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らんだむコラム

七年振りの「さくら道270K」 5.25

結果は下記の通りでした。ちなみに、2001年の完走率も同じ位でした。
今回、エントリーされた方の30%位が、七年前に至る十回の経験者で上位完走の蒼々たる顔触れだったのですが、七年のブランクの間に、内科・外科の疾病などによる故障と加齢による体調不良を感じながらも参加された方がおられました。
主催世話人の海宝さんが、出走前の挨拶の中で「皆さんの中には、七年前までの経験で自信を持っておられることと思いますが、これはとんでもない思い違いです。270Kを48時間で走るのに過去の幻想を信じてはいけません。あくまでも無理な判断をされないようにお願いします」という警告がありました。
これは、かなり的中して早々とエントリーされたベテランの多くが、途中リタイアという結果が示されました。今年はさほど悪天候ではなく、一時雨がパラついた程度で、極端な気候変化もなく順調かと思われましたが甘くはなかったようです。特に、二日目は幻覚や身体の痛みなどで夢遊病者のような状態でのゴールもあったそうです。
心配された個人ボランティアによる私設エイドステーションは、予想を超えて多くの方がランナーに支援をされたという事でした。ランナーのマナーも非常に良く、決められた集合時間内にゴールの「ゆめのゆ」で労いの「打ち上げパーテイ」に揃われ、元気で再会をと約されたという事でした。
「完走記」あるいは「健闘記」が、ランナーのHPやブログで紹介されています。検索をされると沢山あります。今年のも出ています。了解が得られればリンクを考えています。
とにかく、無理は大病・大怪我の基です。ランナーでなくても難しい事ですが心掛けたいと思います。


「さくら道ウルトラ270K遠足(とおあし)終了 5.3

「さくら道ウルトラ270K遠足(とおあし)は、四月三十日・AM7.00スタート。五月二日AM7.00ゴールで終了致しました。
怪我・故障によるリタイアもありましたが、まだ事後処理の終了があり総括には到っていません。
私は、一宮裁判所前26.3Kで、三十日・AM9.00より正午前まで、実行委員会・ランナーズクラブサポーターの方と共にドリンク接待をしました。
七年振りの再会の、お馴染みランナーも100人近く参加なので握手と会話をしました。
七年前、その以前十年の月日が経っているのですから、当然、身体、生活環境も変化しています。
一例では、このマラソンで誕生したカップルが、お子さんが小学四年生と、もう一人の子供さんとの家族構成だと伺いました。上のお子さんが一才の頃、奥さんが車で、ベビーカーの子供さんと共に荘川桜までサポートの途中、裁判所前に来られ話をしました。それから十年近く経っています。結婚直前、カップルに、白鳥エイドで、コシタさんの「結婚おめでとう」というビデオインタビューがこの間のように思われます。そのビデオは私の「さくら道ビデオライブラリー」ににあります。
病気をされた方、大きな病気をされても以前より逞しくなった人、黒髪が白髪になった人、人それぞれです。
かくいう私も「佐藤桜」に関わってから二十六年、走る人ではないのに「ウルトラマラソン」に関わって十七年です。僅かな事ですが、これだけ継続して来れただけで有難いと思います。
まだ情報はありませんが何れお知らせ出来ると思います。


さくら道270Kウルトラ遠足

三十日、ゴールデンウイークの谷間ですが「さくら道270Kウルトラ遠足」が、名古屋市中川区小本の「JR東海バス」の、佐藤良二さん植樹第1号桜(かっては国鉄千種駅構内バス営業所に)をAM7.00スタート。251人のランナーが、金沢兼六園1500号を目指し、ゴールの「ゆめのゆ」へ、5月2日AM7.00までに到着します。
途中、名古屋駅から桜通り大津を左折、名古屋城外堀を周回、お城の西、御深井丸の1000号を遠望(見えませんが)かっての、国鉄バス名金線(さくら道)を走ります。
「ネイチャーラン」と同時に始まった「さくら道ウルトラマラソン270K(48時間)」は、第10回で300人を超え、運営の限界という事で終了しました。
それから7年が経過しました。その間も、ランナーズクラブや個人が、全コースあるいはパーツ設定をして走っていました。私は裁判所前で数回、見送りました。
「さくら道マラソン」を思う人の声は常に聞こえ「ネイチャーラン」は無理だが、もう一つの「さくら道」をという声に押されて、今回「さくら道270Kウルトラ遠足(とおあし)」として再開しました。実行委員会のへランナーの応募はあっという間に200人を超え251人が走ります。
計画が具体化してくると、以前とは大きく状況が変わっていて、以前のような各地の私設サポートは不明という事です。それでも「ランナーズクラブ」や、実行委員会応援のサポーターがサポートされます。かなり盛り上がってきています。
7年の空白は有りましたが、ランナー250人のランナーがコースに現れるのですから、忘れられていた以前のインパクトが蘇る期待はあります。これは終わってからの総括になるでしょう。
運営される実行委員会は大変なご苦労ですが順調にレースが進行されることを祈ります。
幸い天候の極端な変化は無いようですが「無理無く・事故無く」楽しく懇親会を迎えられますように願っています。


「さくら道国際ネイチャーラン」 4.19

レースは、十七日、名古屋城を、AM6.00スタート、十八日、PM6.00過ぎ(時間差スタートの為)108人中84人が36時間内にゴールしました。詳報はいずれ発表されます。
私は、今年も、一宮裁判所佐藤桜前、御旅所でランナーを激励しました。
お伝えしているように、第一回から十七回の今回まで続いています。何回目からかは憶えていませんが横断幕を掲げています。ランナーの皆さんが、ここでいつも記念撮影をされるようになりました。昨年からは、梯子掛けは危なくなったので、ポールを通して木に縛る付けることにしました。
デザインは、アクリル塗料で書いてあるので変色しないで長い間使っています。記念撮影ポイントになったので、私がやれなくなっても、マラソンレースが続く限り誰かに「引き継いで貰わなければいけないかな」と思っています。
今年は、NHKのビデオクルーが撮影に来ました。番組を作るようです。「愛知県内の佐藤桜はどこにありますか」と訊ねられたので、JR東海バス・稲沢赤池・一宮裁判所・木曽川キリオなどを話しました。ローカル放送かもしれませんがチェックします。何年か前に、やはりNHKで「270Kウルトラマラソン」の番組が放映されました。癌を克服したKさん、亡くなった奥さんへの想いを抱いてSさん、七十才過ぎのIさん夫妻がテーマでした。
三十日「さくら道270Kウルトラ遠足」が七年振りに開催されます。七年の間には、いつも出迎えて下さった尾藤てるさん(佐藤良二さんのお姉さん)の逝去、ベテランランナーの故障、佐藤桜の枯死など変化もありました。荘川桜の実生苗を育て全国に送っている道下さんは息子さんが引き継いでおられます。サポート体制も難しくなり運営も大変ですが、声援だけでも送り続けたいと思います。


さくら道ウルトラマラソン 4.14

今年で始まってから十七回になります。
「太平洋と日本海を桜でつなごう」という、佐藤良二さんの高邁な意思を伝えようと始められました。「白鳥町」が全面的な後援体制で各方面の支援を得て開催されてきましたが、町村合併で「郡上市」となり「白鳥町」独自という体制では運営出来なくなった事や、地元の、人・資材などの供給の困難などが現実となり、私的なサポートも減少しました。十七年ともなると最初の熱気が冷めて来た事も事実です。
「国際ネイチャーラン」は、主催者の完全サポートが原則でしたが、今は、ボランティアの協力も必要となり「ボランティア・エイドステーション」への、サポート・飲食資材を持って出掛けるメンバーがいます。十五年連続夫妻で完走され、昨年記録が途絶えた吉越夫妻が北海道から「美並エイド」のサポートに来られます。その他、ネイチャーランナーOBの方などがサポートをされます。ご苦労様です。

三十日からの「さくら道270Kウルトラ遠足」も、事情は同じで、私設エイドの情報は少なく、本来の原則通り「自給自足・自己管理」という意識が肝要になります。壮大な夢を求めて、48時間270Kを見事に無事完走されることを祈ります。


冬眠から目覚めて 4.7

正月過ぎからの低温で、身体が冬眠状態になってしまいました。名古屋までも一度しか行っていない状態でしたが、昨日は、今年の桜の盛りを見ておこうと、円頓寺を通って、外堀・名城公園・那古野神社・東照宮と三時間歩いてきました。
「円頓寺」では「円頓寺の映画つくり」のポスターが掲げてあった家で、植木に水をやっておられた「那古野一丁目町づくり研究会」の川原さんという方と長話になりました。
私の母が、幼時から嫁ぐまで住んだ、景雲橋(今は小公園)の実家へ、私も付いて行き、娯楽街として賑わう「円頓寺商店街」へ、たびたび行った思い出がありますから話し込んでしまいました。
「円頓寺・・」は、上記のHPがあり活動が伝えられています。
今日は一転、曇りで気温が下がっています。風で桜吹雪となり、次の週末まで持つかどうか危ぶまれます。それでも、今年は昨年のようなグズグズした咲き方でなく一斉に開花しましたから爽快です。


