにお金を掛ける時代は終わったようです。
データは手元に溜めずに「クラウド」で共有の時代です。すでにWebでは「インターネット」のHP、ブログ、YouTubeなども、気が付かない間に「クラウド」による共有になっているのです。
年末年始 1.3
年末、正月の仕込みや、お墓掃除、家掃除、その上、三十一日から元日にかけて、雪も降る低温で体調がおかしくなりました。
三十一日、寝る頃、雪が降っていたので、これは正月早々、ドンと雪が積もっているだろうと、長靴、雪かきスコップ、竹箒と準備しました。「紅白歌合戦」は、初めチラッと見て風呂へ入り寝床に入ったら二時まで熟睡。全く見ていません。幼稚園の発表会みたいな、ヒラヒラ・派手派手で、私のような高齢者には不向きです。演歌も趣味ではないので(嫌いと言うと嫌われるので・・)。
年末三十日、朝冷えで寝違えたのか、右の脇から腰が突っ張ってヤバイなあと思っていました。
春明けて 七十五里の塚間近 尚も歩まん 道ある限り
平成二十三年の年が明けました。
雪が気になり、外を見ると全く雪は有りません。「これは有り難い」と、何時ものように六時四十五分、近くの「富士三社(富士・諏訪・稲荷)」と、津島、秋葉末社の参拝。
風は無いのですが「寒い」というより、地面はバリバリで「物凄く冷たい」。薄い手袋では無いよりましという感じ。それでも元日はきちんと起きる習慣です。
例年通り、家族の挨拶をして、矢張り「雑煮」でなければいけません。「おせち料理」は、量は少なくても定番は作ります。「昆布巻き」は、鰊(にしん)でなければ駄目です。
新聞や年賀状を見て、元日は決まった来客は無いので、十時頃、「真清田神社」へ歩いて初詣で。相当な「冷え」だったのですが陽も照っているし風も無かったので出掛けた所、風が吹き始めました。神社参拝、社務所で「干支土鈴」を入手。土鈴コレクションも大分増えました。
突き刺すような北西の冷風が身体に当たる。「これは身体に悪いなあ、ヤバイ」と感じながら帰宅。やはり気分が変になって「コタツ」で横になって、とにかく身体を暖める。数時間して回復しました。
二日は、恒例行事の「親族パーテイ」十人未満ですが、普通の家庭は大人数の時は「鍋」か「すき焼き」というのが定番ですが、何時頃からか、それは何時でもやれるので「エビフライ」「ひれカツ」食べたい放題という、娘一家の孫からリクエストがあり、それに応えています。
それと「手作りおせち」。今年は、それに「野菜かきあげ」「ロールキャベツ」と、皆手作りなので朝から昼過ぎまで掛かります。多めに作るので残った分はタッパーに詰めて持って行きます。
二回ほど、ホテルやレストランで「バイキング」に招待してくれましたが、私のお腹では金額まで食べる事は出来ないので馬鹿らしいので「ホームパーテイ」が良いという事になりました。
長女は、一月二日が誕生日なので食事の後は一息入れてから「ケーキパーテイ」で、打ち上げ。
「今年も元気で行きましょう!」来年もやれますように・・。
周囲に往く人多し 12.28
年末には訃報の便りが伝えられます。
今年も恩師、同年の身内にも別れがありました。
師走十六日、六十年来、少年期に忘れられない思い出を与えて頂いた恩師との永遠の別れを致しました。八十一才でした。このHPの「恩師」のお一人です。私十五才、T先生二十一才の出会いでした。先生は教職新人、始めての担任でした。僅か六才年上のお兄さん先生でした。八十才二月まで、僧職を勤められましたが病が発見され、手術をされました。十一月、お見舞いにご自宅へ伺いました。声も大きく握手の力もしっかりしておられました。その後の経過も電話で良好という事でしたが、年末になって訃報が齎され、十九日、名古屋市守山斎場で永久のお見送りをさせて頂きました。年齢に不足はないと思いながらも寂しさを感じています。
私も、年明け二月三日には七十五才(後期高齢者)になります。
今年の健康診査は「異常なし、薬の服用も必要なし」という結果でしたが、実際は、二月のある日、入浴後「激しいめまい(熱いのを我慢して入ったのが引き金か)」もしやと脳の心配もあり、始めて救急車を自ら希望。結果は異常なく、その後再発も無しでした。
夏以降、猛暑の為か、胃腸が弱り胸焼け発生、目の乾き、耳の変調(エコー)何れも何とか回復。
十一月末、平和公園〜覚王山墓地〜揚輝荘〜建中寺とウォーク中、身体不安定になり、急遽、JR千種から帰宅という不安定要素が発生しました。すぐ回復で後遺症は何もありませんが「程々に」という赤ランプが点ったようです。
