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平成二十四年那古野祭本祭 神輿渡御

久し振り(五年)に「那古野神社例大祭」の「百人神輿渡御」を見に行きました。

平成十九年、試樂祭・宵祭に、柳橋神明社の三輌の山車が百三十五年振りに見舞車として奉曳されました。
そのビデオ記録の為、翌日の本祭との二日間をDVD三枚に編集し関係の方にお渡ししました。

その後、平日(七月十五・十六日)に当たっていたのと、神明社山車の奉曳は実行されていませんので出掛けていませんでした。ビデオの記録もあれが限界でありました。

今年は加齢により、足腰にも不安が感じられるようになりましたから「神輿帰還」の錦通り本町交差点での子供神輿合流(四時頃)からビデオ撮影して来ました。気になっていたのは「河文」の玄関付けでした。既にマスコミなどで伝えられた「河文」のレストランチェーンへの経営譲渡です。

名古屋きっての老舗料亭「河文」は、元禄年間(16881704)に、料亭を初代河内屋文左衛門が中川区下之一色から来て始めました。初代は元禄十四年(1701)に亡くなりましたが現在は十二代目(林永治郎さん)ですが、安政五年の地震、太平洋戦争の空襲による全焼など、数々の苦難を乗り越えて来られました。空襲時、僅かに残ったのは樹齢三百年といわれる椎の樹と名古屋城への抜け穴と言われる井戸だけだったという事です。
今や、名古屋の料亭は時代の変化と共に次々廃業、姿を消しています。

「河文」も敷地の一角をレストランチェーンに委託「河文イタリアン」として数年前から営業を開始しています。
この度、「料亭河文」も文化財指定の外観はそのままに内部を改装、今までは特定の高級客への対応を一般の人も利用しやすいように内容を変えました。元禄以来の伝統を引き継ぐには個人には余りに負担が重く「河文」という伝統と名誉を将来も引き継ぐ為、当主が英断されました。
今後も維持・繁栄をされる事を願います。

さて「神輿帰還」の、宮入り前の伝統の「河文玄関付け」が「今年はどうなるのだろう」という気掛かりです。それは全くの杞憂に終わりました。今まで通りで、何の変更も無かったのです。「河文」ご家族、仲居さん達。白衣の料理人数十人(初めて見ると思われる神輿の押し戻しの迫力に大拍手)が出迎え接待、見送りました。

那古野神社宮入りは五時二十分。大・中の神輿、女神輿(二輌)子供神輿(二輌)獅子が納められ目出度く神事は終了致しました。

思えば平成十四年、長らく中断し復活を待ち望んでいた「百人神輿」が人数が満たない為、中神輿で再開されてから毎年出掛けていました。
平成十五年「大神輿」が登場しましたが八十人程の担ぎ手で交代の余裕が無くヘトヘトでの往復渡御でした。

平成十六年、「まさか・・」と思った「大・中・神輿」二輌を「若宮八幡社」で見た時は驚きました。
(この時はあまりの暑さに、三時から出掛け、復路からの撮影でした)
それ以降、毎年、大・中・二輌の渡御が定着し今年に至っています。

「復活はまだか、まだか・・」と待ち、五年続けて行きました。その間の記録は既にお伝えしました。

平成十八年、宵祭の団尻提灯は既に例年行われていましたが、境内笹提灯が復活点灯しました。

その年、奉納舞踊で「春の栄」を踊られた方に、今回境内でお目にかかったので「以前、踊りを拝見しました」と声をお掛けしました。
「はて、どちら様でしたか・」と言われましたので、翌年の奉納舞踊の時、「昨年、拝見しましたが今年はおやりにならないのですか・・」と声を掛けました。「もう、高齢なので若い人にお願いします」と言われました。
今回の会話では「あの時は八十才でした」という事ですから、今は八十六才になられているのですね。「古典舞踊しかやらない」というお話なので「この辺りは矢張り西川流でしょうか」
「私は赤堀流で家元に四十年教わりました。現在は孫の加鶴絵さんですが、初代鶴吉さんからの弟子です」

「古典の師匠から教わる新曲は踊りますが歌謡舞踊は踊りません」と言われました。

私も、赤堀流の師匠(菊秀さん)に師事し「長唄・松の緑」や、端唄・小唄などを習いました。縁あって、花柳流も端唄、小唄を二・三曲習いました。
民踊も、かなり、やりましたが、最近の盆踊りは現地(郡上など)は、ともかく、浴衣が少なくなり、郷土民謡も少なくなり、法被や奇抜な衣装など、ガラが悪くなったので最近は参加致しません。


「河文」さんでの玄関付け

気に懸かっていた行事は立派に行われ
今後も変わりなく続けられると
安心しました。
「料亭河文」玄関先 「和風料亭河文」の皆さん
大神輿の玄関付け 押し戻し三回 大・中 二輌の神輿が玄関付け 差し上げ ハンチングは「河文イタリアン」の皆さん
ご祝儀の木遣り 「河文イタリアン」の前を行く 那古野神社宮入り 納めの三本〆
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