お正月から雪景色 1.14

それでも、三十五才から、毎朝六時三十分に参拝している、歩いて三分の「真清田神社御旅所(富士・諏訪・稲荷・三社)」と、境内の秋葉・津島社へは雪の元日も長靴で参拝。真清田神社へも初詣に行き「寅の土鈴」を買いました。
「熱田神宮」も、三ヶ日の内にと思っていましたが、行きそびれてしまったので、近く暖かい日に金山・熱田・覚王山と、一回りしようと思っています。
博物館で「開府四百年展」開催中ですが三月までですから、こちらは平日にゆっくり拝見します。
年末からお正月にかけて、例年通り、NHKでは「京都南座顔見世」「芸能桧舞台」「歌舞伎中継」があり全部は見れないので、多く録画しました。その前にも、仲代達也の能登文化村「マクベス(無名塾公演」が録ってあります。
劇団四季の浅利慶太演出の自由劇場「ひかりごけ」「幸福を売る男」も録画はしませんが見ました。
寒いので外歩き出来ず録画したものを次々見ていますが多種多様・玉石混交、様々です。
昨日は、休養宣言の小沢征璽の「ウイーンフィルニューイヤーコンサート」のVHSビデオを探して見直しました。CDが爆発的に売れた伝説の名演奏会でした。2002年とありますからもう8年前になります。もうあれから8年も前になったかと思いました。小沢氏は私と同い年ですが七十過ぎてから病気続きで身につまされます。
「伝統芸能」の方は次回にしますが、私の年齢になると苦難にも多く遭遇しましたが、多くの素晴らしい出会いや、見聞に接する事が出来ました。早世した両親はじめ心ならずも若くして亡くなった先人の方々に比して多くの感動を実感できた事を感謝すべきだと思います。


謹賀新年 1.1


明けましておめでとうございます。
二月三日、節分から七十四才のスタートです。
私は七十才に達すれば人生合格したと思います。
卒業は一応は字の如く「九」と「十」という事ですから、まだ遥か彼方です。
中退で構わないという覚悟は既に出来ています。
昨年は九十四才という「一宮市千秋加納馬場の笛の名人」と秋祭りに同行、逞しい気魄に学ぶ所がありました。
八十才を過ぎても、体力低下・怪我・病に罹りながらも、頑張っておられる、先輩・恩人を見習って身分相応に進もうと思います。

  
坂の上 見渡す視界は変われども わが原風景は 永遠に変わらじ  博夫

’09回顧 12.29
 今年も、後数日で終わります。
今年は、殆んどこれはという行動はしませんでした。
やらなかったという事ではなく、昨年まで永年に亙りライフワークとして来た色々な懸案が一通り達成された事が理由です。その点では満足しています。
継続する事は、まだまだ有るのですが、ビデオ撮影を取材として来た手段が、加齢による体力の減退は如何ともし難く、中途半端な事はしたくない性格なので、今年は纏まった記録がありません。
時代が大きく変化した事に不満はありません。私の脳裏にある原風景は殆んどが消滅、或いは大きく変化しました。
桑名・名古屋(鶴舞・葵・外堀)の少年期の生活拠点や、行動範囲であった、東区・中区・千種区の各場所の風景も、殆んどが姿を変え或いは消滅しました。
葵町に残るのは、今年末完成の「マザックアートプラザオフィスタワー」の一角に移植された大樹だけです。この樹は「徳川家御下屋敷」庭園にあった、稲荷山の森の中の一本が戦火に耐え生き残ったものです。私が家族と暮らした葵町の家は、このすぐ東隣で木の柵に囲まれた鬱蒼とした小山の中に稲荷社がありました。立ち入った記憶はありませんが少し怖い感じの場所でした。この一帯が「徳川家御下屋敷跡」だと知ったのは私が五十代以後の事です。その西の、小川町一帯は寺町で寺に付属する墓地が有りましたが、戦後復興の区画整理で平和公園に移動、錦通りの出現や桜通り拡張で「東区役所」や「尾張時計(現尾張精機)」が姿を消し、芸術創造センターや東生涯学習センターが出来ました。
年内には竣工するという「マザックアートプラザオフィスタワー」の敷地は、ずうと空地のままで駐車場になっていました。前記の大樹は、その真ん中辺りに有り、傍に一軒の家があり細い通路が通っていました。訳がありそうでしたが事情は知りません。この度の高層ビル建設により、家はともかく大樹がどうなるのか関心を持っていました。空襲の猛火にも耐え、生き残った樹に神秘性を感じられたのか、小枝を切り落とし幹は布で巻かれて移植が行われました。現在は錦通り沿いの西南角に根を下ろしています。ビル基礎工事が始まって直ぐ、朝、通勤時間にクレーンが横倒しになり歩道の塀と自転車を壊す事故がありました。幸い通行人に災害は無かったのですが移植された樹の「ご機嫌を損ねたのかな」と思える事故でした。
来年は「名古屋城開府四百年」という事です。三百年にも記念行事が賑やかに行われたと記録が伝えます。その後、百年の間に日本は未曾有の大きな転換に遭遇しました。
私は、その間の七十三年を生きて来ましたが、私が生まれたのは、昭和十一年二月三日、その月の二十六日に、二・二十六事件が発生、軍閥政治へと突き進み、日中戦争から太平洋戦争へ。二十年八月十五日の敗戦まで、国内外の戦時体制で、国、国民が激動に晒されました。惨憺たる年月を経て今日の日があります。
私は、自分の人生の大転換に、不満と疑問を多く持っていましたが、国の歴史、自分の歴史、などを目と耳と足で確かめ、自分史も完結しました。今後の追記は私では予想出来ません。神仏のみぞ知る事です。
他人様のお役に立つ事は出来ないでしょうが、せめて周囲に迷惑が掛からないように体調に留意し、僅かでも出来る事をしようとする思いは失わないように、日々を送りたいと思います。

来年の年賀状に書いた歌を記します。

  
坂の上 見渡す視界は変われども わが原風景は 永遠に変わらじ   博夫

一宮市丹陽町重吉八幡社「甘酒祭」 11.12
十月二十五日、八年振りに行って来ました。
「一宮歩こう会」は「甘酒祭」を第1回の候補にして、如何かと、中島前会長を訪ねたのですが「甘酒」を150人位多く作る準備が出来ないという事で、前記の「加納馬場獅子屋形」に変更になりました。
それ以前の七月頃に熱田宮流神楽の関係の方から 、私に尾張西部地域の神楽囃子についての訊ねがあったので中島前会長を訪ねて「甘酒祭」の、お囃子の曲名を聞いてきました。
「寄せ太鼓、道行は(善師野・ミコ崩し・歌道行・ゴゴショ(大口町の地名))」巫女囃子は(クサミコ・ハヤミコ・神楽)という事でした。
その時の話では「笛の吹き手が居ない、教えようと思っても、中島さんのようにはとても巧く吹けない、といわれるので困っている」という事でした。祭には何度か行きましたが中島さんが一人で道行囃子の笛を吹いていました。「転がし」の指使いがとても出来ないというのです。「下手に吹けといわれても出来んからなあ」と中島さんは言っておられました。
今回行ったら笛を五人の人が吹いていました。中島さんの姿はありませんでしたが、五人で吹く音は、さすがに違いました。道行が公民館から神社に到着するのは10分位ですが巧さはともかく良い音が響いていました。
道行が終わってから、笛を吹いた若い人が私の傍に居られたのでしばらく会話をしました。
「中島さんが笛の吹き手が居ないので困った事だと言っておられましたが・・。」と聞くと「三年前から月二回教えてもらって道行が出来るようになりました。四人の方は地元の方ですが私は頼まれた外部の者です」「どちらから・・」「犬山です」。
まだ二十代かと思われるその人は「黒塗総巻篠笛」を手にしていました。糸巻漆塗りの笛は良い音が出たでしょう。気がつかずビデオは断片だったので来年は記録しようと思います。
「巫女囃子」は、太鼓は宮太鼓と締太鼓を一人で打ちます。笛は、私が行くようになった時、既に篠笛は無く小学校の先生の採譜による「リコーダ」での演奏になっていました。歴史は古く市の指定無形文化財になっていますが「民俗芸能のつどい」には近年は参加していません。
既にお伝えしてありますが「桶の鳥居投げ」は、その後も中止されています。
「強飯」「甘酒」の振舞いは行われています。「甘酒」は、麹で熟成する昔ながらの本物で素朴な味わいがある懐かしいものです。
僅か一時間ほどの行事ですが地元の方の努力で今後も存続される事でしょう。

尚、当地区には宮流神楽が広く分布されている事がわかります。
「瀬部臼台囃子」「浅井黒岩山車囃子」などがそうです。又、機会を見てお伝えします。


「加納馬場獅子屋形草笛太鼓道行」 11.9
 
十二年前に、午前の巫女舞神事から午後の町内道行宮入りまで、五時間ビデオ撮影しました。それは既に紹介しています。笛の指導者、川口時宗さんは、その時八十二才でした。厳しい指導に子供達はピリピリしていましたが褒める事も欠かさずそれだけの結果は表れていました。
その後も、毎年、八月に市民会館で開催の「民俗芸能のつどい」で、数回お会いしていましたが現地へは行っていませんでした。