「文化のみち」では、イベント鑑賞、会話などを含めて5〜6時間は歩いて何でもなかったのですが年齢を言われれば「そうだろうかな」とは思います。
同級生は30%〜50%近くが亡くなったようです。全く異常なしは皆無でしょう。程度の差は大きいですが高齢老化による成人病は当然という姿です。
今までは、ハイピッチ早足で来ましたが、これからT先生の八十才まで持たせようと思ったら、ピッチを半分にしないと、躓いて転倒するかもしれません。自分はともかく周囲に迷惑を掛けないようにしなくてはとの思いで新しい年を迎える迎える心境ではあります。
12.3 明治維新〜太平洋戦争 栄枯盛衰
恒例の「歩こう!文化のみち(十一月三日)」で、今年は初公開の何ヶ所の内、建中寺の、二代藩主光友公(建中寺創建をされた)墓碑が、門内まで入れた事と、初代藩主義直公の霊廟が拝殿まで公開されました。これは既にご紹介しました。墓誌名之碑(徳川義親建之)を初めて見ました。建中寺の広大な墓碑・霊廟などが、昭和二十七年の都市計画によって平和公園への移転と解体破棄がなされた時の思いが察せられました。
数年前の「文化のみち」で、建中寺惣図「天明六年〜嘉永三年の建物・敷地」と「現在図」が配布されていたものを入手していました。その時から、この多くの墓碑・霊廟は何処へ行ったのだろうと思っていました。宗春公の墓碑は平和公園にある事は知っていましたが、他の方の所在は未確認でした。
ある知人と、その時話したのですが「歴代藩主は日本各地の徳川家から養子(将軍家押し付けなどがあった)などがあったから、それぞれの在所へ戻られたのかも・・」と話していました。
その後、毎年「文化のみち」で発行される「東区文化のみち あれこれ(東区文化のみちがイドボランテイアの会)」に、写真・図・レポートの掲載がありました。今年はNo8ですが私はNo1から所有しています。これには一般には伝えられていない地元在住ならではの取材情報です。
私は、空襲被災まで、東区葵町(尾張家御下屋敷跡)在住でもあり、少年期に大きな体験をした地域です。母の実家も、南外堀町景雲橋傍で大正初めから昭和十九年、防空強制疎開まで住む、という名古屋城下の縁が深かった事もあり祭礼と共に大きな関心を持っていました。
今年は、NHK大河ドラマ「竜馬伝」が大政奉還による徳川家崩壊への道筋を描きました。
竜馬が暗殺されたのは慶応三年ですが、私の祖父は慶応二年生まれであり、竜馬死の前年という、百五十年に満たない、ごく近い年月である事にも気付きました。
歴代尾張徳川家の、明治維新後の存亡、それに伴う、諸大名はじめ、家臣、武士の生活など、資産、生活手段の選択は如何に苦難であったかがわかります。
それでも徳川家の名誉は保たれ、伯爵、公爵、或いは新政府の官吏となり、貴族院にも名を並べていました。近代産業に携わる者も多数でしたが、警察としての、軍部の台頭が大きくなり職業軍人も膨大になりました。そして「日露・日清・太平洋」と続き、遂には、敗戦、国家存亡の危機となりました。
軍の消滅、公職追放により、明治維新以後も辛うじて保たれて来た、資産・公職は殆んどが激減。それ以後も、世代交代による遺産相続などで、墓地、墓碑までも保持出来なくなった有様を見て、かっては巨大な大名屋敷に住まわれていた人達の栄枯盛衰の姿を知りました。
戦争によって、有能な男子の多くが、特攻、或いは、将校、下士官として最前線で玉砕しました。
三人の息子はすべて戦死、遺族の両親の死によって絶家、墓地も無縁となった姿が、我が家の墓地の隣にもありました。たまたま墓参の折、お会いし「私達夫婦が死んだら、このお墓は誰も守る人は居ません」と聞きました。その墓は、いまは違う人の新しい墓になっています。悲しい事です。
私の父も「いよいよ、これからが人生」という四十才で戦死。私達は十才前後で、空襲被災で名古屋を離れていて、十五年程墓参が絶えていて、没収寸前に維持出来たという危うい事がありました。
百年に満たない私の七十五年の人生の内にも自らの意思、力の及ばぬ運命に翻弄されました。
それでも、諦めず、怠らず、蟻地獄に吸い込まれないよう生きるしかありません。何とかここまで来れた事を感謝すべきでしょう。
建中寺徳川家の墓地、墓碑などを訪ねる事により思いを新たに致しました。
