名古屋市公会堂 |
「名古屋市公会堂」については多くの情報が行き届いていますから改めて紹介は致しません。
私の個人的な思いを記します。
私は、父が名大医学部に勤務していた、昭和十二年(1937)から十五年までの三年間近くを、板橋町(現すかいらあく鶴舞店辺り)に家族で住み「曙幼稚園」に通いました。はずかしがり屋の私は、幼稚園での色々な恥かしい思い出があります。
鶴舞公園の東に曙町があります。訪ねて聞き歩きましたが「曙幼稚園」を知っている人は見付かりませんでした。
今も有る薬草店「本草閣」の前を通って鶴舞公園へよく行きましたが、ショーウインドウには天狗の人形が身体に一杯薬草を身に付けて立っていました。薬草の匂いが立ち込めて、ガラスビンには気味悪い虫や蛇が並んでいました。
フラスコや試験管などが並んでいる医学部の部屋へも行った記憶があります。建物の記憶はありませんが木造洋館の立派な建物はテラコッタ(レンガ)塀だけを残して戦火に消えてしまったんですね。塀の一部を残して記念門が復元されました。東の「鶴友会館」方には古い塀が残っています。
鶴舞公園は色々なイベントがあるので頻繁に行きます。園内の建築物・庭園・四季の花は、いつ行っても心癒されます。
「公会堂」は開催されている行事の参加者以外は入場出来ません。玄関で守衛(ガードマン)が、チェック監視しています。
使用中のホール(大・四階)や集会室には部外者は立ち入れません。地階の食堂「洋食亭」は営業中(常時ではない)は、利用者は利用出来ます。
私は若い時には「労音音楽会」に大ホールへ行きました。当時は市電が走っていましたが、終演後名古屋駅に帰る時、うっかり左回り(平田町〜大津橋〜菊井町〜名古屋駅)という大回りに乗ってしまって終電に間に合うかハラハラして帰宅した事がありました。
最近は入る機会がなかったのですが「名古屋駅前中小企業センター」が建替えになり、毎年八月、開催されていた「あいち平和の為の戦争展」が公会堂四階ホールで開催されるようになり、私は「戦争遺児・名古屋空襲被災者」という二つの立場で訪ねています。
その機会に全部ではありませんが内部を見る事が出来ましたので紹介します。大ホールや集会室は立ち入れません。
四階ホールはよく「ダンスコンクール」の様子がニュースで伝えられます。
野外奏楽堂も復元されました。噴水塔も戦後一時解体されたものが復元され飛沫が虹を描きます。
五日「花菖蒲園」と「バラ園」を見て来ました。「花菖蒲」は昨年は水不足で寂しかったのですが今年は以前の姿になりました。
水は近くにあって今は閉鎖された「サッポロビール工場」の余剰水が来なくなったのが原因と聞きました。今年は雨と一週間前の水入れがあったと手入れの人から聞きました。
残念なのは「花ハス(ピンク)」の消滅です。これは「名城公園(白)」も同じです。一年の内に消えてしまって復活していません。
「池さらえ、をしたのではないか」という話も聞きましたが、これは誠に残念です。
公私にわたり、有形、無形の多くの文化財を守り伝える事は能率優先のコスト社会では難しい事ですが、養分を絞り取った「搾りカス」からは何の芽も出ません。「ゆとり」のある、断絶されない社会を育てる事が重要だと思います。
五日の「徳川園山車総揃え」に、参加しておられた、九十九才の方と会話しました。
「生きとるだけでは、しょうがないわなぁ。毎日に張り合いがなければ・・。」
正にその通り。 感謝です。
名古屋市公会堂 まことにレトロな建物すみずみまで観察すると興味が付きません。建物そのものが美術品という感じです。素通りせずに立ち止まって下さい。 対面する噴水塔も同じくです。 |
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外観 | 中世のお城を思わせるアーチ | |
重厚な鋼鉄扉 | 玄関階段照明 | 階表示は初めはアナログ時計のような表示だったと思います |
玄関エレベーターホール 守衛が監視しています | エレベーターホール照明 | 地階食堂への階段 |
曲線が優雅な階段 | 二階・三階 ロビー・テラス | 二・三階は集会室 |
鶴のデザイン と思います |
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四階ホールアーム天井 | 入り口扉やカーテンも優雅・レトロ | 壁面装飾 |
四階ホール廊下照明 | このテラスに出て見ました | テラス越しの噴水塔 |
傷はありますが酷くはないです | 歴史を感じます | 両側に出入りの扉があります。四角いのは臨時吸殻入れ |
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