十月十八日「一宮歩こう会」が、108人、道行に随行する事になり、出発前に、由来、歴史や行事の苦労、裏話をスライド上映しながら私が解説することになりました。地元の人にと依頼したのですが多忙という事で私がやることになりました。
映像資料としては十二年前のビデオから静止画像を切り出し、それに、「熱田下之一色の神楽屋形」(四枚)と「形原獅子芝居」(五枚)を加え三十八枚をプロジェクト上映しながら解説しました。
以前は、道行は午後一時三十分に祭宿を出発だったのですが、いつからか一時出発になっていて、2K離れた県営グランドで、12.30分から30分解説後、午後一時出発、子獅子が集結する「法光寺」に「歩こう会」が来たときには町内道行は出発した後でした。追行し「津島社」「総代さん」などでお囃子披露をしながら「熱田神社」の参道への到着は三時、「歩こう会」はそれを待たずに出発点へ帰って行きました。
私は、参道から宮入り、境内お囃子奉納披露の終わりまで居ました。
ところで、川口時宗さんは、九十四才になられました。さすがに現役として法被での参加ではされませんでしたが、手押し車を押して集団に加わり完歩随行されました。車のポケットには笛が入っていました。私の姿を見て「あんた、あの時本当によく記録をして下さった。あのビデオは練習の時に教材として大きな役目を果たしてくれとる。なかなか良い後継指導者がいなくて、笛の中村や太鼓の柴田も死んで居なくなってしまった。次にはもう会えんかも知れんなあ」と言われ瞼が潤んでいました。
「笛がそこにありますね」というと、演奏中のお囃子に合わせて吹かれましたが全然衰えていません。楽々、力強い音色と息遣いは見事なものでした。
肩を抱き握手をしましたが握力は、力強くさすが、以前聞いていた軍隊帰りの気魄はまだまだ充分でした。
男子の太鼓は大丈夫ですが、女子の笛は十人程で以前の半分にも満たず音色があまり聞こえませんでした。各地のお祭では、小学校四年生からが、お囃子練習参加という事で来ましたが、少子化で人数が確保出来ません。青年・大人の参加が無ければ存続が危ういでしょう。
次の日曜日、丹陽町の「甘酒祭」では、笛の名手、中島元保存会長(80才過ぎ)が存続の危機を訴え後進の指導により、五人の笛が道行囃子を演奏しました。
続いてお伝えします。



十月は多忙でした。 11.6

十月一日から我が家は「耐震補強工事」が始まり二十一日に完了しました。準備と後片付けで、前後一ヶ月程ガタガタしました。家具の移動、居場所の移動やらで落ち着きませんでしたが、やっと一段落という所です。その間、パソコンも移動、見るだけで何も作業は出来ませんでした。
とは言いながら、日曜日はあちこちへ出掛けていました。
「名古屋まつり」は「山車揃」と「神楽揃」は一通り見ました。浜松から里帰りした「旧二福神車」も見ましたが、お囃子実演は時間の谷間で聞けませんでした。
「神楽揃」は、その後十八日開催の、一宮市千秋加納馬場の「獅子屋形」へ「一宮歩こう会」が「知らない町の祭りを見に行こうシリーズ」第一回として企画、私が十二年前の取材の解説を依頼され再観察に行きました。下之一色地区から八台出ましたが、獅子頭が載っていたのは二台でした。金箔の瓔珞がまばゆい豪華な神楽屋形は豪華な事で知られる名古屋の仏壇屋さんが技巧を凝らして造った物だそうです。熱田・弥富・蟹江などに数多く存在します。笛・太鼓のお囃子も演奏用では「曲打ち」を始め、多種・多様な展開があります。道行は竹の長撥で、一人で宮太鼓・締め太鼓を打ちます。
加納馬場は二人で打ち撥は短いものを使います。
かって各地に存在した「獅子芝居(悪魔祓いも行った)」は、三河も含め各地に数多くの組織(六人位の一座)が各地のお祭りなどで興行しました。今は消滅したようです。
形態は違いますが「伊勢大神楽」は、今もお正月には各家の厄払いと神社境内、門口で曲技をしながら旅をします。

ところで多忙な中、あちこち出掛けた理由は、二十五日に行われた一宮市丹陽町「甘酒祭」も加納馬場と同じようにお囃子の「笛」の吹き手が、少子高齢化で衰退或いは消滅の危機だという事なので状況を見に行ったのです。
そのレポートは続いてお伝えします。


熱田神宮遷座祭 10.11

「創祀千九百年記念 造営竣工遷座祭」が、平成二十一年十月十日夜、斉行されました。
十一日から十八日まで、奉祝祭の奉納行事が行われています。
初日は、熱田神宮の御神宝「草薙神剣」所縁の益田市の石見神楽「八岐大蛇」が「名妓連」のお練りに続いて奉納されました。
午後は、近郊の「まきわら神輿」奉納。祈祷殿では「名妓連」の舞踊が奉納されました。
初めに、ご祝儀の「四季三番叟」、熱田所縁の「名古屋甚句」、舞妓による「鯱鉾」、納めは「伊勢音頭総踊り」でした。
「四季三番叟」は、男女(男役は前割髪)で、女舞の後、三宝の鈴を手に取り、男役が「鈴の段」を舞います。正面には、鳴り物(締太鼓・大鼓・鼓三人・笛)が居並び、上手に地方(唄・三味線)という豪華な顔触れです。
他では見ることが出来ない、名物「名妓連の名古屋甚句」は文句の付けられない珠玉の絶品、しかも生演奏です。
私はもう見る機会は二度と無いでしょう。
「名妓連」舞妓入門の第一関門「見たか聞いたか名古屋の城の・・・」の唄に乗って着物を崩さず見事に鯱鉾立ち。
総踊りは「伊勢音頭」陽気に囃して、終わりは首を傾げて「おめでとう-------」とご愛嬌。
芸者さん独特の雰囲気が展開されました。
その後は、一同揃って「本殿特別参拝」。今年舞妓入門の「ゆき乃さん」は、CBC・東海TVなどのインタビューに囲まれていました。
その後は「太鼓」や「手筒花火」の奉納でしたが、まだ時間があり、私は引き揚げました。
「名妓連」奉納は、頭越しでしたがビデオ撮影してきました。
静止画像アップ致しました。


まだ終らない  9.6

七十才過ぎて、永年続けて来た「祭り」などの伝統芸能のビデオ取材も納得の行く完成に達したので昨年で取材は終えました。ビデオも、デジカメも、携帯電話も、大勢の人が持つようになり取材制限、プライバシー問題もあり「YouTube」のような投稿が普及して問題も発生します。
ビデオ取材は連続した体力が要り体力の限界も大いに感じる年齢です。撮影後の編集も集中力が要り気力の継続が出来なくなりました。
もう、このHPも取材が乏しくなったので終了にしようと思いましたが、ここに来て取材してきた過去の資料の問い合わせがあります。
「一宮歩こう会」が、地域の伝統芸能を訪ねるシリーズを始めるにあたり資料の訊ねがありました。各地のビデオ取材のDVDが作ってあったので提供しました。
真清田神社の「桃花祭」の祭車(東西)の行事復活の資料探索の作業も続いています。
「さくら道ウルトラマラソン270K遠足」が、来年、七年振りに復活する事になりました。佐藤桜の近くに住みランナーを毎年見送り続けて十七年、消えた桜、移植された桜、ランナーや関係者の高齢化、故障などの状況変化もありますが、これも巡り合わせでしょう。
体力は衰えて行きますが蓄積されている永年の資料が役立つ事もあるのでHP閉鎖はしないで修正更新は随時して行きます。


唱歌(しょうが) 7.4


唱歌(しょうが)とは、三味線や箏などの邦楽器の音やリズムを習得するために口ずさむ、意味のない歌詞の歌です。
笛・太鼓では昔から「ピーヒャラドンドン」がよく知られます。三味線は「チントンシャン」が知られますが、和事(踊りなどの所作も含む)の、お稽古では「口三味線」が必須です。師匠は踊りの教授では、所作と共に、唄と、口三味線も歌わなければなりません。私の祖母は常磐津の家元でしたが「唄(台詞も)・三味線」と共に、微妙な「間(ま)」の習得の為には「舞踊」も必要と思い、「師範格」として弟子の指導をしました。昭和三年に、五十五才で亡くなったので、私は、その姿は見ていませんが大変だったろうと思います。私も和事のお稽古で師匠の指導が大変な事を目の当たりにしました。
現代のように記録する手段も無く、総て「口伝(唱歌)」と「手取り足取り」での伝承です。
西洋音楽のドレミでは表現仕切れない「和事」の、お稽古は今も変わりません。
「楽譜」らしきものは、長唄・義太夫・常磐津・清元などの「語り物」は「お経・声明」のように文に添えられた符号で習得します。ごく最近に消滅したかと思う「節談説法」は民俗芸能の基と言われ「盆踊り」のある「口説き」にその流れがあります。
和楽器は、長唄囃子方で名人と言われた「九世望月太左衛門(昭和二十一年没、四十五才)」が「望月流長唄囃子手附」という長唄の「鼓・大鼓・締太鼓・太鼓・掛け声・三味線・長唄」の為の楽譜本を、写真や、
赤○(鼓)黒△(大鼓)緑/(締太鼓)で表した、初心者にも判り易い画期的な稽古本を昭和五年に発行しました。
九世は、人間国宝「四世・望月朴清(平成十九年舞台出演中病没七十三才)」「堅田喜三久」兄弟の父です。和楽器を初め日本の伝統芸能の真髄を極める名人は数多く現在も伝統は引き継がれています。
明治以降の西洋音楽の教育界への普及で日本の伝統芸能は個人の趣味趣向という小数社会になっているのが現状ですが誇りある伝統文化として伝承し易い環境を作る事を考える時が来ています。
和楽器に接触できる機会を作る事が必要です。
私は「名古屋能楽堂」で、舞台歩行や、鼓を打つ「体験学習(ワークショップ)」を体験しましたが貴重な生の感触でした。伝統行事の、継続・復活で地域に伝統ある日本文化がしっかり根付く事が必要です。