TVニュースで、名古屋河村市長が、宗春公碑前で「開府四百年を機に空襲で焼損している箇所を補修しよう」と言っておられましたが綺麗になっていました。墓碑全体も黒ずんでいたのが薄ーい灰色になりました。高圧洗浄されたのでしょうか。台石、花入れも新品みたいになりましたが、数年の内には落ち着いた色になるでしょう。
パソコンのスピード 11.22
色々なアプリを、次々インストールして来た結果、立ち上がりから重くなって来ました。
久し振りにビデオを編集をした所、動画データの行き返りがモタモタ。OSは悪評高いVistaですがメモリー不足(1G)かと「エクスペリエンス インデックス」を見るとメモリーは何とか足りていますが、グラフィックのスピードが「3.2」です。グラフィックスはオンボードで128MBという事でやって来ましたが明らかに不足です。「IE」を「Beta9」にしてから、ますます現象が変になってきたのでビデオカード増設に踏み切りました。CPUはCore2 DuoなのでまずOKです。
ミニタワーなのでローブロ(小型)でなければ入りません。思考錯誤の結果GIGABYTE HD5450(512MB)にしました。RADEONというのが思案でしたが、店頭現物が通販と変わらない¥4980で購入しました。
結果エクスペリエンスは「4.5」にアップ、最高はデイスク転送速度「5.4」と最高になりスピードは充分になりました。
HDMI端子も有るので、液晶TVと同時表示しようと「HDMIケーブル」を購入。TV側の設定はしたのですが、GIGABYTEのマニュアルが英文・中国語なのでウエブサイトで日本文を検索しています。「RADEON」は「ATI」ですが、それに従ってやると、モニターは表示しますが、モニターのみや複数やら認識したりしなかったり、HDMIケーブル(¥980)が安かったので不良かなと思ったりしてます。
パソコン本体は好調になったので「HDMI」は後にして、本来の仕事(という程でもないですが)に掛かります。
鶴舞〜葵〜徳川と歩く 6.6
鶴舞までは、我が家からJR利用、最短30分で到着します。名古屋まで快速で11分、中央線乗換10分で鶴舞。我が家から自転車で尾張一宮駅まで9分、列車のタイミングが良ければ可能です。悪くても40分です。運賃400円です。
これは、身内に名大病院入院という事があり知った方法です。それまでは、幼時暮らした「鶴舞」に行くには名古屋駅で降車、地下鉄で東山線伏見乗換、鶴舞線で行っていました。これは長ーい通路と深ーいエスカレーターの連続で不便でしかも料金高です。料金の事では先祖の墓がある自由が丘へも基幹バスで200円で行けることも判りました。
さて、本題に入ります。
六月六日(6月第1日曜)は、恒例の「徳川園山車総揃え」が、十一時から披露されます。
そこへ行く前に「鶴舞公園」で、毎年見事な花を開く「花菖蒲」を見ようと、AM8.00には「菖蒲園」に居ました。
花の様子は「四方八方掲示板」に書きました。事情に詳しい高齢のカメラマニアの方と、名城公園や鶴舞公園の「花蓮」の消滅や、お堀の水など市民と行政の意識のズレなど聞きました。その内に調整されると思いますが・・。
「バラ」は遅れましたが見事に咲いています。「アジサイ」と競演も考えられます。
次の目的は「葵」の「マザックアートオフィスタワー」。
ここは戦後六十年以上駐車場のままでした。中央に一本の「楠」の大木と一軒の家がありました。
ここに巨大なオフィスビルと美術館が四月末に完成しました。この地は、かって「尾張徳川家御下屋敷」の七万坪の一角です。今の新栄町から、東は車道、北は平田町近くまでの広大な土地に、池や山を配し、寺や窯場、薬草園が造られました。敷地の南西角の「マザックビル」の所には稲荷山があり一帯が森になっていました。
私達家族は、そのすぐ東に住んでいましたが、稲荷山は木柵で囲われ怖い感じでした。
昭和二十年三月十九日、名古屋大空襲で一帯は焼け野原になりました。私達が去って、その後、平地になり多くの木は無くなりましたが、一本だけ残ったのがこの「楠」です。百年以上と言われていますが、私も気になっていたこの木は、大型クレーンで現在の南西角地に移植されました。
同じ頃、工事クレーンが早朝に倒れ、歩道の自転車を壊す事故がありました。人への被害は無く大事には至りませんでしたが気に懸かる事故でした。「ひがしネット」の記事を紹介しておきます。