今や昔の物語となりぬ 4.20

「岐阜道三まつり」
四日は、まだ寒々した空模様で市政百二十周年記念「岐阜道三まつり」若宮通りの山車揃え(三輌、と一輌の踊り山車)。昨年夏の「萬屋仁兵衛展」で見た「安宅山車人形」を見たくて出掛けました。
十一時過ぎには暗い空からポツポツと雨模様。からくりは「清影車」の、猩々の鬼女面被りを見ただけでしたが、前座の「岐阜芸妓連」の十人のお姐さんの「手古舞」という予想外の出し物が大収穫でした。
報道では例年通りの「伊奈波神社宵宮」が、神輿・花火と共に決行されたそうです。

「今年の桜」
五日頃から急に温度が急上昇、ぐずぐずしていた桜がいきなりの高温で一挙に開花。その後、見る間に色褪せてしまいました。綺麗な桜色は一瞬にしてぼやけた色になってしまいました。
九日に、名古屋の「水道みち桜並木」から、千種公園、覚王山、一帯の各所の桜を見ましたが写真にはなりませんでした。名古屋城、東照宮へ立ち寄るのもやめました。
「ぱっと咲き、ぱっと散る」潔さはなく、すっきりしない今年の桜でした。

「振甫プール」
名古屋市内最古の市営プールで戦後は公認水泳競技会で沸き返ったプールでした。
私も幼時行った記憶があります。当時としては珍しいシャワーもあり高飛び込み台やスタンド付きの50メートルコースでは多くの記録が生まれました。
戦後に、一度何かで行ったような記憶がありますが数十年行っていませんでした。二年ほど前に、すぐ近くを通りました。千種生涯学習センターの建物があり「振甫プール前」のバス停があります。
九日、「水道みち」中間の仲田にお住まいの琵琶演奏家の北川さんを訪ねてから「水道みち桜並木」を東の終端まで歩きました。ここは以前は「東山給水塔」に水道管が繋がっていたところです。そこが振甫町です。「あの大きな競泳施設はどこに・・」と角を曲がると、そこにあったのは25メートルと幼児用プール、脱衣施設があるのみでした。周囲に市営住宅などがあり「生涯学習センター」がかってのメイン施設だったと思います。まさに「兵どもが夢の跡」でした。
いかに素晴らしい場所であったかは「中日Web」で御覧下さい。

「揚揮荘」
たびたび訪ねていますが、現在は月曜以外は北庭は開放されています。伴華楼などの建物は内部は特定日以外は非公開です。マンション建設以前の公開に偶然出会い、南北庭、諸建物公開の機会に恵まれたのはもう永遠にない幸運でした。名古屋市管理となり「揚揮荘の会」の方達が整備をされています。面積は小さくなりましたが行き届いた整備が進んでいます。


小津安二郎の世界へ 3.19

私のハンドルネームは「きさらぎ」ですが、これは誕生日が二月だからです。七十三才になりました。

  願わくは 花のもとにて 春死なむ この 如月の望月の頃 (西行法師)

西行は「叶えられるならば私は如月の満月の夜に死ぬ事が望みだ」という願いで、それは叶えられました。七十三才であったという事です。新暦では今年は三月十二日でした。

私は、特に大きな病歴はありませんが、強靭な体力も無く、気力もパワフルではないので七十才まで生きれば上出来だと五十才頃から思い「自分史」などの整理を始めて来ました。生命保険契約の切れる七十才も通過。西行法師の「願わくは・・」の年も通過しました。想定外の日々になりました。
「自分史」も一応完結しエピローグを書くのみです。
体力(バッテリ−)も低下し大体6時間(正午頃)で切れる事がわかりました。再充電(瞑想・居眠り)しなければ次の行動に移れません。「この体力で、さて、これからどうしようか」と考えていましたが、ふと「小津安二郎」の映画のテンポを暮らしにと思い当たりました。
「笠智衆さん」の雰囲気に達するのは遥か先ですが生きる目標にはなります。
そう思ったら、何か「気が楽」になりました。もともと気忙しいことは嫌いで、運転免許も返上しました。
幸い「歩く事」は全く不自由無いし、もう山や遠方へは行けませんが、利便で安全な「カルチャーウォーク(街歩き)」が楽しみなのでビデオ・カメラ持参で出掛けます。
過去の資料が沢山ありますが、その整理が一思案です。


2008総括 311


2008年(平成二十年)に拝見・拝聴した行事あれこれです。
最近は、以前ほど出掛けなくなったと思いますが振り返るとこんなに行っています。
「安・近・短」になり、長時間完全取材はありません。体力の事もありますが一通り取材を終えたものもあります。
平日の行事(特に祭礼)は氏子はじめ一般募集の神輿担ぎ・見物衆の激減で盛り上がりません。伝統を大切にする神社関係者の気持ちも分かりますが現実は厳しい姿になっています。衰退或いは消滅に繋がります。伝統(新旧暦など)そのものが非常に曖昧な解釈によるものですからこだわる事も無いと私は思います。

「ラッキーサウンドブラスコンサート(2.10)」「犬山祭(4)」「さくら道国際ネイチャーラン(4.18)」「一宮ウインドアンサンブル演奏会(5.4)」「きそがわポップスバンド演奏会(3.23)」「きそがわKIDS・10thコンサート(3.30)」「城山かいわい・やまのて音楽祭(3.20)」「八坂提灯祭(5.17)」「神皇社御社参(5.25)」「徳川園山車総揃え(6.8)」「筒井・出来町天王祭(6.8)」「那古野神社宵祭(7.15)」「萬屋仁兵衛展・名都美術館(7.27)」「久石譲・芸術劇場コンサート(10.22)」「ど真ん中祭り(8.31)」「福沢桃介・都市センター資料展示(9)」「花鳥風月(古川術館)(9.15)」「象列車がやってきた・戦没者追悼行事(9.27)」「鉄道の日、都市センター資料展示(10.4)」「鶴舞公園ムーンライトコンサート(10.4)」「一宮こども音楽祭・ライオンズクラブ50th記念(1012)」「文化のみち(11.3)」「大杉小学校学芸会・走れメロス(11.15)」「ミュージカル演劇・大江河岸・宮田用水通水四百年記念(11.15)」「一宮合唱祭(11.30)」「きそがわジョイントコンサート(12.7)」「天才からくり師の世界・松坂屋(12.30)」

こう見ると和洋ごちゃまぜです。私は和が主体なのですが、残念ながら和の世界は一部の特定な人だけの少数社会になっているのが現状です。ここにも現実社会との乖離があります。組織の運営も難しく経費のコストもそれだけ大きくなり、ますます厳しくなるのが現状です。国費による国立劇場での生活保障による研修が衰退を食い止めているのがせめてもの姿です。

上記行事それぞれについての感想はHPでは紹介し切れないのと、カメラマンの増加による取材制限(撮影禁止)が多くなった事、私の限界などがあり機会を見ては断片を伝える事に致します。


日本の絵葉書1900〜1945展

名古屋市博物館で、3.1まで開催されています。
収蔵の13.000点余から名古屋で発行発売された記念、或いは記録の数々です。
展示の内、400点の図版目録を購入してきました。大型TVでスライドショーを上映していますが一通り見るのに三十分以上掛かります。私は見て来ました。葉書をすべてジックリ見るのは何度も行かなければ無理です。スライドショーを見てから展示を見たほうが良いと思います。
葉書複製を1枚50円で発売していますが全部ではないので私の希望は1枚だったので目録にしました。私の希望は「鶴舞公園のSL」「覚王山放生池」「外堀通」ですがこれは自分史の資料です。
近代的な華やかな光景に目を奪われがちですが「名古屋港」の荷役や「枇杷島蔬菜市場」の大八車での運搬、人々の服装など、厳しい労働の姿や、軍国主義「戦意高揚」のプロパガンダ(宣伝工作)はその後に来た焦土と重ねて見なければいけません。広島の「原爆投下」の葉書も展示されています。
「関東大震災」「桜島大噴火」もあります。
華やかな数々の「博覧会」戦勝の「大行列」等々。
僅か百年以前の姿を思い起こす機会になります。一覧をお勧めします。


普通でいい 1.1

当たり前の事ですが「普通」でいいのです。
「普通」でない事が多過ぎました。異常な、人格無視、人間を物扱いしました。
「急げ。安くやれ。」効率を高める事だけを最重点にして走り回り、その結果はヒステリー状態。
暴力、或いは極端な心身衰弱でした。命懸けで得た収入は誇大なコマーシャルに無駄な消費を煽られ資産ゼロ、又はローンの負債で破産。アメリカの「サブプライムローン」から発した経済恐慌は過酷ではありますが教訓になりました。「アメリカンドリーム」は過去の幻となりました。華やかな外観には捉われず本来の人間の内面を考え精神の高揚を図るべきです。
戦後二世代の考えを修正するには暫く時間ががかかるでしょう。ゆっくりやればいいのです。
あまりにも「急げ急げ、世の中の流れに遅れるな」という性急な流れが考える余裕を与えませんでした。動きは遅くても力を付けなくてはいけません。
まず身辺整理をしましょう。身の回りをシンプルにして、何もしない「黙想」の時間を三十分でも持ちましょう。わざわざ「座禅」などしなくても、どこででも「ぼんやり」すればいいのです。
歩くときでさえ「ヘッドフォン」で何か聞いている人がいますが、歩く時こそ他力に惑わされない「自力無念」になれます。ハードにコントロールされず、自分の足で歩く事は自己管理の「個」の世界です。
丑の新年にあたり私の考えを述べました。


年の終わりに 12.29

自分が年を取るのに従い周囲の同年代には病気の人が続出します。
自らも健全ではないが体調は確実に変わってきています。一つには長時間(それがせいぜい一時間)同じ姿勢をしているといわゆる「エコノミークラス症候群」といわれるような体調不安定になります。飛行機に乗って「エコノミー症候群」になった事は無いのですがこういう事かなと思います。
音楽会、観劇、ドライブいずれも同じです。軽く動き回れば治ります。循環不良になるんでしょう。
こんな事で済んでいるのはまだ幸いです。
周囲の六十才過ぎた人達が、かなりの重症発生で大事になっています。手術に至る人もあれば原因不詳で意味不明な病名で苦しんでいる人もいます。仕事の長期の肉体精神のストレス、過激なスポーツによる心身ストレスなど原因が根深いので回復が難しいのです。振り返れば警告のサインも有ったのでしょうが、まだまだ老いずという心身への過信がダメージを与えます。
「老いと病」が身近に迫ります。
過ぎ行く年の内に、先人は去り、或いは倒れていきます。
おのれの背を伸ばし闊達に歩ける事を感謝しなければいけません。

願わくは
「老い病い 連れ立ち歩む その先は 功徳の道の 平らかであれ」  博夫


すけっち回想 11.1

現在の「らんだむコラム」のスタートは1999年8月でした。
十年目になりました。十年前はインターネットも普及し始めたばかりで掲示板も自分で設定しなければならない状態でADSLもありませんでした。ブログなどというものも勿論用語すらありません。
一つの時代が終わり環境は全く変わりました。ハードウェアも進化しメディアも一変、ハード(カメラ)が故障すると対応が出来ないという矛盾も起こります。価格の低下は有り難いのですが対応するメディアに変換していかないと再生不能のデータ(画像等々)が残るのは困ります。
TVは2010年には完全デジタル移行ですがコンピューターや周辺機器は既にデジタル化しています。
ビデオカメラはテープ対応機は店頭にありません。カタログに1機種ユーザー対応として残されているだけです。今更、再購入するメリットは無く切り捨てられていきます。
今や情報機器に限らず道具は入手したら使いまくらなければ無用の物になります。使いこなす能力も無いのに必要以上に高機能(高価格)な物を購入するのは無駄遣いです。使いこなせる物を短サイクルで消耗品として使い切る事です。使いまくって壊れれば後悔も無く「よく働いてくれた」と労わりの気持ちになります。物とはいえ「寿命を全うする」事が宗教でいう「成仏」です。
そういう気持ちで物を取り扱いたいと思います。
当HPもきちんと整理して「全う」する準備をしなければと思います。


「からくり人形はかたる W」


「名都美術館」を訪ねるの初めてです。上前津に有った頃から知っていましたが画廊は入りにくいものです。大きな総合展は混雑もあり草臥れます。古川美術館やメナード美術館などで好みの催しが程よく楽しめます。
十時開館に合わせて五分前に行きましたが、既に数十人が並び、入館と共に「からくり実演」の辺りは通行も困難な状態。「これは見れない」と、早々と諦めて二階から上の人形展示スペースへ。前述の六十体程の人形、いつも、お祭りでは山車の上で演技を見せる、お馴染が間近に見られ大将人形などはかなり大きなものだと実感できます。「からくり実演」あまりの混雑に、予定の第一回十一時は十五分早く始りました。
「三番叟」は、既に二回拝見しているので見るのは諦め、聞こえて来る、挨拶や解説を廊下の奥のビデオルームで耳を澄ます。笛の音が響き「山車楫方 二番永田組」の木遣りが聞こえる。矢沢組頭の先導で快い男声(コーラス)が場を盛り上げます。「木遣り」は、小節回しに唄い手自らが酔えるほどになるには年期が要ります。数十年勤められた先代から引き継がれた若い組頭には御苦労が多いと察しますが見事に大役を果たしておられます。
二代目萬屋仁兵衛さんは、新出来町出身で、矢沢組頭さんとは、同町内同い年の幼馴染だと聞き驚きました。思わぬ縁(えにし)があるものです。
お馴染みのお囃子に乗って「三番叟」が終わり、いよいよ「牛若・弁慶」のからくり「何とか覗けないか」と廊下の最後尾から見れば遠いながらも良く見えます。全部拝見出来ました。お囃子はこの演目の為の創作という事ですが、残念ながら囃子方の姿は見えませんでした。
いよいよ「からくり」の上演。弁慶は初めは座っている状態で上半身が見えます。牛若が乱杭に片足で乗り左上方へ一歩一歩登って行きます。弁慶の後ろに達したとき弁慶が立ち上がります。この大きさには「オーッ」と驚きます。手にした大長刀を上下に振り翳します。
「その時、牛若少しも恐れず」 
腰を落とした弁慶の頭上にヒラリと乗ります。弁慶、再び立ち上がり、前後左右に動き回り大長刀を振り回しますが、牛若、散々、弁慶を扇を翳して翻弄し、傍らの木の枝に移ります。
弁慶、恐れ入り従へば一幕が終わるという筋書きが演じられ「萬屋ァー」「お見事」の「大向こう」と、拍手大喝采でした。
隣に居合わせた方に「この人形は個人蔵となってますがどういう方なんですかね」と聞いた所、「人形製作中にはご病気で、完成をした人形に手を触れられ大変喜ばれた後、亡くなられた」という事ですがそれ以上はわかりません。話とはいえ色々な人生ドラマが聞こえてきます。
外へ出たら、まだ十二時前でしたが、午後二時からの席確保で多くの人が並んでいて、もう一度という人もいました。
何時の日か、又拝見できる機会を待ちたいと思います。
「写真は パンフレットより」


「からくり人形はかたる V」

二代目萬屋仁兵衛さんについては「八代目玉屋庄兵衛(初代萬屋仁兵衛)」さんが健在で活躍の姿を注目していましたが病の為若くして夭折されました。奥様との闘病の様子や先代の経済困難など御苦労を知っています。
九代目に「玉屋」を託し自らは「萬屋」を興されました。一代限りと思われたかと思いますが、現萬屋さんが、縁あって弟子入りされ二代目を継がれたことは誠に素晴らしい出会いを得られたと思います。平成元年二十六才の時、弟子入りされたのですが、平成九年、NHK「おしゃべりランチ」に萬屋文造として出演された時の録画を保存しています。
平成十二年に「二代目萬屋仁兵衛」を襲名、益々の大活躍はご承知のとおりです。
七月一日、NHK「さらさらサラダ」にも出演されましたので録画させて頂きました。
今回の展示は常設展示は無く、総て人形により六十体程が披露され充実した解説もあり目を奪われます。撮影は禁止なので脳裏に写してきました。
さて、萬屋さんによる「からくり人形披露」は、私は二度拝見しています。

その時のレポをご紹介します。
「からくり人形と木遣り」 平成六年十一月十八日
名古屋市古川美術館で開催された「人形と木遣りの華麗なる競演」を拝見してきました。
これれは「からくり人形八代目玉屋庄兵衛(初代萬屋仁兵衛)の世界」が為三郎記念館で開催されたイベントとして行われました。三日と十八日に各二回行われました。一回目は為三郎記念館庭園・二回目は古川美術館一階ロビーで行われました。
開演時間にはロビーも階段も二階からも一杯の人になりました。
遠く外から、だんだん近付いて来る笛の音と木遣りの声。永田組二番法被姿の一行が現われ、からくり人形の前に整列、四代目矢沢組頭の先導で声高らかに唄い上げる素晴らしい趣向は見事でした。
二代目萬屋仁兵衛氏製作のからくり人形「三番叟」が紙吹雪を撒き散らし「お神輿」に変わる場面では見物衆から「オーッ」と感嘆の声が上がりました。
特別展「女性画家〜日本画に見る美の開花」は、上村松園、小倉遊亀・片岡球子はじめ著名な画家の名作は見応えが充分でした。
「為三郎記念館」では各座敷に八代目の「からくり人形」が展示、「茶運び人形」の実演もあり盛況でした。
私は「為三郎記念館(為春亭)」へは「ジュデイオング版画展」の時に行き、お庭も拝見しましたが今回は、尚隅々まで拝見してきました。
当日は撮影禁止なので画像は有りませんが、平成十五年、JR高島屋初売りのオープニング行事での「三番叟・お神輿」の画像が有りますのでご紹介します。
今回の三日間の実演では「三番叟」が披露されています。是非お出掛け下さい。
前書きが長くなっていますが、感動の薄れないうちに、いよいよ書くことにします。(続く)