このビルの完成により一帯の雰囲気は大きく変わり、数軒あった一戸建ちの家は全く無くなり、ビジネスと文化施設の地域になりました。
私達家族は、父の内科小児科開院の為、昭和十五年に、鶴舞の板橋町からこの地へ転居、(葵町二十三番地)。今は(葵十七番地)「名古屋文化女子短大」北西角に住まい、十六年二月、妹出生。十二月八日、大東亜戦争勃発。昭和十七年四月、私は葵国民学校入学。その八月真夏の母の死。昭和十九年、父のフィリッピン出征。昭和二十年一月、空襲爆弾被害。三月十九日、大空襲で焼夷弾により一帯焼失、母の実家一宮へ避難転居。九月五日、父戦死(戦死公報は22年10月)という人生最大の波乱の地でした。
私の脳裏には、その出来事が、幻ではなく明瞭に記憶されています。記憶の原点、鶴舞から葵町での家族との名古屋中心部での生活体験のカルチャーショックの凝縮が私の人生のエネルギー源として、七十五年を支えて来ました。
当時の葵町に有り周囲の人々の歴史を見て来たのが、唯一、この「楠」だと言えます。
写真で別に紹介します。
「徳川園」へは、そこから布池の桜通りに戦前からある大洋商工ビルを眺めながら代官町・筒井町へ。
金曜日から始まっている「天王祭」の「湯取車」「神皇車」が徳川園へ向かう準備中。「神皇車」は本陣でお囃子出発報告中でした。見届けてから新出来町へ。「せき山」前で「西之切山車」が曳行中。私は先行して徳川園美術館前広場へ。
’05年の第一回から見ていますが総て晴天でした。第一回は五千人と聞きましたが溢れる人と日傘(洋傘)で見物難儀でしたが、二回目からは人も少し減って見易くなりました。第一回はしっかりビデオ撮影しましたが、その後撮影は、やめて離れて拝見しています。
新出来町の、前綱頭Oさんの姿が見えないので気になって山車の傍まで行ってみました。笛を吹いておられ安心しました。二十年の永い間、綱頭を勤められ「木遣り」は寂びの効いた小節の名調子で絶品です。一旦、現役引退という事でしたが、再び元気な姿で町内全員総参加の様子は羨ましい限りです。
「せき山」さんの姿もありました。百歳になられたかもしれませんが足取りも軽く歩いて行かれました。
私の年齢になると周囲で体調不良の方が多くなります。悪性の場合もよくあり気に懸かります。
私も老化により、聴力・視力は衰え体力は低下、この三月には「めまい」で暫く動けなくなりました。検査データは異常無しでしたが「メニエル症候群」です。私は薬の服用はゼロ、ビタミン剤・サプリメントも飲みません。脱水予防のスポーツドリンクは携帯します。
山車揃えは終了。十二時を過ぎ、以前は、そのまま大松通りの「三車出会い」を見て夕方まで居ましたが無理はせず帰りました。
かなり以前は十時の町内千秋楽まで付き合ったこともありましたが、それはもう出来ません。
夜は行くならば「単発」になりますが、何年か前「車道駅」の冷房でゾクッとしてから一か月、気管支炎の咳に悩まされ、残念ながらその後は行かなくなりました。気温差には高齢者でなくても対策に気を付けましょう。
筒井・出来町「天王祭」に出掛けるようになって十六年です。来年も予定をしておきます。
母の早世について、数年前の猛暑の時、TV気象番組で知った事を、これから夏に向かう今、参考になればと書きます。
実は、母が亡くなった昭和十七年は名古屋で気象観測が始まって以来の高温が記録され、8月1.2.3と連続39.9度が記録されました。母は、その翌4日夕方亡くなりました。私は枕元にいた誰かに末期の水をあげるように言われ口もとにあげた鮮明な記憶があります。七才の私は白の裃で喪主を勤めました。
母は転居に続く、父の「医院開院」。四人の育児で体力消耗に加えて、体温を遥かに超える猛暑。現在のようにエアコンも無く、七月末学校が夏休みで、知人の知多長浦の海岸のお宅へ数日、家族旅行に行き、帰ってから倒れました。
急激な体力消耗による心臓衰弱での急死でした。今では常識になった「熱中症」ですが、医者の家族が「何故」という、親族の父(私の記憶では心臓脚気という診断)への責めがあったと聞いていました。
母も三十才での無念の死ですが残された私達も生涯、父の戦死もあり測り知れぬ影響を受けました。
これから夏になります。無理をされないよう家族への心遣いを図り無事な日々を送られることを願います。
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