「からくり人形はかたる U」


私は、幼時、名古屋市中心部で暮らしましたが、東山動稙物園が開園したのが私が生まれた頃で市電も開通したばかり、覚王山から東は丘陵地で、別荘、企業社宅以外は無い風景でした。そういう訳で地下鉄が「藤が丘」まで開通しても「星が丘」から向こうは車以外では行く用もありませんでした。
今回、初めて「藤が丘」迄行き、リニアにも初めて乗りました。縦横に走る広い道路や高架の高速道路、都市計画の儘ならない旧市内とは全く違う街並みには驚きます。
然し、こういう街の歴史は今から作られていくのでしょう。名古屋開府の四百年前はニュータウンであった訳で、名古屋城下の碁盤町割りにご存知「清須越し」を基礎に歴代藩主それぞれの特徴ある政策で発展がなされて来ました。
今一度歴史を振り返る事も必要でしょう。明治維新による徳川幕府消滅で歴史の断絶があり、その上太平洋戦争の大空襲で歴史資産までも失い、住まいを焼かれ、住人は私も含め止む無く転居してしまいました。
「名古屋三大祭」は、一時は消滅状態となりました。徳川家康を祭神とする「東照宮」は明治維新後も、社殿(昭和十年国宝指定)は、氏子町内山車九輌と共に残り祭礼は継続されましたが空襲被災で総てを失いビジネス街と変貌した町内に居住される方達の姿は僅かしか見られません。昭和初期の祭礼の溢れる人波は今や幻の世界です。
「からくり人形はかたる」展示には各地の多くの人形が披露されています。
名古屋に現存する人形は町内祭礼や「名古屋まつり」の山車総揃えで見ることは出来ますが、美濃の山車人形は初めて見ました。岐阜伊奈波神社に山車が有る事は知りませんでした。
「岐阜まつり」で、マスコミがいつも伝えるのは信長行列ばかりで地域の祭りはローカルでしか伝えません。
「安宅」の人形には惹かれました。私は「勧進帳」マニアで歌舞伎の放送は悉く見るようにしています。能「安宅」は、なかなか機会が無かったのですが、今年やっと梅若六郎師(弁慶)宝正閑(富樫某)強力(山本東次郎)一噌仙幸(笛)横山晴明(小鼓)亀井忠雄(大鼓)他、子方、郎党、後見、地謡など総勢三十人近い横浜能楽堂の上演を録画できました。出演者は当代最高の顔触れだと思います。
昨年夏、名古屋能楽堂で「伊勢門水展」があり、二度行きましたが、その内にも「安宅」の画がありました。能「安宅」は限られた能舞台の空間に三十人程がぎっしり居並ぶ大作で空間の動きにも緊張感が漲ります。
「伊奈波神社」の山車は宵祭との事ですから来春には行こうと思います。
今回の展示は萬屋さんが修理・新作などに関わられた各地の人形の展示です。
「若宮祭礼図」の展示もあります。人形実演は八月十日の「三番叟」「肩車唐子遊び」があります。
さて、二十七日の「牛若丸・弁慶」の度肝を抜かれた見聞記に続きます。(続く)


「からくり人形はかたる T」 7.27

(特別展)木偶師二代目 萬屋仁兵衛 平成20年7月1日〜8月10日 名都美術館が開催中です。
愛知県愛知郡長久手町杁ヶ池 地下鉄「藤が丘」より、リニモ東部丘陵線「杁ヶ池公園駅」下車徒歩2分です。
名都美術館は昭和62年名古屋市中区上前津のビル内に開館され、平成四年、現在地に新設開館されました。詳細は存じませんが財団法人 林美術財団として、主に日本画の巨匠の名品が所蔵されているということです。
日本画の美しさは、何といっても「白」です。これは胡粉が用いられます。胡粉は蛤や牡蠣の殻を細かく砕いて精製し、精度は号数で表し、膠(にかわ)水で練り塗布します。
私は入門程度の経験をし、作品も数点ありますが、数十年経っても胡粉の白さは全く褪せません。
日本画の展覧会は良く出掛けますが「白」が作品の命です。
人形の頭には胡粉が塗られます。濃度・気温・湿度など、気候や、頭の木質なども微妙な影響があると思われ木偶師の技量が問われると思います。萬屋さんのTV対談でもそれを伺いました。
膠は土鍋で煮て作り、濃度、保存時間など短時間での集中力が迫られ私は続けることを断念しました。材料はそのまま持っていますが・・。
個人的には経験から「日本画」に惹かれ洋画はあまり見ません。日本の文化を表現するには油絵より天然素材の日本画が適していると思います。
一宮市「妙興寺」の仏殿に国内最大といわれる龍の天井画が油絵で描かれています。六月から公開中で二度じっくり見てきましたが、私は北斎の龍虎図のように微細で迫力がある描き方が遥かに良いと思います。

さて、「からくり人形はかたる」レポート。
七月二十七日は「三番叟」「橋弁慶」のからくり実演がありました。
一週間以上続く36度以上の猛暑の中、招待頂いた絶好の機会を逃すまいと八時三十分から出掛けました。(続く)


名古屋祭の新しい動き

五月二十五日「筒井町湯取車」が名古屋開府三百年の明治四十三年(1910)以来、九十八年振りに「東照宮御社参曳行」という行事が行われました。
「湯取車(万治元年(1658)製作」」は「東照宮祭」に旧桑名町で使われていたものが天保二年(1831)に情妙寺前(現筒井町四)に譲られた、唯一現存する東照宮祭礼車です。
その時、新造された「湯取車」を含む九輌の山車は昭和二十年の大空襲で名古屋城・城下町一帯が焦土となり、総てを失いました。「那古野祭」の、茶屋町壇尻の木組が焼失を免れ、現在は試楽祭に境内で点灯されます。
「御社参曳行」は、天候不良で二時間遅れて、九時三十分、筒井町を出発、十一時三十分「東照宮」の鳥居前に到着しました。「御社参挨拶・からくり奉納」の後、午後からは昭和三十五年以来という本町通りを曳行、「少名彦神社」から七間町通りを経て「両口屋是清」「料亭河文」での「からくり披露」そして、百七十七年振りの故郷「桑名町」に里帰り「セントラルホテル前」では大勢の人の歓迎を受けました。その後、那古野神社へ参拝「からくり奉納」筒井町への帰途に向かいました。途中「文化の道二葉館」に立ち寄り、初めての光景を披露、筒井町に帰着しました。
私は、その日は久屋大通り北で待機、曳行に随行し「那古野神社」で見送りました。そこから、帰着は二時間になり夜になるので断念しました。
この行事には「東照宮祭」に関わる、名古屋中心部の各祭関係者が協議の場を作り、それぞれの立場を超えて参加する事とし共通の法被などを調達、文字通りの総動員体制での行事となりました。
今までは他地域には立ち入らない不文律のようなものがあったのですが、戦争で失われ数少なくなり存続も危ぶまれた貴重な伝統文化を守る為には、祭礼当事者、氏子、神社が交流し協調した体制を作るべきという声が具体化したものです。

六月八日には「徳川園山車揃え」が行われました。今年で第四回になります。六月第一土日は「筒井・出来町天王祭」が行われますが、その一環にこの行事が加えられました。
天候に恵まれ、今年も豪華絢爛な絵巻物が展開されました。私も第一回から欠かさず拝見。
各町の行事も十二年前から拝見しています。同日「西枇杷島祭」が行われます。こちらも名古屋型山車が五輌、美濃路に展開されます。祭り拝見も忙しく体力脚力が必要ですが体力強化のチャンスだと思えば楽しいものです。
今まで、ずっとビデオ撮影を続けてきましたがカメラマンも随分多くなり私の目的も一通り達せられたので今年は殆ど撮影していません。細部の再観察とアングルのロケハンをしています。
よく見ると改めて素晴らしいものだと思います。山車と人との見事なアンサンブルは一朝一夕で出来るものではありません。西洋文化の流入で、やたらと色々なイベントが行われますが一過性が多く殆ど後には何も残りません。
山車・お囃子など、蓄積され絶えず保存の為の努力がなされている事への理解が必要です。消耗・消費だけの行事は文化とは言えません。
永年の歴史と継承が結晶となるものです。その為には巨額な費用と努力が必要ですから永い時間を掛けての維持・育成が伴います。
これが本当の文化だとの思いを新たに致しました。


ブログ&Youtube 6.5

今や「ブログ」の利用は広く行き渡った感じがします。「ブログ」は、文字通り日記ですが気をつけなければいけないのは公開だという事です。
毎日の行動を、逐一、関係の無い人にまで知らせる事は一種危険なこともあります。
「ブログ」に自分の思いを書くこともいいのですが、親切な人ばかりではなく興味半分で見る人もあり、中傷、あるいは、貶す人もあるかもしれません。自己嫌悪や自信喪失に陥り悲しい結果をもたらすかも知れません。アクセスの数が多いことは張り合いを感じますが誰だかわからない事も不気味でもあります。
書く事に追われて、必要以上に話題作りをする為に多忙になり、それがストレスになってはいけません。
私は、「HP」も「ブログ」も、過渡期を過ぎて次の段階ににあると思います。学校の「裏サイト」の、いじめは悲劇を招いています。姿が見えないことを幸いに直接には言えない言葉を汚い文字で突きつけ、速やかな対応を要求するなど実に陰湿です。ここまで来ると自己防衛をしなければいけません。やたらと私的行動まで公開してはいけません。丸裸になるようなものです。
「HP」も「ブログ」もノルマがある訳ではないので義務だと感じてはいけません。
最近は、文字、画像の段階を超えて動画が溢れてきました。
「YouTube」です。2005年にアメリカで始まり、2007年には日本語版として登場しました。
取るに足らぬものと最近まで気にもしていませんでしたが「Google」の普及で「YouTube」にも簡単に接続できます。最初に現れる画面は際物やエロが目立ちます。ミーハー族には面白いかもしれませんが暫く見ていると碌なものは無く、その内にウンザリしてきます。
画質はデジタルビデオカメラ表示の半分(320*240)ですからフル画面では相当粗くなります。アップロードには制限があり、10分、100Mまでです。これは、普通のプロバイダーの、HP標準容量は50Mですから、その2倍しかも1ファイルだけですから遥かに想像を超える巨大なものです。個人の普通の「HP」での動画アップは事実上無理です。
問題なのは無断録画や無断パクリです。TV番組などの録画無断アップは著作権上不法ですが、国外でダビングしたものは現地語スーパーが入っています。明らかに海賊版ですがこういうものもあります。盗撮やモラルを疑う怪しいものもあります。小学生も高学年になれば「YouTube]を見ます。アニメをダウンロードしてパロデイ化したものがあり、替え歌などが面白がられているようです。家庭に対象になる子供がいる場合はアクセス制限が必要になります。野放しになってきたメディア規制を真剣に考えなければいけない所に来ています。
「YouTube」には検索機能があり、例えば「伝統芸能」とすると各地の行事が見られます。アマチュアのものもあれば自治体の外部団体製作のきちんとしたプロ製作のものもあり、長いものはシリ−ズの連作になっています。名古屋の祭礼では「若宮祭」「那古野祭」「筒井・出来町天王祭」「熱田祭」もあります。
TVニュースでは見られない場面が見れますから、その点では大きいPR効果は有ります。「那古野祭」は、06年のものですが、その時には正式依頼をされたと思われるカメラマンの方がアシスタントと共に撮影をしておられました。原本はハイビジョンと思いますが、それはどこかのライブラリーに有るのでしょう。その簡易版を「Youtube」にアップされたものでしょう。名古屋市都市センターかもしれません。「名古屋400年の歴史」とかがあります。「徳川園」はありますが「山車総揃え」や、ローカルな「八坂提灯祭」は、今は有りません。
「YouTube」には世界各国から、毎日30000を超えるアップがあるそうですが保存がどうなのでしょうか。ダウンロードにはその為のソフトが必要ですが画質には不満があり私にはその気はありません。
携帯にも対応しているようですが小型画面で見るには良いでしょう。
他には「美濃路」の全コース紹介などもあります。何事もそうですが物事には表裏が有ります。活用悪用はその人次第です。責任ある自己管理が一層必要だと感じます。


私の「お祭り考」 5.7

私の「お祭り」というのは、現住所である、一宮「桃花祭」については、戦後ずっと見て参加もしてきました。神輿渡御の御旅所が三分程の所にあり「真清田神社」を十一時に出発した神輿行列が1.5K程の道程を経て十二時前に到着。午後一時過ぎに還御されます。
その「御神興」に従い、多くの飾り馬が各町内から奉納されます。多くの人々が結集する見せ場でもあります。私の住む「殿町」は祭りの収め役である「押さえ馬」を奉納すると共に、「若殿・奴行列」を行う唯一の特別な役町内であります。戦後の混乱で中断していた「若殿行列」を、平成三・四年復活、その重要な役割の一端を果たし大きな成果を得られたことは名誉な事でした。

私は、幼時暮らした故郷としての「名古屋」が、大きく心象に留まっています。太平洋戦争やその他の事情が重なって止む無くその地を去る事になりましたが、五十才の時に、ある転機があり、自らの足で、早逝した両親の思いを探索する為もあり、ルーツの裏付けもあり、残され或いは復活されつつある「祭礼」や「遺構」「町並み」に思いを重ねてビデオに記録して来ました。
それまで消滅状態だろうと思っていた「筒井天王祭」「出来町天王祭」「若宮祭」「柳橋神明社」に行き始めて、今年で十五年目。「那古野祭」は六年目となりました。その間に「徳川園総揃え」が始まり四年目になります。
私が訪ねるのは名古屋市中心部が殆どです。それは自分の心に呼び掛けるものが有るからです。犬山、岩倉、津島、半田、知立も行きましたが、所縁が無く、単に見物の範囲になってしまいます。
残念なのは「東照宮祭」が事実上消滅状態(舞楽奉納のみ)という事です。明治維新により徳川幕府による大政奉還を以って武家社会は崩壊し、総てが明治政府に統治され廃城令による各地の城も多くが壊され、姫路・名古屋も消滅する所でした。御下屋敷や大名屋敷も国有化されました。徳川家康権現公を祀る「東照宮」も地元町内の行事としての運営として神事祭礼は存続されましたが大きな変遷となりました。それでも多くの「山車」や、人々の熱意で祭りは盛大に行われてきました。その様子は伊勢門水著「名古屋祭」で知る事が出来ます。
然し、決定的に壊滅したのは言うまでも無く太平洋戦争での大空襲によります。
名古屋城と共に一帯は灰燼に帰し町民の多くも住居を失いその地を去りました。
私は、空襲を東区葵町で受けその地を去りましたが、父は「長者町」で昭和十年まで生まれ育ちました。母の実家も昭和十九年の強制疎開立ち退きまで南外堀町に住み育ち、父に嫁ぎました。二人共に「東照宮祭」や「那古野祭」では氏子として盛んな祭礼の様子を見て参加もしていると思います。
私は、父母、祖父母が氏子として暮らし、祖母は地元芸妓の「盛栄連」に、常磐津、舞踊を教授していた事もあり一層の思い入れを持っています。

「筒井町」は、葵町から建中寺に至る徳川家御下屋敷の一帯であり、出来町が、徳川家大曽根御下屋敷に続きます。名古屋市は「市制初期区政100年」に当たり記念行事が行われています。100年前は、私の父が二才の時です。つまり名古屋市誕生と時期を同じくしています。

あれこれ、ありましたが、時は流れ、「最悪の時代」昭和が去り、平成も二十年を数えました。消滅・中断の危機を経ながらも「若宮祭」「那古野祭」は行われて来ました。
昨年の「那古野祭」は、百三十五年振りに「広井神明社」の、山車三輌が見舞車として試樂祭に訪問。氏子町内を巡行しました。本祭では、前年に続いて、大・中・子供・女神輿が若宮八幡社まで渡御・還御という歴史的な快挙が実現しました。その場に立会い記録が出来た巡り合せに感謝します。記録は総て関係者の方にお渡ししました。参考資料の一端にして頂ければ、私は勿論、先人にも喜んで頂けると思います。私の目的は一応果たせました。今後はゆっくりと拝見させて頂きます。

考えて見れば「明治維新」から、まだ百四十年経ただけです。四十才で戦死した父が生きていれば百二才ですが、僅か百年の間に想像も付かない歴史が展開しました。
NHKの大河ドラマ「篤姫」放送中ですが最後の将軍「徳川慶喜」による大政奉還の頃までの話のようです。
今は百年生き長らえるかもしれない時代です。
目先にとらわれる事なく、大局を見通し臨機応変に対応出来る広い気持ちが必要なのかと思います。


ブラスバンド2 4.29

27日、一宮市浅野公園で開催中の「つつじ祭」で「一宮マザーズアンサンブル」の演奏会があり、初めて聞きました。どういう団体なのかも知らずに行き、時間前でしたがブラスの音が聞こえてきたのでブラスバンドだとわかりました。名前どおりママさんバンドです。練習場所が木曽川体育館という事ですから、又々、木曽川中心の団体のようです。改めて木曽川地区の文化活動の活発さに驚きます。
ママさんバンドの結成は日本全国各地で、この所、多いと聞いています。学生時代に身に付けた演奏技術を復活したいという思いが纏まった形に結集したものでしょう。それぞれが「マイ楽器」ですが産休の人などもあり貸与もあるようです。
最近、ブラスバンドを集中して見る機会が増えています。
5月4日に、もう一つ「一宮ウインドアンサンブル演奏会」がありますから時間があれば行きますが、このバンドはセミプロクラスのベテラン揃いであり定期演奏会では演奏曲も本格的な吹奏楽曲と、ポピュラーな曲との二部構成になっています。
ひとまず、ブラス演奏会へは一区切りして、本来の日本音楽(最近は邦楽という名称がポップス・ロックなどにも使われ紛らわしい事になっている)へと、思いますが伝統行事も後継者不足、日程(神社・氏子の調整不備)の問題。生活習慣の変化など日常生活との乖離が進んでいます。伝統文化が一部の人達だけの特殊化する様子は残念な事です。
楽器や衣装などの問題はどうなのかと、ネットのサイト検索で調べて見ました。
ブラスの「ホルン」などは複雑な加工品なので数十万円はするのではないかと思いましたが入門品ならば5〜9万で購入できます。トランペットは2万円からも有ります。これはヤマハなどの楽器メーカーが量産体制を持っている事と学校が教育の一つとしての需要が有るからでしょう。
和楽器ですが、これは種類は多くありません。知られるものは、笛・太鼓・三味線・鼓などです。メロデイ楽器は、笛・三味線が主ですが、琴・尺八は演奏構成が違います。
手作りの工芸品に近く、かなり高価なものが多くなり、演奏も、また、唄、所作事(舞踊など)も口伝や個別でのお稽古が必要です。
洋楽器が簡単とは云いませんが入り易いことは確かです。在学中に習得できる機会がある事も大きいでしょう。
地域のお祭りで「お囃子」がある所では世代間で継承されていますが、地域・男女の差別などは取り払われ行く傾向はあります。少子化と過疎化が大きな理由です。
盆踊りも伝統的なものは現地特定化され都市では減少あるいは縮小傾向です。長続きせず使い捨てられる曲が次々出るのも困った事です。
ブームに乗せられるものはブームに潰される、虚しさが残るだけです。
「身に付けて良かった」と思える奥行きの深い文化に接したいという思いは齢百になっても続きます。断続的でも生涯、出来れば次世代までも継承できるものを身に付けたいものです。


ブラスバンド・合唱団 4.22

昨年秋頃から「ブラスバンド」「合唱団」の演奏会によく行きます。
列挙すると定期演奏会では「一宮合唱祭」「きそがわポップスバンド」「きそがわKIDS」「一宮高校吹奏楽部」「LUCKY CONCERT」「きそがわジョイントコンサート(男声合唱団G5・木曽川合唱団・女声コーラスもくせい・木曽川KIDS・きそがわポップスバンド)」「トリオアルテ三重奏」など。
イベントなどのオープン演奏では「修文・商業・興道・市民・ジュニアウインドなど」がレベルの高い演奏を披露します。
いずれも、アマチュアです。合併前から「木曽川町」には多くの団体があり地域で活発に活動していました。
日本画壇の重鎮川合玉堂氏の出生地でもあり纏まった文化活動の組織がありました。そこへNHKの大河ドラマ「功名が辻」の、山内一豊ゆかりの黒田城が存在した事。加えてクラボウの跡地に「キリオ」という巨大ショッピングセンターが出現。フロアに演奏会に絶好のステージもあり一層活動が活発になりました。旧役場にはコンパクトなホールはあり、いまは公民館として練習・発表が定期的に行われています。
平成二十二年には「木曽川文化会館」が開館予定で、ますます活発な展開が期待されます。
一宮には明治二十八年発足の歴史を誇る「消防音楽隊」があります。これはプロとも共演する別格の組織で定期演奏会は入場制限されるほどです。
一宮には市民会館(1500人の大ホール)がありますが、大きすぎて小組織のアマチュア団体では使いこなせません。アイプラザ一宮(旧名勤労会館)が650人で、音響・照明も馴れればアマチュアでも動かせます。数年前に、それまで無かった所作台(日本舞踊などの古典芸能に使う檜の敷き詰め板)が導入され、土日休日は予約で満杯です。地理的に不利で交通手段に難があります。市の中心部にこういう施設が切望されます。
「スポーツ文化センター」というのがありますが、これは講演には向いても音楽などの文化活動をする施設ではありません。
以前「市民文化講座」で、能楽笛方の「藤田六郎兵衛さん」の演奏がありましたが、演奏中に上の階から練習中か太鼓の音が鳴りはじめ誠に不快な思いをしました。藤田さんも悪い印象を持たれたとお察しします。
市内には多くの文化団体がありますが、文化活動を啓発できる中心的な核心を考えて欲しいと思うのは私だけではないと思います。ずーつと待っていますが、今の所その気配は感じられません。
ブラスバンドや合唱団、その他にもレベルの高い組織があります。
せっかく、良い苗があるのですから育つ土壌に入れ換えなければと思いますが出来ないんでしょうかね。

私は本来は日本の古典芸能派(能・歌舞伎・民謡・踊・祭など)なのですが機会が少ないので身近な芸能文化活動にも出掛けています。
仕事・勉強も大事ですが新鮮な活力を生み出すリフレッシュな文化活動が活発になることが必要だと私は思います。

私は七十才の時点で地域の役目も総て退いた、シルバー優待者ですから大声で発言する資格は無いのかもしれないので遠慮しながら話していますが・・。


人・さくら・祭り
4.7

桜と祭りの季節になりました。年も変わっていきますが人も桜も変わって行きます。
名古屋から金沢を繋ぐ「太平洋と日本海を結ぶ桜」の運命も様々です。
昭和四十一年(1966)名金線が全線開通、その時、車掌であった佐藤良二さんが国鉄バス名古屋営業所(当時中央線千種駅構内)に、第1号の桜を植えました。その桜は中川区高畑へのバス営業所移転により移植されましたが根付かず、二世の桜を、平成六年、白鳥町から、故佐藤良二さん(昭和五十二年(1977)四十七才死去)の姉、尾藤てるさんが持参、改めて植樹され立派に成長しています。
その「尾藤てるさん」が、三月二十七日亡くなられました。八十一才でした。てるさんは良二さんの遺志を継いで植樹などのイベントや、平成六年から始まった「さくら道国際ネイチャーラン250K36時間」や「さくら道ウルトラマラソン270K48時間(終了)」では、多くのランナーに声を掛け続けられました。
昭和四十八年(1973)一千本目の桜が「名古屋城」に植えられました。八重桜です。名古屋城御深井丸(西北隅櫓・乃木倉庫傍)ですが、大木の陰のせいか、あまり大きく育っていませんが、ここがネイチャーランの出発点です。「金沢兼六園」の千五百本目タッチがゴールです。しばらく表示板が無かったのですが新しく設置されました。ここの庭園は一部分が今年から「二の丸御殿再建の木材置きと作業場」になりますが通路は確保されるようです。
「稲沢赤池」の八重桜は風害と移植で小さくなりましたが小枝が伸びて来て枯れてはいないので暫く成長に時間が必要です。
私の家のすぐ近くの「一宮裁判所」の、枝垂れ八重桜と山桜。山桜は元気で、今満開です。枝垂れ桜は、数年前から枯れ始め、見る見る衰弱が進んだので、見かねて裁判所にお願いの電話をしました。庭園業者にお願いするとの事で、かなり綿密な診断と手当てがなされました。枯れたものは切断。今年は花は咲きましたが以前のようなも見事な姿はありません。まだ、かなり枯れた枝が有ります。然し根元から新しい枝が数十本勢い良く伸び上がっています。これは根元に強力な施肥を与えた効果だと思います。数年の内には花を付けるでしょう。枯れるものは枯れますが新しい力が立ち上がっています。
「木曽川町」の桜、黒田交番は新築時に無くなりました。
「クラボウ」の塀際に有ったソメイヨシノはキリオショッピングセンター南駐車場の植栽スペースに移植され成長し、昨年からは、かなり花を付けています。
人も桜も色々な運命があります。新しい命を育て途絶える事の無いよう継続させる努力を怠らなければ育って行くと思います。

六日、久し振りに「犬山祭り」に行って来ました。好天と満開の桜のもと十三輌の車山が「からくり」と道行きを繰り広げました。
車山は豪快ですが見逃しがちな関連行事を観察してきました。子供の金襦袢の豪華さは言うまでもありませんが、以前も見た「大母衣(おおぼろ)」「小母衣(こぼろ)」。五人の小母衣は本町を歩いて行きました。大母衣も見ましたが、かなり大きいので歴史文化史料館までで終りました。
他にも「練り物」が有ったのですが今回は見掛けませんでした。
犬山の車山には「梵天」を付けるのが特徴といわれています。その梵天が針綱神社参道石段中央に並んでいました。からくり奉納が終った町内は順次外して車山へ持って行く様子でした。
写真は既設のコーナーに追加してご紹介します。

訃報です。最後の犬山城主であった「成瀬正俊氏」が祭りを前に亡くなられました。七十七才でした。
「犬山城」は、国宝ながら個人所有でしたが、2004年4月「財団法人犬山城白帝文庫」が設立され所有権が移転されました。初代理事長には長女の成瀬淳子さんが就任、三代に亙る念願であったという、多くの史料の整理、展示公開に携わって居られます。
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